第八話 最後に遺した愛の証明
柚木はアクセルをさらに踏み込み、伊豆高原の深い闇へと突き進む。伊豆高原のスマートシティまで、あと数キロ。
「お前の立てたそんな死亡フラグごと、俺がへし折ってやるよ!」
柚木が力強く叫んだその時。フロントガラスの向こう、闇の彼方に、スマートシティの煌びやかな光が希望のように見えた。
勝った。そう確信して、海岸線のT字路交差点に差し掛かろうとした、まさにその時だった。
「――っ!?」
進行方向の左手、漆黒の闇の中から信号を完全に無視した大型トラックが猛然と現れた。サーチライトのような強烈な光を放つヘッドライトが、真横から二人の視界を白色に塗りつぶす。
「あぁっ、横っ!」
美桜が叫ぶが早いか、数トンの鉄塊は寸分の狂いも無く左側面に衝突した。それは回避も、防御も、電子制御による介入すら許さない、純粋な破壊エネルギーの奔発だった。
――ガォォォォンッ!
鼓膜を突き破るような破砕音が響き、美桜の短い悲鳴が重なる。
大型トラックのバンパーによって紙細工のように押し潰されていく。柚木が心血を注いで操っていたフルミネGTは、物理的な破壊エネルギーによって一瞬にして粉砕された。
脳を直接揺さぶるような凄まじい衝撃。
タイヤはアスファルトを離れ、四輪駆動の制御を失ったまま夜の宙へと弾き飛ばされた。
横転しながら火花を散らす車体。その勢いのまま、強固なはずのガードレールを軽々と突き破る。支柱が折れる鈍い音と、ねじ切れた鋼鉄が夜空に舞う金属音が、柚木の遠のく意識の中でスローモーションのように再生された。
「うそでしょう!」
美桜の悲痛な叫びが、風の音と共に柚木の耳に届く。
上下が逆転した視界の端、崖の上にそびえ立つ大型トラックの黒い影が見えた。その背後には、まるでこの惨劇を冷笑するように、青白く冷徹な満月が浮かんでいる。
一瞬の、奇妙な静寂。
重力から解き放たれたような浮遊感が、粉砕された車内の柚木を包み込む。月光に照らされた相模湾の海面に向かって、美しい放物線を描きながら真っ逆さまに堕ちていく。銀色の鱗のように煌めいていた水面が、猛烈な勢いで眼前に迫り来る。
――ドォォォォォンッ!
静まり返っていた夜の海に、巨大な水柱が上がった。
車は海底の岩礁に引っかかったのか、あるいは奇跡的な浮力のバランスか、完全に沈み切る直前でその挙動を止めた。だが、それは救済というにはあまりに細く、残酷な希望だった。
九月末の相模湾は、まだ夏の終わりの余熱を色濃く残していた。車内を満たした海水は、生温かいスープのように体温をじりじりと吸い上げ、感覚を麻痺させていく。このぬるさは、まだ戦えるという誤認を与え、無駄なエネルギーを消費させた。だが、水中に没した柚木の下半身からは、着実に生命の熱が逃げ出している。
「あ……っ、ふ……」
海水が車内を満たす速度は、柚木の絶望と同期していた。
柚木は助手席側へと体を寄せる。
「ごめんなさい。抜け出せないの。あなたは逃げて」
美桜の声が、狭い車内の水面に反響して震えている。衝突の凄まじい衝撃で、助手席のドアは無残に内側へひしゃげ、シートごとセンターコンソールに押し込まれていた。その僅かな隙間に、美桜の体は挟み込まれている。
シートベルトの留め具はコンソールの歪みに飲み込まれ、美桜の手ではもう届かない。それでも柚木は、感覚の消えかかった右手を無理やりその隙間へと突っ込んだ。指先はすでに自分の意志を離れ、ふやけた粘土のように感覚を失っている。コンソールに食い込んだバックルの感触を探り当てることさえ、絶望的な難作業だった。
「ちょっと、噛んでんの?」
「ほう、はふは」
「バカね、無理よ。はは……フラグ折るつもりだったのに、何よこれ……」
必死にシートベルトを噛みちぎろうとする柚木の、なりふり構わぬ姿。それを見た美桜の瞳からは、可笑しそうに笑う表情とは裏腹に、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
車外では、穏やかな潮の流れに合わせて、車体が岩礁の上で「ギィ……」と鈍い音を立てて揺れた。そのわずかな揺れが、皮肉にも天井に残っていた貴重なエアポケットを大きな気泡に変え、窓の外へと逃がしていく。
(頼む、少しでも長く浮いていてくれ!)
バックアップの命綱は、車の屋根に設置されたアンテナによる衛星通信だ。あのアンテナが海面へ完全に沈み、電波が遮断されるのが先か、転送が完了するのが先か。
辛うじて顔が水面から出ている美桜を見つめる。水面越しに差し込む満月の光は、波に揺られて銀色の蛇のようにのたうち、暗い車内に淡い波紋を投げかけている。
柚木は、感覚を失いつつある手で美桜の頬をそっと撫で、その体を強く抱きしめた。
「美桜、愛してる」
「私も」
「必ず、一緒になろう……な?」
海水のぬるさが、かえって境界線を曖昧にさせ、意識を心地よい眠りへと誘っていく。極限状態の脳が、失われゆく生命の灯火を燃やして、幸せな幻覚を見せ始めていた。明るい陽光が差し込むリビングルームで、美桜と、二人の子どもたちと笑いながら動画を撮っている、ありふれた、しかし最高に幸せな未来の夢を。
深く暗い海の底へと沈みゆく車の中で、二人は完全に意識を失った。沈黙に包まれた海底。寄り添う二人の腕に装着されたスマートウォッチの画面には、ルーフのアンテナが完全に海面に飲み込まれ、衛星との通信が途絶するコンマ数秒前――最後のパケットが宇宙へと昇った瞬間に受信した、一文が表示され続けていた。
【SYSTEM MESSAGE】
『全てのフェーズが完了しました』
相模湾の海面に、満月だけが、その銀色の光を落としていた。
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