第九話 バグの目覚め
相模湾の、あの生ぬるい水の感覚が最後だった。
肺に食い込むような水圧と、美桜の冷たくなった肌の感触。暗い海の底へ堕ちていく絶望の中で、意識はプツリと断線したはずだった。
(暗い。体が、重い……ここは、どこだ?)
ぼやけた視界の向こうで、赤い光が明滅している。
ガンッ、とハッチが乱暴に開けられ、冷たい空気が流れ込んできた。見覚えのある男の太い腕が、動かない柚木の体を強引に、だが優しく抱き上げる。
(天見? お前、こんな所までまさか?)
「しっかり掴まってろよ、お前らだけは絶対に死なせないからな!」
必死な天見の怒号と、彼の胸から伝わる激しい心音。
柚木の意識は再び深い闇へと沈んでいった――。
「うわぁっ、ぷ……ッ、はぁ、げほっ、ごほっ!」
次の瞬間、肺に飛び込んできたのは水ではなく、湿気を含んだ空気だった。柚木は激しく咳き込みながら、無意識に座席の端を掴んだ。視界の先は見覚えのある海岸線。つい先程まで愛車のフルミネGTで駆け抜けたワインディングロードだ。
(助かったのか? いや、ここはどこだ。俺の車じゃない……)
横を見ると、ステアリングを握っているのは美桜ではない。見覚えのある、だが今の状況にはそぐわない、険しい表情をした女だった。
「ちょっと、大丈夫!? 急に飛び起きて……変な夢でも見たの?」
女の鋭い声が飛んでくる。柚木は混乱の極致にいた。つい数秒前まで、自分は死ぬ間際の海中にいたのだ。
「は? はぁぁ……!? あんたこそ誰だ! っていうか、ここは……はっ、俺は助かったのか? 美桜は!? おいあんた、美桜……いや、三十くらいの女性で佐伯美桜って言うんだが、俺と一緒に崖から落とされたんだ。どこにいる、あいつは無事なのか!?」
一気に捲し立てた自分の声に、柚木自身が凍りついた。高い。あまりにも、声が高い。まるで変声期前のガキのような、甲高い響き。
「サエキミオ? 崖……? ちょっと、何言っているのよ。君、ショックで頭打ったんじゃない? 私は勝又萌子。ジャーナリストよ」
勝又は呆れたように、しかしハンドルを握る手は緩めずに続けた。
「私が下田でランチを食べていたら、いきなり大音響がして……大室山と天城山が水蒸気爆発を起こしたらしいのよ。警察もパニックで誰も捕まらないし、駐車場でポツンと残されていた君を放っておけなかったから、とりあえず私の車に乗せたの。今、避難所に向かっている最中だから。わかった?」
(水蒸気爆発? 下田?)
柚木は窓の外を見た。空は厚い灰色の雲に覆われ、正午近いというのに薄暗い。だが、違和感があった。研究員としての冷静な回路が、目の前の光景をスキャンする。
(大室山と天城山が同時に? それに、この爆発のタイミング。俺たちが消された直後だぞ。待てよ、あの二つの山が本当に吹いたなら、下田あたりはもっと地響きや熱風があるはずだ。音だけがデカい偽物?)
「少し待ってくれ、どういう事か? ちくしょう、頭が混乱しているのか。ちょっと整理したい」
柚木は自分の小さな頭を両手で抱えた。
本来なら、意識の継承はされないはずの人造体へのオーバーライド。それが自分として目覚めているというバグ。そして、目の前には政府の不正を追っているはずのジャーナリスト。
「整理したいのはこっちの方よ。まあいいわ。避難所に着くまで、大人しくしてなさい。でも、『サエキミオ』だっけ? お母さんかしら? その人が崖から落とされたって話……あとで詳しく聞かせてもらうわよ。私の勘が、それがただの事故じゃないって言っているわ」
勝又は不敵に笑い、アクセルを踏み込んだ。柚木は膝の上に置かれた小さな拳を強く握りしめた。美桜が命を懸けて実行したリカバリプラン。俺がこの体で目覚めたのなら、彼女の魂も、どこかのシステムの中で生きているはずだ。
「勝又萌子、あんたの事は知っているぞ。政府に噛み付く異端のジャーナリストだってな……そうだ、あんた、特大のスクープが欲しいだろ? 避難所なんて行っている暇はないぞ」
「え?」
少年の姿をした柚木が、鏡越しに勝又の瞳を射抜いた。その眼光は、到底子供のものではなかった。
「俺は柚木健と言う、日本サイバトロニクスの研究員だ」
隣でハンドルを握る勝又は、一瞬だけ柚木を横目に見て、それから吹き出すのを堪えるように鼻を鳴らした。
「えぇと……スズキ君? 君はその若さ、というかその幼さで研究員ということでいいのかな? 飛び級どころの話じゃないわね」
「柚木だ」
「ごめんなさい、ユズキ君ね。まあいいわ、その設定に乗ってあげる。よかったら事情を話してくれないかしら。ジャーナリストとして、力になれるかもしれないわよ」
勝又は面白がるように片方の眉を上げ、口元に笑みを滲ませた。
柚木は深くため息をつき、自らの現状――相模湾での転落、実行されたリカバリプラン、そして目覚めた瞬間の違和感について、淡々と、かつ論理的に語り始めた。政府が心血を注ぐヘブンの裏側に隠された、おぞましい実態を教える。
柚木の言葉に嘘や揺らぎがないことを悟ったのか、勝又の顔から徐々に余裕が消えていく。
「それで、やっぱり組織の変な薬でも飲まされて体が小さくされたのかしら?」
「まずはアニメの話から離れようか」
柚木は呆れたように首を振った。
「この体は生身じゃない。サイバトロニクスが極秘開発していたホムンクルスのプロトタイプだ。成長の途中で出されたから、子どもの姿なんだよ」
「つまり、それはクローンってこと?」
「遺伝子をコピーしている訳じゃないからクローンとは違う。人工核を持つ細胞で構成されているからな」
柚木は自分の小さな手を見つめる。
「本来なら、あらかじめインストールされた別の人格が目覚めるはずだった。セーフティ機能を実装したのは俺たちだからな。……こりゃ、とんだバグだ」
柚木は自嘲気味に笑った。自分の意識が完全に消滅する前に、ヘブンの真実を世間にぶち撒けなければならない。
「君、さっきから言っていることが専門的すぎて、逆に怖いわよ」
勝又は、少年の妄言だという綻びを探るべく、あえて意地悪な専門用語や、日本サイバトロニクスの内部に関する質問を矢継ぎ早に投げかけてきた。だが、柚木はそのすべてに、一分の一秒の淀みもなく、現役の研究員としての知見を難なく答えていく。やがて、勝又はぐうの音も出なくなったのか、黙り込んで強くハンドルを握りしめた。
「わかったわ、ユズキ。いや、柚木健さん。東雲の研究所ね。いいわ、ジャーナリストの直感が『こいつは本物だ』って吠えている。行きましょう、あいつらの牙城へ」
勝又は不敵に笑い、アクセルを力強く踏み込んだ。
「ただし、一つだけ条件よ。その体が元に戻るのか、あるいは消えちゃうのか知らないけど、それまでは私の特ダネとして、片時も離れず記録させてもらうわよ」
「好きにしろ」
柚木は、小さなシートに背中を預けた。
勝又の駆る車は、沼津の街を抜け、沼津インターチェンジから新東名高速道路へと滑り込んだ。東京の研究所までは、順調にいけばあと二時間ほどの距離だ。
お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。




