第三話 豪華なお弁当
ラボ内にチャイムが鳴りわたると、柚木はわざとらしく大きく伸びをして、デスクの背もたれをギィと鳴らした。
「はい、ストップ! 天見、とりあえずそこまで。飯だ、飯行こうぜ!」
まだキーボードに指を置いていた天見が、弾かれたように顔を上げた。その目は早くもファイブナインという呪縛に囚われ、モニターの中の数字を追い始めている。
「そうね、柚木君の言う通りよ。天見君、ここの社員食堂、意外とバカにできないの。特に日替わりはボリュームがあって、柚木君みたいな体育会系には大人気なんだから」
美桜がデスクから立ち上がり、天見の肩をトントンと軽く叩いた。その仕草はどこまでも優しく、まるで迷子を出口へ導くガイドのようだった。
「あ、もうそんな時間か。すまない、つい」
天見は少し決まり悪そうに苦笑いし、ようやくマウスから手を離した。左手首のデバイスが、椅子から立ち上がる彼の動きを検知して、小さな同期音を立てる。
初日の午前中の作業を終え、柚木は天見を連れて社員食堂へと足を運んだ。自動ドアが開くと、そこには普段の食堂とは思えない、華やかな懐石の香りが漂っていた。
「柚木、なんだこれ。みんな同じ、すごく豪華なお弁当を食べているけど」
天見が目を丸くする。カウンターには、高級料亭のものと見紛うばかりの「笹山スペシャル御膳」が積み上げられ、同僚たちが吸い寄せられるように列を作っていた。
「ああ、あれな。笹山の野郎がバラ撒いてる餌だよ。俺と美桜さんは絶対に食わない。先生を追い出そうとしてる奴が用意したもんを、美味い美味いって食えるほど面は厚くないのさ」
柚木は吐き捨てるように言い、券売機の列のさらに端へと天見を促した。
「見ろよ天見! これがこの食堂のラスボス、『シェフおすすめミックスフライ定食』だ!」
柚木が目の前に置いたトレイの上には、山盛りのキャベツと共に、黄金色に揚げられたフライが並んでいた。中でも異彩を放っているのが、一際長く、そして鋭利に尖った白身魚のフライだ。
美桜のトレイには、ミックスフライ定食の横に海藻とジャコの『ミネラル・デトックスサラダ』のボウルが余裕無くねじ込まれている。
「天見君、悪いわね。柚木君が言った通り、私たちはあの御膳には手を出さない主義なの。あ、でも、無理強いはしないわよ? あっちの方がずっと美味しそうだものね」
美桜は微笑みを向けたが、その瞳は試しているようでもあった。天見は、長蛇の列を作る豪華な弁当と、柚木たちが選んだ硬そうな揚げ物を交互に見比べた。
「いや。俺も、二人と同じでいい。里村先生には、恩があるから」
天見はミックスフライ定食をトレイに載せた。柚木は、内心で小さくガッツポーズを作った。
三人のテーブルに並んだのは、山盛りの千切りキャベツと、先端が短刀のように鋭利に揚がった白身魚のフライだった。揚げ色の濃い切っ先は、触れれば指が切れそうなほどに硬質に焼き固められている。
「いいか天見。このフライを、上顎を傷つけずに食べきること。それがこのランチを制する、俺たちの流儀だ」
「……っ。本当に、武器みたいに硬い。でも、不思議だ。噛むたびに、目が覚めるような気がする」
ガリッ、ゴリッと硬質な音が響く。
「柚木、これ……完食したら、午後の作業、ちょっとは手伝ってくれるか?」
「おっ、言うようになったじゃん! よし、そのフライを倒せたら、特別にハック術を一つ伝授してやるよ!」
「にやり」と無理に笑みを作る天見に、二人はつられて笑いを溢す。周囲では『笹山スペシャル御膳』を頬張り、多幸感に包まれている他の研究員たちの会話が流れている。
午後からのラボは、サーバの低い唸りと、微かな電子音だけが支配する閉鎖空間へと変貌していた。
柚木は自分の席に座り、斜め前のデスクでモニターに向かう天見の背中を、それとなく観察していた。天見に与えたのは、ヘブンの意識転送シミュレーションにおけるエラーの特定作業。本来なら、マニュアルを読み込み、システムのアーキテクチャを理解しなければ手も足も出ないはずの難解な領域。
だが、天見のタイピング音は、リズムを崩すことなく加速していく。一割の失敗率。それを特定し、ゼロへと押し下げるための最適解を、彼は探しているのではない。まるで思い出しているかのように、淀みなくコードを紡いでいく。
「……っ、よし。これでレイテンシは解消される。あとは、意識の同期処理を……」
天見が小さく呟き、エンターキーを叩こうとした瞬間、柚木は椅子を蹴るようにして立ち上がり、天見の背後に詰め寄った。
「天見。お前、そこ……なんでそんなに早く終わるんだ?」
柚木の声は、自分でも驚くほど低く、鋭かった。
