第七話 何度でも恋して
沼津インターチェンジが近づく。柚木は右足に力を込め、モーターの暴力的なトルクを呼び覚ました。
「今だ、美桜!」
「了解! 偽装パケット射出!」
美桜がエンターキーを叩いた瞬間、追っ手のナビ画面と付近の道路監視カメラの中で、フルミネGTは「直進して名古屋方面へ向かった」という偽の残像を刻みつけた。
そのコンマ数秒後、実物は目にも留まらぬ速さで沼津のランプウェイへと急旋回し、伊豆縦貫自動車道へと飛び込んだ。
「巻いたわ。あいつら、今ごろ富士を越えて静岡市内を血眼で探しているはずよ」
「まだだ。ここからが本当の逃走だぞ」
柚木は伊豆中央道を抜け、修善寺から険しい山道へと入った。西伊豆の山塊を貫く土肥方面へのルート。街灯一つない漆黒のワインディングロードこそ、フルミネGTの本領発揮だった。
内側のタイヤが路面を掴む感覚が、ステアリングを通じて柚木の掌にダイレクトに伝わる。モーターの駆動音は静かだが、その加速は夜の静寂を切り裂くナイフのように鋭い。土肥の海に突き当たると、そこからさらに海岸線を南下し、目的地の東海岸へと回り込む。
「伊豆高原次世代スマートシティに向かうのね。あそこの都市OS、私たちが書いたプロトタイプと共通よ。ハックどころか、私たちの庭ね」
「ああ。あそこなら、インドの連中と連携して最高のサマトヴァをバラ撒ける」
土肥を抜け、西伊豆の断崖を縫うように走る国道一三六号線。右手に漆黒の駿河湾を見下ろしながら、ワインディングを疾走する。
「巻いたはずじゃなかったのか」
柚木はバックミラーを睨みつけた。漆黒の闇の奥、二つの鋭いハイビームが、執拗に追いかけてくる。美桜が情報を攪乱していたはずだが、偶然か、あるいは現場の勘に優れた追手がいたらしい。
「健、後ろの車……データに照合したわ。柿枝首相直属の諜報部隊が使う追跡車両よ。ただのセダンじゃない、エンジン出力も足回りも怪物級に改造されてる!」
美桜がノートPCの画面を叩きながら叫ぶ。追っ手の車両は、威圧的な黒い塊となって距離を詰めてきた。
「重たい図体で、どこまでついて来れるか、な!」
柚木はアクセルを床まで踏み込んだ。
四輪駆動システムが、瞬時に膨大な電流をモーターへと叩き込む。空気を切り裂く高周波の唸りと、内臓を押し潰すような強烈なGが車内を支配した。
松崎を越え、道はさらに険しさを増す。右は断崖、左は切り立った山肌。ガードレールのすぐ先には、暗黒の海が大きな口を開けて待ち構えている。
「健、危ない!」
ヘアピンカーブの入り口で、追跡車両がフルミネGTのリアを強引に小突こうと鼻先をねじ込んできた。柚木はステアリングをわずかに修正し、回生ブレーキを最大限に効かせてコーナーへと飛び込む。物理法則をあざ笑うかのように路面を掴んで離さない。一方で、追跡車両は、重い慣性に耐えきれず、タイヤの悲鳴と共にアウト側へと膨らんだ。
「電気自動車の加速を、ガソリン車で追おうなんてのが間違いなんだ」
柚木は一気に立ち上がりで引き離すと、下田の市街地へと滑り込んだ。深夜の港町は、静まり返っている。柚木はあえて狭い路地を縫い、追っ手の視界から一瞬だけ外れる。
「美桜、下田から河津へ抜ける国道一三五号線の交通状況は?」
「ライブカメラをハックしたわ。先の方で工事規制がある。そこを抜ければ、一気に河津まで突き放せるはずよ!」
下田を抜け、白浜の海岸線を疾走する。追跡車両は再び背後に迫っていたが、その距離は先ほどよりも開いている。
河津へ続く上り坂のワインディング。柚木は走行モードを『コルサ』へ切り替えた。ダッシュボードの有機ELディスプレイが深紅に染まり、足回りが鋼のように引き締まる。急勾配のカーブが連続する区間で、柚木は一切の迷いなくアクセルを開け続けた。夜の闇に放たれた一本の矢となって、追跡車両を置き去りにした。
河津の街へ降りた頃には、バックミラーから不吉な光は完全に消えていた。
「ふう。どうやら、あいつらも天城の山道まではついて来れなかったみたいだな」
柚木はステアリングを握る手の力を少しだけ抜き、河津から伊豆高原へと続くバイパスへと車を向けた。美桜は通信状況を確認し、小さく頷く。
「健、今の追いかけっこで笹山のシステムに少しだけ負荷を混ぜておいたわ。しばらくは、誰も私たちの正確な現在地を追えないはずよ」
