第四話 死のカウントダウン
通勤に一時間以上の時間をかけて辿り着いた東雲の研究所は、潮風の混じった不穏な空気に包まれていた。柚木は愛車の『スヴェルト フルミネGT』の速度を落とし、研究所の敷地へ続くゲートを潜る。いつもなら電気自動車特有の静かなロードノイズだけが響くはずの敷地内が、今朝は異様な熱量に支配されていた。
(なんだ、この数は。昨日までの閑職のラボの雰囲気じゃねえぞ)
そこには普段では決して見かけることのない黒塗りのセダン、そして『政府』や『報道』のロゴを冠した車両が整然と並んでいた。その中心に建つヘブン処理センターの周りには、カメラを担いだ報道陣が詰めかけ、まるで歴史的な転換点を見守る群衆のような熱気を放っている。
柚木は車を停め、肌を刺すようなこの朝の異常な空気に、スマートフォンを握る手に力を込めた。
ラボの扉を開けると、そこには既に天見と美桜が、モニターの青白い光に照らされて座っていた。
午前十時。ラボに設置された大型モニターが、突如として全世界同時生放送の映像に切り替わった。演壇に立つのは、現総理大臣・柿枝改二。十年前に失踪した日本サイバトロニクスの創設者、柿枝祐一の実弟だ。
『国民の皆様。本日、我々は肉体という最後の人類的な制約から解放される道を選びました』
柿枝総理の声は、慈愛に満ちた聖職者のように響く。
『メタバース「ヘブン」の正式稼働を宣言します。本日より順次、全国民をこのデジタル上の理想郷へ移行させます。私たちが迎える未来は、病苦や老い、そして理不尽な死という、人類が数千年にわたり克服できなかった最大の絶望からの完全な解放です』
画面の向こうでは、数千人の報道陣と群衆が、熱狂的な拍手でその死の宣告を祝福していた。
「バカな。全国民を墓場に放り込むつもりかよ」
柚木は、震える拳をデスクに叩きつけた。 周囲の『笹山スペシャル御膳』をいつも食べている研究員たちは、恍惚とした表情でモニターを見つめ、「ああ、やっと救われるんだ」と、魂の抜けたような声を漏らしている。
総理の会見が終わり、余韻も冷めぬ間に、画面は日本サイバトロニクス社内向けの緊急放送に切り替わった。新CEO・笹山が、冷徹なまでの静寂を背負って現れる。
『社員諸君。総理の発表通り、我が社はこの歴史的プロジェクトの先遣隊となる。だが、その前に、非常に残念な知らせを伝えねばならない』
笹山はわざとらしく、短く沈黙を作った。
『ヘブン開発の先駆者であったわが社のCOO、里村清一博士が、滞在先のインドにおいて、不慮の交通事故により急逝された』
ラボのモニターの中で、笹山が吐き出した『里村博士、インドで急逝』という冷酷な言葉が、冷たい霧のように室内に立ち込めた。
柚木は自分の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つのを感じた。だが、隣に立つ天見の異変は、それを遥かに凌駕していた。
「死んだ? 先生が?」
天見の声は、掠れたノイズのようだった。彼は幽霊でも見たかのような顔で、自分の両手を見つめている。カタカタと音を立てて震えるその指先は、キーボードを叩く力すら失っていた。
柚木は声をかけようとしたが、天見の左手首のデバイスからは、バイタルの異常を告げるアラートが絶え間なく鳴り響いている。
「嘘だ!!」
天見が、自分の頭を抱え込むようにして椅子から崩れ落ちた。
美桜が椅子を蹴って立ち上がった。その顔からは血の気が引き、持っていたマグカップが床で砕け散る。柚木もまた、呼吸を忘れたようにモニターを凝視した。
(里村先生が事故? 官僚を説き伏せ、ヘブンの暴走を止めようとしていたあの人が、このタイミングで?)
「事故なんかじゃない」
天見の声は、低く、鋼のような冷たさを帯びていた。
「里村先生は殺されたんだ。奴らにとって不都合な俺たちを、ヘブンの中で永遠に黙らせるために」
天見の左手首のデバイスが、激しい怒りと共鳴し、警告を告げる赤から、深い、昏い青へと色を変えた。
『博士の遺志を継ぎ、我々開発チームは直ちにヘブンへ移行し、内部からシステムの安定化に従事する。これは命令である。各員、直ちにヘブン移行センターへ向かえ』
画面が消える。
廊下からは、他の部署の研究員たちが、まるで旅行にでも招待されたかのような歓喜の声が聞こえ、軽い足取りでロビーへ向かう音が聞こえてくる。彼らの後頚部に埋め込まれたヘブン移行用チップが、死のカウントダウンの様に明滅していた。
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