天見の肩がビクリと跳ねる。叩こうとした指が宙で止まり、彼ははたと我に返ったように、勢いよく柚木を振り返った。
「あ、いや……えっと。あはは、なんか、偶然だよ。ロジックの並びが、前職で使っていたシステムと似てたっていうか……ほら、白身魚のフライと同じで、コツさえ掴めばサクサクいけるっていうか……」
天見は引きつったような笑みを浮かべ、わざとらしく頭を掻いた。だが、その瞳の奥には、隠しきれない動揺と「やってしまった」という後悔の色が混じっている。
「偶然、ねぇ。お前、実は天才エンジニアだったりする? まぁ、早く終わる分には助かるけどさ。あんまり飛ばしすぎて、バグの見逃しはやめてくれよ?」
柚木は努めて軽薄な口調を作り、天見の肩をわずかに叩いた。だが、天見の視線は、再びモニターの深淵へと吸い込まれていく。そこには、柚木も美桜もあえて触れなかった真実が、剥き出しの文字列として存在していた。
壁に映るブラインドの影は角度を変え、太陽の光は暖色へと変化していく。天井のLED照明が室内を完全に支配した頃。天見は、柚木の想像を超えて、幾つかのシミュレーションパターンを終えていた。
ラボの重苦しい静寂を切り裂くように、美桜がパン、と小気味よい音を立てて両手を叩いた。モニターの青白い光に照らされていた天見の背中が、びくりと震える。
「はい、ストップ! 作業終了! 天見君、続きは明日にしましょう。この後はあなたの歓迎会よ。東陽町にね、私のお気に入りのスペインバルがあるの。そこのパエリア、絶品なんだから!」
美桜が天見の肩に優しく手を置いた。彼女の笑顔は相変わらず綺麗に装っていたが、柚木には分かっていた。美桜もまた、天見の異常な作業進捗に、裏で神経を削りきっていたことを。
「あ、もうそんな時間か。すまない、キリがなくて。行こう。腹、減ったしな」
天見は力なく笑い、ゆっくりと席を立った。左手首のデバイスが、彼の疲労困弊したバイタルを検知して、小さく赤く明滅している。
「よし、決定! 今夜は飲むぞー! 東陽町ならタクシーですぐだしな。だが、すまん。悪いが、先に降りて下のロビーで待っていてくれ。ちょっと片づけをしてから降りる」
天見は少し驚いたような顔をしたが、すぐに「わかった。下のロビーで待っておく」と、やや恐縮したように会釈した。
「私も早く片付けするから。ごめん、天見君、先に降りていて」
佐伯が、済まなそうに手を合わせた。天見は柔らかな微笑みを浮かべて「分かった」と頷いた。
重厚な扉が閉まり、天見の足音が遠ざかっていく。
その瞬間、柚木の顔から陽気な先輩の仮面が剥がれ落ちた。彼は会議テーブルに手をつき、肺にある空気をすべて吐き出すような、深く重い溜息をついた。
「なぁ美桜。見たろ、あいつのあのスピード」
柚木の声は、微かに震えていた。
美桜は無言でメインコンソールの前に座り、猛烈な勢いでキーボードを叩いている。画面には、天見が先ほどまで操作していたログが、滝のような速さで流れては消えていく。
「ええ。異常ね。ただの慣れじゃない。やはり、フォーマットしきれずに残っているのかしら。それに……彼、気づいたわね」
その指摘に、柚木は胃のあたりをギュッと掴まれるような感覚に襲われた。
「ああ。隠しきれなかった。コードを見た時のあいつの目……ただの恐怖じゃなかった。自分たちが何を作らされているのか、完全に理解した目だ」
(なのに、あいつは「やりましょう」って言いやがった。責任感っていう、一番残酷な鎖に縛られて)
「健、しっかりして。私たちが迷ったら、彼は本当に藻屑になっちゃうわよ。今夜の歓迎会、全力で彼を現実に繋ぎ止めて。美味しいものを食べさせて、お酒を飲ませて、五感を刺激して。彼の中にある人間の未練を、これでもかってくらい膨らませるの。いいわね?」
美桜は立ち上がり、柚木の胸元に手を置いて、真っ直ぐに彼を見つめた。その瞳の強さに、柚木はかろうじて踏みとどまる。
「分かってる。スペインバルだったな。アヒージョの熱さでも何でもいい。あいつが生きていたいって思える材料を、片っ端から詰め込んでやるよ。あいつの手首のデバイスが、赤じゃなく、安らかな青に変わるまでな」
柚木は、美桜の手に自分の手を重ね、一度だけ強く握った。
「よし、行こうぜ。主役を待たせすぎると、また変なこと考え始めちまうからな」
柚木は再び、いつものチャラい先輩の顔を無理やり作り上げ、ラボの照明を落とした。 暗闇に沈むモニターの奥で、天見が残したコードだけが、獲物を待つ蜘蛛の糸のように静かに光っていた。
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