「よくやった。さあ、スマートシティまであと一息だ」
ヘッドランプが、静かに夜の東海岸を灯す。相模湾の向こうでは、天見が自分たちとは別の闇の中を走っている。その命の灯火を信じながら、柚木はアクセルを踏む。
伊豆高原へと続く漆黒の海岸線を滑るように進む。バックミラーに追手の光は消えたが、目に見えないデジタルの包囲網が刻一刻と自分たちを追い詰めている感覚を、柚木は肌で感じていた。
深夜のキャビンを、ダッシュボードのディスプレイが淡く照らしている。沈黙に耐えかねたように、柚木が不意に口を開いた。
「こんな時に言うのもなんだけどさ、この騒動が片付いたら、俺と結婚しないか?」
一瞬、モーターの駆動音だけが響く静寂が訪れた。美桜は呆れたように隣を向き、眉をひそめた。
「なんで今そんな事言うかな。ムードも何もあったもんじゃない」
「でもスリルはあるだろう。いや、今を逃したらもう言えなくなりそうでさ」
柚木は前方を凝視したまま、自嘲気味に笑った。ステアリングを握る手には、じっとりと冷や汗が滲んでいる。美桜は視線を外し、窓の外を流れる暗い海をじっと見つめた。そのまましばらく、黙って何かを考えている様子だった。
やがて、彼女は小さく息をつくと、柚木の方を向いて決然と言った。
「わかったわ。覚悟を決めた」
「覚悟て」
「あのね、それってフラグなの。私達、多分もうすぐ死ぬわ。だからね……」
美桜は自身の腕にあるスマートウォッチの画面を呼び出し、柚木に向かって見せた。そこには、かつて二人がふざけ半分で構築した、あり得ないほどの極限状況を想定したスクリプトの起動待機画面があった。
「ねえ、昔、検証実験の悪ノリで作ったやつ、覚えてる?」
柚木の目が、驚きに細められた。
「あらゆる事象に備えた最適リカバリプランか。ふっ、まさか本当に使う日が来るとは思わなかったけどな」
「ええ、本当にそのまさかになっちゃったかも。緊急ルーティング変更、および衛星通信を用いた強制アップロード。プラン実行!」
美桜がスマートウォッチの画面を迷いなくタップした。 たった一つのその動作で、事前に組まれていた複雑なリカバリスクリプトが即座に呼び出され、実行される。
「始まったわ。この車がどうなろうと、私たちがどうなろうと、サマトヴァの種子は世界中にバラ撒かれる。これで、文句ないわね?」
美桜の言葉に、柚木は深くアクセルを踏み込んだ。
「最高だ。最高の舞台だな、美桜」
フルミネGTのキャビンを包むのは、加速するモーターの微かな唸りと、刻一刻と迫る「終わり」の気配だった。美桜がスマートウォッチを操作する手元から、青白い光が彼女の横顔を冷たく、しかし美しく照らし出す。
「もし何かあったら、プロトタイプの人造体にバックアップをオーバーライドするわ。ほら、あなたもお願い、承認して。今のプロポーズごと、全部ね!」
美桜の声は少しだけ震えていたが、その瞳にはエンジニアとしての冷徹な決断と、一人の女性としての切実な願いが同居していた。柚木は一瞬、隣の彼女を見やり、それから弾かれたように力強く頷いた。
「じゃあ……オーケーって事でよいんだな?」
「ええ」
美桜の小さな肯定を聞いた瞬間、柚木は「しゃぁっ!」と拳を握り、キャビンに喜びの声を響かせた。
「ただ、あの子たちには、もう別の心が育ってる。私たちが持っていけるのは、『あなたを愛している』っていう記憶の欠片だけ。……今の私たちは、ここで消えちゃうのにね。だから……もしそうなったら、その記憶を頼りに、もう一度私を見つけ出して、恋をして。それから、結婚式を挙げましょう」
美桜は言い終えると、また逃げるように視線を落とした。暗い車内では、彼女の頬がどれほど赤く染まっているかを確認することはできない。
(昼間だったら、最高の特等席だったのにな)
柚木はステアリングを握り直し、少しだけ残念そうに口角を上げた。だが、軽口で誤魔化そうとしても、ハンドルを握る手は微かに震えていた。
『もう一度恋をして』――その切実な願いは、今ここで息をしている自分たちの意識が確実に死を迎えるという、残酷な事実の裏返しだ。それでも彼女は、絶望の代わりに、途切れない愛を未来へ託そうとしている。
「上等だよ。何度でも恋してやる。お前が呆れるくらいにな」
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