第五話 反撃のラボ
東雲の研究所の隣、かつては空き地だった場所に完成した巨大な建物――ヘブン移行センター。柿枝総理の会見と同時に、その建物の正面ゲートがゆっくりと開き、羊の群れのような研究員や職員たちが、吸い込まれるように中へ入っていく。
あそこに入れば、二度と肉体へは戻れない。意識をデジタル化され、笹山が支配する偽りの天国へ吸収される。
「美桜。里村先生の事故を調べるにしても、まずはここを出なきゃ話にならない。天見のいう通り俺たちの記憶と知識は奴らにとって消したい存在だ。準備はいいか」
「ええ……。健、天見君。地下駐車場のハッチ、私が裏からこじ開けるわ。笹山が気づく前に、東雲を抜けるわよ」
美桜が、涙を拭い、キーボードに指を置いた。
「柚木。先生は、これを止めたかったんだな」
天見の瞳から、狼狽が消え、静かな、だが燃え上がるような意志が宿った。
「ああ。そして、それを止める権利があるのは、お前だ。先生の『息子』なんだろう?」
柚木は、脱出のために必要な機材をバッグに詰め込みながら、ふとラボの入り口に掲げられた、磨き上げられた真鍮のプレートに目をやった。
『日本サイバトロニクス株式会社 先端生命科学事業部 同期制御アーキテクチャ研究室』
「同期制御、か。皮肉なもんだな」
冷たい廊下に、電子的なチャイムが鳴り響く。それは、隣接する『ヘブン移行センター』への、第一陣の搭乗を促す合図だった。
三人はラボを飛び出し、非常階段を駆け下りた。
地下2階、コンクリートの静寂の中に、一台の深紅に輝くフルミネGTが、ヘッドライトを鋭く発光させて待ち構えていた。
「天見、助手席に乗れ! 美桜は後ろだ!」
柚木が車内に乗り込むと、有機ELディスプレイが鮮やかに起動し、ダッシュボードが近未来的な光を放つ。アクセルペダルを床まで踏み込むと、電気自動車特有の暴力的なトルクが、三人の体をシートに叩きつける。フルミネGTは、タイヤの悲鳴とともに、出口を塞ごうとするシャッターの隙間へと滑り込んだ。
地下ゲートを抜ける直前、後部座席で美桜がノートPCのエンターキーを強く叩いた。
「よし……笹山のモニターに偽の映像をループさせたわ。ログには、私たちが千葉方面へ爆走中ってデータが流れてる!」
「浦安か。あいつら、今ごろ夢の国の方で俺たちの幽霊を探してるってわけだな」
柚木は不敵に笑い、ステアリングを切った。実際には千葉とは真逆の方向――西へと向かっていた。
十五時過ぎの陽光が、東京湾の海面に反射して眩しく光る。車は有明を通過し、レインボーブリッジへと差し掛かった。
視界が開け、右側には東京タワー、左側には建設中の高層ビル群が、午後の光を浴びてそびえ立っている。いつもなら美しいはずの景色だが、助手席の天見は、窓の外を流れる人々や車を見つめながら、静かに呟いた。
「あそこにいる人たちは、何も知らないまま墓場へ行くことになるんだな」
「だからこそ、俺たちが止めるんだよ。先生が守りたかった、この不自由な現実をな」
柚木はアクセルを一定に保ち、橋のループを駆け下りた。美桜の工作により、周囲の監視カメラには静まり返ったアスファルトの映像が映り続けている。橋を渡りきり、三人は港区・芝浦の雑居ビルに到着した。運河に囲まれたこのエリアは、白昼でもオフィスビルが立ち並び、かえって個人の動きが目立たない。
美桜がピックアップしたコワーキングスペースは、ちょうど午後の空気が落ち着き始めた頃だった。
「着いた。ここが、俺たちの反撃のラボだ」
柚木は車を地下の死角に停め、施錠を確認した。フルミネGTのライトが最後の一瞬だけ瞬き、役目を終えたかのように消灯した。
ビル窓から射し込む陽光は、あまりにも平穏すぎて、世界が終わりかけているなんて嘘のようだった。柚木は、コワーキングスペースの入り口で天見の背中を軽く押した。
(追っ手は来ない。美桜が道を消してくれたからな。でも、本当に怖いのは目に見える追跡者じゃない。里村先生の死を笑いながら、世界を墓場に変えようとしてる、あの笹山の冷酷なシステムだ)
コーヒーの香りが漂うフロアに、ノマドワーカーに紛れた三人の足音が響いた。
柚木は窓際の席に腰を下ろすと、カフェラテがたっぷり入ったマグカップをデスクの中央に置いた。
「まずは、現状を整理しよう」
柚木の声は、低く、エンジニアらしい冷静さを保っていた。
「笹山の野郎、里村先生の死を隠れ蓑に、全国民をあの墓場へ放り込むつもりだ」
美桜がノートPCの画面を見つめたまま、冷静に言葉を継ぐ。
「健、偽装は長く持たないわ! 浦安のダミーがバレて捜索AIのスキャンが走れば、ここが暴かれるのも時間の問題よ!」
