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天国の嘘  作者: やまざかたかす
第一章 赴任初日

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第二話 困難なミッション

 『先端生命科学事業部 同期制御アーキテクチャ研究室』の重厚なセキュリティ扉が静かな駆動音と共にスライドし、ラボの内部が露わになる。

 そこは白っ茶けた廊下とは対照的に、稼働中のサーバが発する微かな熱気と、淹れたてのコーヒーの香りが漂う空間だった。


 モニターの光に照らされていた佐伯美桜(サエキミオ)は、二人の足音に弾かれたように顔を上げ、眩しいほどの笑顔で駆け寄ってきた。


「あ、あなたが天見君ね? 初めまして、佐伯美桜です。今日からよろしくね!」


 佐伯は天見の目を真っ直ぐに見つめ、迷いのない動作で右手を差し出した。その瞳は知性に溢れ、一点の曇りもない親愛の色を湛えている。


「えっ、あ、はい……」


 淀みのない歓迎の言葉に、天見は面食らったような顔をした。初対面の相手からの全開の好意は想定外だったらしい。


「あ、ありがとうございます。あの長泉総合病院……あ、いえ、今日からこちらでお世話になります、天見です。よろしくお願いします」


 噛みそうになった言葉を飲み込み、天見は慌てて背筋を伸ばして一礼した。

 握手を交わしながら、美桜の視線は天見の背後に立つ柚木へと向けられた。その一瞬のアイコンタクトには、恋人への深い信頼と、彼の隠しきれない動揺を窘めるような鋭さが混ざっている。


「ちょっと、柚木君! 天見君、心なしか顔色が悪いじゃない。あなた、エントランスからここまで歩く間に、また余計なこと言って困らせたんじゃないでしょうね?」


 美桜はわざとらしく溜息をつき、腰に手を当てて柚木を睨んでみせた。その仕草はどこまでも公私のパートナーらしい自然なものだ。


「さあ、天見君、突っ立ってないで中に入って! 歓迎のコーヒーくらい淹れさせて。私の淹れたコーヒーは、特別美味しいから!」


 天見の背中に優しく手を添え、「敬語は不要よ」と囁き、部屋の奥へと促す美桜。その手つきは温かく、同時に獲物を安全な檻へと導くような、冷徹なまでの正確さを含んでいた。椅子を天見に促す。天見は「ありがとう」と短く応じ、椅子に深く腰を下ろした。


「あの、さ」


 天見は戸惑ったように眉を下げると、美桜へとおずおずと問いかけた。


「こちらに、俺を呼んでくださった里村先生は? いやCOOとお呼びした方がよいのか」


 天見の口から「里村」という名がこぼれ落ちた。その瞬間、柚木の背筋に冷たい震えが走る。里村がインドへ渡航した当初は頻繁に連絡を取り合っていたが、この数日は連絡が取れていない。だが、柚木は数秒の遅滞もなく、顔にへらへらとした笑みを張り付かせた。


「あー、先生ね! あの人なら今ごろ、本場のカレーでも食ってるぜ。あ、いや、インドの提携施設にすっ飛んでっちゃってさ。超極秘の共同研究なんだって。マジであの研究バカ、自分が呼んでるくせに初日から置いてきぼりにするとかありえないだろ?」


 柚木が内心の焦燥を饒舌な口数で塗りつぶしていると、隣で美桜が流れるような手つきでコーヒーカップを並べ、援護に回った。


「そうなのよ。COOなんて肩書き、あの人には重すぎよね? 『天見君には、僕がいない間は君たち二人がついていてやってくれ』って、出発の間際にそれだけ言い残して。でも安心して、天見君。先生が不在の間は、私たちがあなたの盾……じゃなくて、最高の先輩になってあげるから!」


 美桜の言葉の言い直しに、天見は少しだけ不思議そうな顔をした。


「盾……ですか?」


 天見の鋭い反応に、柚木は心臓が止まる思いがしたが、瞬時にへらへらとした笑みを顔に張り付けた。


「あー! 盾ってのはアレだ、新任のお前を、笹山とかいうお偉いさんの無茶なノルマから、俺たちが防波堤になって守ってやるって意味だよ! な、美桜?」


 柚木が大仰に肩をすくめると、美桜はいたずらっぽくウインクして見せた。

 柚木は内心で冷や汗を拭いながら、天見の背中を無理やり押してデスクへと促した。

 天見は、どこか遠くを見るような目で、落胆を隠せずにいた。


「インド、か……。そうか、忙しい方なんだな。俺をここに呼んでくれた時、すごく熱心に誘ってくださったので、すぐにお会いできるものかと。少し、残念だ」


 柚木はわざとらしく天見の肩をがしりと掴んだ。


「まーまー、そんなシュンとすんなって! 先生が帰ってくる頃には、お前が俺たちを顎で使うくらいのバリバリの研究者になってるように、俺がビシバシ鍛えてやるからさ! ……あ、もちろん、美桜様の厳しいチェック付きだけどな」


 柚木は天見を強引に引き寄せ、美桜の待つデスクへと向かった。恋人と交わす短い視線の中にだけ、誰にも見せない戦友としての火花を散らしながら。


 ラボの奥、サーバの低い駆動音と冷却ファンの風が微かに響く一角で、美桜が一つの小箱を取り出した。中から現れたのは、スマートウォッチ風のデバイスだ。

 柚木はそれをひょいとつまみ上げると、天見の目の前でこれ見よがしに振ってみせた。


「さて天見! 記念すべき初仕事だ。まずはこれ、うちのチームの正装を身につけてもらおうかな!」


 天見の顔から、さあっと血の気が引いていく。彼はまるで見えない刃物を突きつけられたかのように、激しく後ずさりした。その右手が、無意識に、そして痛々しいほど強く左手首を掴む。


「正装? どうしても、付けないと駄目なのか?」


 天見の瞳が恐怖に泳ぎ、呼吸が目に見えて荒くなっている。


(なんだ、どうした天見。なんでそんなに怯えている?)


