第六話 囮になった深紅のスポーツセダン
柚木は、背後で足取りが重くなっている天見に気づいて振り返った。
天見はエレベーターの扉の前で立ち止まり、まるで何かに耳を澄ませているかのような、虚ろな表情をしていた。
「柚木……」
「なんだよ、追っ手がそこまで来ているんだぞ!」
地下駐車場に着き、愛車が待つ暗がりに飛び出した。フルミネGTが柚木のスマートフォンを感知し、ヘッドライトを点滅させてロックを解除した。しかし、天見はそのドアに手をかけようとはしなかった。
「二手に分かれよう」
天見の口から出たのは、思いも寄らない言葉だった。
「何を言ってやがる。一緒に逃げるに決まっているだろ」
「今の特定は、俺を……探知するためのものだ。俺と一緒にいれば、柚木たちまで確実に捕まる」
天見の声には、これまでにない頑なな響きがあった。その視線は、柚木ではなく、遥か東の方角――自分たちが捨ててきた東雲のラボの方へと向けられている。
(こいつ、まさか)
柚木は直感した。天見の様子がおかしいのは、恐怖のせいじゃない。ラボに残されたプロトタイプの悲鳴を、その脳内が捉えて離さないのだ。自分だけが逃げることを、彼の意識が拒絶している。
「ふざけるな、天見! 自意識過剰かよ! お前一人でどこへ行くってんだ」
「心配するな、俺が囮になる。柚木は美桜さんを連れて、ここから離れてくれ」
天見は一歩、また一歩と後ずさり、地下駐車場の出口へと続く暗闇に身を隠そうとしていた。
「待て、天見! 勝手な判断すんじゃねえ!」
柚木の叫びも虚しく、天見はぎこちない笑みを浮かべると、夜の芝浦の街へと走り出した。
「健、どうするの!? もう一分も猶予はないわ、笹山の部隊がビルの外に……!」
美桜の切迫した声と、遠くから聞こえてくるサイレンの音。柚木はスマートフォンを握りしめたまま、逃げ去った天見の背中を見つめた。
(一人で死ぬ気か、あのバカ。里村先生から託されたのは、知識だけじゃねえだろ……!)
逃げ去った天見の背中が、非常階段の暗がりに消えた。柚木は、空になった助手席を見つめ、奥歯を噛み締めた。
「健、何を……早く乗って!」
助手席に滑り込んだ美桜が叫ぶ。だが、柚木はスマートフォンの画面を指先で弾いた。
「あいつが囮になるなんて、百万年早いんだよ」
柚木は、日本サイバトロニクスの全社内広報、そして笹山個人が所有する秘匿端末へ向けて、メッセージを作成し始めた。震える指先が、怒りと決意を込めてフリック入力を刻んでいく。
『笹山。お前が喉から手が出るほど欲しがっている、不老不死の器――「ホムンクルス」の設計書は、今俺の手元にある。これはお前らには絶対に渡さない。俺がこのまま、墓場まで持っていく。地獄で後悔してろ』
送信ボタンを叩きつける。その瞬間、このスマートフォンのGPS信号は、全世界の監視網にとって最も価値のある標的へと変わった。美桜が築いた偽装パケットの壁を、自ら内側からぶち破るような真似だ。
「健! 何をしたの……それじゃ、私たちがどこにいるか……」
「ああ、今この瞬間に、俺たちが世界で一番殺したい標的になった。これで、逃げた天見からは意識が逸れる」
柚木は、コンソールパネルのスタートボタンを押す。静寂の中に、フルミネGTの起動音が力強い唸りを上げる。有機ELディスプレイに『ALL READY』と表示され、全システムが戦闘態勢に入る。
「美桜、掴まってろ。笹山の犬どもに追いつける代物かどうか、試してやる」
アクセルを踏み込むと、フル電動の四輪駆動システムがアスファルトを力強く蹴り上げた。重力を無視したような暴力的なトルクで、地下駐車場の急勾配を駆け上がっていく。
地上に出た瞬間、数台の黒塗りのセダンが、芝浦の交差点でこちらを待ち構えていた。だが、柚木の視界に恐怖はない。
「設計書が欲しいなら、ここまで取りに来いよ、笹山!」
柚木はステアリングを鋭く切り、加速する光の線となった。笹山に送ったあのメッセージは、ただの挑発ではない。それは、天見が逃げるための時間と自由を、自分の命をチップにして買い戻すための契約書だった。
バックミラーの中で、笹山の追跡部隊が一斉に反転し、こちらを追い始める。天見の消えた方向とは、真逆の方角へ。
(行け、天見。お前は生きろ。里村先生が遺したかったのは、誰にも支配されない、お前自身の意志なんだからな)
芝浦の地下駐車場を飛び出したフルミネGTは、猛然たる加速でアスファルトを噛み、首都高速都心環状線へと滑り込んだ。
「健、追っ手の第一波が首都高に乗ったわ! あいつら、完全にあなたのメッセージに釣られてる!」
助手席で美桜が叫ぶ。彼女のノートPCには、笹山の息がかかった警察車両と私設部隊のGPSが、真っ赤な毒の飛沫のように表示されていた。
「狙い通りだ。しばらくは都心を回って、あいつらを十分に温めてやる」
柚木はステアリングを操り、夜のビル群を縫うように疾走した。超低重心ボディは、首都高のタイトなコーナーを、まるでレールの上を走るかのようなラインでクリアしていく。
霞が関、谷町ジャンクションを抜け、三軒茶屋から東名高速道路へと合流する。行き先は「名古屋方面」。あえてGPS信号を遮断せず、笹山には自分たちが西へと向かう逃亡者であると確信させた。
「海老名を通過。向こうは完全に、俺たちが名古屋か大阪の拠点に逃げ込むと思い込んでるぞ」
「足柄を過ぎたあたりで、美桜、例のゴーストパケットを準備して。沼津で勝負をかける」
深紅のフルミネGTが、夜の東名を矢のように進む。背後には数台の黒塗りの車両が一定の距離を保って張り付いている。設計書という餌を食わされた彼らは、柚木を仕留める機会を慎重に窺っていた。
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