天見は、まだ自分の手首のデバイスを凝視したまま、沈黙を守っていた。彼の中に流れ込んできた「里村の記憶」が、今の絶望的な状況を冷徹なデータとして突きつけている。
「先生は、皆を眠らせないためにインドへ渡ったんだな」
柚木は天見の掠れた声を受け止める代わりに、ゆっくりと、確信を深めるように深く息を吐き出した。膝の上に置いていた拳を解き、テーブルを押し上げるようにしてゆっくりと腰を浮かせた。背筋を伸ばし、肺の奥まで空気を吸い込む。
「よし。先生が命を懸けて繋ごうとした連中にアクセスするぞ」
柚木は、愛用のデバイスをノートPCへ繋げ、ホイールを弾くように回す。暗号化された秘匿通信のプロトコルを調整した。隣では美桜が、笹山の監視網を撹乱するためのダミーパケットを世界中へ向けてバラ撒き続けている。
画面に一人の男の顔が浮かび上がった。
かつて柚木がインドの合弁会社グラモハでのプロジェクトで背中を預け合ったチーフエンジニア、ヴィジャイだ。彼の背景には、バンガロールの近代的なオフィスではなく、南仏を思わせるカフェ店内が映し出された。
『ユズキか! 生きていたんだな! この回線が開くのを、ラーニーと二人でずっと待っていた!』
ヴィジャイの声は、焦燥と安堵が入り混じっていた。彼の横から、鋭い眼差しをした女性エンジニア、ラーニーが顔を出す。
『ドクター・サトムラのことは……本当に残念だったわ。でも、悲しんでいる暇はない。ササヤマの連中がグラモハを制圧する直前、私たちはドクターの最終コードを持ってここへ逃げ延びた。例のコンポーネント、デプロイの準備はできているわ』
『因みにドクター・サトムラのプログラム、名称をサマトヴァにした。平穏、そして均衡。ヘブンという墓場に対する、俺たちの対抗策だ』
ヴィジャイがその名を口にすると、隣席で沈黙していた天見が、何かに導かれるように画面を見つめた。
「サマトヴァか……。いい名前だ」
ヴィジャイは手元のタブレットを操作しながら、早口で現状を伝えてきた。
『サマトヴァをデプロイする準備はできている。これを全世界のクラウドリージョンに展開させれば、ヘブンへ移行された人々の意識を休眠の手前でインターセプトできる』
「ヘブンに吸い込まれる前に、目覚めたままの街へ強制リダイレクトするってわけだな」
『ええ。今、パブリッククラウドの各拠点にサマトヴァのコンテナを射出中よ!』
ラーニーの言葉と同時に、柚木の目前のモニターに世界地図が展開された。東京、バンガロール、北米、欧州――光の点が次々と瞬き、線で結ばれていく。世界中のクラウドが、巨大な避難所として連結されていく壮大な光景だった。
「わかった、ありがとう。続けてくれ。ただし、くれぐれも注意して……」
柚木が通信を切ろうとしたその時、室内の空気が弾けるような鋭い声が響いた。
「健! 気づかれた! 向こうに凄腕がいるわ」
ノートPCのキーボードを狂ったように打ち続けていた美桜が、悲痛な叫びをあげた。その指先が、モニター上で真っ赤に染まっていく警告ログを必死に押し返そうとしている。
「なんだと? まだ数時間は持つはずじゃ……」
「ダメ、追い込みの速度が異常よ。笹山の直属か、外部のトップ層を雇ったんだわ。偽装パケットを最短ルートで突き抜けてきてる。拠点を、この芝浦を特定された!」
柚木の背筋に冷たい震えが走った。美桜がここまで取り乱すのは異常事態だ。相手はただのエンジニアではない。国家予算規模のリソースを自在に操る、デジタルの処刑人だ。
「ヴィジャイ、こっちはバレた! 一旦回線を閉じる。あとは任せたぞ、絶対にサマトヴァを守り抜いてくれ!」
柚木はデバイスを強制切断し、バッグへ詰め込んだ。天見の腕を掴み、椅子から立ち上がらせる。
「逃げるぞ、天見。美桜、荷物をまとめろ!」
三人が慌ただしく椅子を蹴立て、出口へ向かって走り出そうとしたその時だった。
「あの、お客様。困ります、共通のスペースですのでお静かに願えますか?」
背後から、至極真っ当で、それゆえに場違いなほど穏やかな声がかけられた。制服を着たコワーキングスペースの女性スタッフが、困惑した顔でこちらを見ている。
世界が今まさに『ヘブン』という名の巨大なシステムに飲み込まれようとしていることなど、彼女は露ほども知らないのだ。
「あ……ああ、すみません。急用ができたので、すぐ出ます」
柚木は喉元まで出かかった怒鳴り声を飲み込み、謝りながら彼女を避けるようにそそくさと出口へ向かった。美桜も顔を伏せて後に続く。エレベーターホールへ飛び出し、地下駐車場のボタンを連打する。
「天見? 何してる、早くしろ!」
柚木は、背後で足取りが重くなっている天見に気づいて振り返った。
天見はエレベーターの扉の前で立ち止まり、まるで何かに耳を澄ませているかのような、虚ろな表情をしていた。