 柚木は困惑した。


「天見、ただのスマートウォッチを装着するだけだ」

「天見君? 大丈夫、これは『生体同期型ブレイン・インターフェース』といって、あなたがここで安全に仕事をするための健康管理用デバイスよ」


 美桜が静かに、迷いのない足取りで天見に歩み寄る。その微笑みは穏やかだが、彼女の指先は事務的な正確さでデバイスを構えていた。


「はぁ、はぁ……。わかった……」


 天見は逃げ場がないことを悟ったのか、震える左手首を差し出した。

 カチリ、と施錠音が響き、デバイスが天見の肌に密着する。その瞬間、天見はビクリと体を強張らせ、瞳から光が消えたような虚ろな表情を浮かべた。


 柚木が表情を和らげ、窓際の会議テーブルを指す。


「天見にお願いしたい作業について説明しよう」


 天見はまだ手首に残る鈍い違和感を振り払うように、一度強く手を握り込んでから席に着いた。柚木の横には美桜が、天見の正面には柚木が座る。美桜が手にしたマグカップから立ち上る湯気が、張り詰めたラボの空気をわずかに緩めていた。


「天見、ここに来るまでに概要は聞いていると思うが、現在政府はメタバース『ヘブン』を夢の楽園として、大々的に国民へ発表するつもりで動いている」


 柚木はマグカップのコーヒーを一口飲み、重々しく告げた。


「ああ、ニュースでやってるやつだろ。肉体を捨ててデジタル上の理想郷へ、とかっていう……。政府もメディアも、お祭り騒ぎだよな」


 天見は、テーブルに埋め込まれたモニターに映るコンセプト画像を指先でなぞった。


「で、そのヘブンと、俺の仕事がどう繋がるんだ? 病院での地味な作業とは、随分スケールが違う気がするけど」


 少し皮肉めいた問いかけ。天見は、正面に座る柚木と美桜を交互に見た。


「ははっ、スケールでかいだろ? やりがいはあると思うぜ」


 柚木は努めて軽快に笑い飛ばし、モニターを操作して複雑な脳波のシミュレーションデータを展開した。


「ま、簡単に言えば不具合のチェックだ。安心安全なヘブンを作るためには、人間の脳がデジタル空間でどう反応するか、精緻なデータが必要なんだよ。お前にはそのシミュレーション試験を手伝ってほしい」


 柚木がモニターをタップすると、画面にはヘブンへの意識転送シミュレーションを示す複雑なグラフと、統計データが躍り出た。


「一割だ。一割の確率で意識の拒絶が起き、デジタル空間でデータが沈黙……つまり死ぬ」


 柚木はあえて突き放すような乾いた声で、グラフの赤いエラー領域を説明した。天見が絶句する中、美桜が冷徹に続ける。


「でも政府は、これを隠したまま来月にも見切り発車するつもりよ。先生がどれだけ官僚を説き伏せても無駄だった」


 美桜の穏やかな声が、逆に政府の狂気を際立たせる。天見は信じられない思いで二人を見回した。


「だから、先生が不在の間に俺たちでやるしかない。今月末までに、エラーをファイブナイン(九九・九九九パーセント)まで潰す。頼む、天見」


 天見の肩をガシッと力強く、逃がさないという意志を込めて掴んだ。手のひらから伝わってくる天見の体温が、余計に柚木の焦燥を煽る。


「え?」


 天見は呆然とした声を漏らし、柚木の顔を凝視した。その瞳には、あまりにも無謀な要求に対する困惑と、それ以上に、自分に向けられた期待という名の重圧への戸惑いが浮かんでいる。


 資料に目を落とし、天見は一瞬だけ、肺の中の空気をすべて止めるように息を呑んだ。


「わかった。すぐに取り掛かる」


 天見は顔を上げ、絞り出すような声で言った。困惑を責任感で無理やり押し殺したような真面目すぎる眼差しが、柚木の罪悪感を鋭く抉った。


「おっ、さすが天見! そうこなくっちゃな! お前ならそう言ってくれると思ってたぜ!」


 柚木は、張り付けた仮面を必死に繋ぎ止め、いつもの軽薄な声をラボに響かせた。だが、その視界の端で、天見が手元の時計と資料を交互に見る横顔を捉える。その一瞬の視線の動きには、深い絶望に近い諦めが滲んでいた。


 美桜は、何も言わずにマグカップを口元へ運び、モニターに映し出される天見のバイタルデータを冷徹に確認していた。天見の手首のデバイスが、彼の決意という名のストレスを検知し、微かに青く明滅する。


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