第一話 初対面?
九月中旬だというのに殺人的な熱中症アラートが鳴り響く。
江東区東雲にそびえ立つ、日本サイバトロニクス株式会社の研究所。一階のエントランスで、柚木健は、地方病院から赴任してくる天見託次という男を待っていた。
胸の奥に溜まった不満が、柚木の呼吸を浅くさせる。決定を下した代表取締役副社長兼COO、里村は何を思って天見を呼んだのか。
柚木は小さく息を吐き出し、仮面をかぶるように口角を上げる。心の中の「なぜ」を、無理やり奥底へ押し込めて。
門前でタクシーが停まり、一人の男が降車した。陽炎の向こうから歩いてくる男の足取りは、軽快さを欠き、短く刈り込まれた髪を苛立たしげに掻き上げ、熱気に当てられた気だるさが滲んでいた。
冷房の効いたエントランスに足を踏み入れた途端、男は肺の奥まで冷気を吸い込み、深く安堵したような溜息を吐き出した。
「ああ、天国だ」
男は首筋を拭いながら、ふと柚木の視線に気づいた。
「あ――、柚木さん?」
「あ、お疲れさま! 俺が君の案内係兼、最高の同僚になる予定の柚木健だ。よろしくな、天見! 敬語は抜きでいいぜ、同い年なんだしさ」
柚木はわざとらしく、体育会系のノリで右手を上げた。男が呼んだ、自分の名前。柚木の全身の血が一瞬、逆流したかのような衝撃が走った。
「しかしお前、外そんなに暑かった? マジで天国にたどり着いた亡者みたいな顔してるぞ」
柚木は努めて明るいトーンで声をかけると、天見は意外そうに眉を上げた。
「悪い、つい口から出た。外があまりに焼けるようだったから。天見だ。よろしく、柚木……さん」
「あー、いいよいいよ、柚木で! しかしお前、マジで干からびる寸前だったぞ? 『天国』なんて、この研究所に一番似合わない言葉を口にしちゃうくらいにはさ」
おどけた調子で、柚木は天見との距離を詰める。天見を遮るように立ち、彼が不用意にロビーを観察しすぎないよう、自身の存在で視界を埋める。
「そうだな。天国は言い過ぎだった。ここは、空調は効いているけど……なんだか、息苦しい。セキュリティが厳しすぎるせいかな。みんな、あんな風に監視カメラに見張られながら仕事しているのか?」
天見の視線が、天井の隅に設置されたドーム型のカメラへ向く。柚木の背中を、冷房の冷気とは違う、冷たい汗が伝った。
「あはは! 鋭いなー天見! そう、ここは日本が誇る最高機密の塊だからさ。慣れるまではちょっと窮屈かもだけど、俺たちがついているから安心しろって!」
柚木は、自分に言い聞かせるように「安心しろ」という言葉を重ねた。そして、天見の肩をポンと叩き、迷いのない足取りで奥へと歩き出す。
「よし、いつまでもここで突っ立っていると、本当に死神……じゃなくって上司に怒られっぞ。行こうぜ、天見。キンキンに冷えたラボと、性格はちょっと冷たいけど超美人の美桜……あ、佐伯美桜が、お前のこと手ぐすね引いて待っているからさ!」
白一色に塗り込められた、どこまでも続く長い廊下。等間隔に並ぶLEDライトの光と、空調の低い唸りだけが支配するその空間で、背後から漏れた天見の言葉に、柚木の足が数秒だけ止まりそうになった。
「病院も、研究所も、通路は同じだな。ゲームのダンジョンみたいで」
柚木の脳裏に、かつて里村の傍らで目にした、冷たい手術台と無数のチューブに繋がれた実験体の姿がフラッシュバックする。
柚木は即座に、大仰な動作で振り返った。顔には、これ以上ないほど軽薄で愉快そうな笑みを貼り付けて。
「あはは! ダンジョンかよ、それいいな! 確かに、一歩でも踏み入れたら最後、ボスを倒すまで扉が開かない鬼畜仕様の『ボス部屋』とかありそうだもんな」
ひとしきり笑った後、柚木はふっと真顔になり、自嘲するようにぼやいた。
「……うちのラボのことだけどな」
冗談のようでいて、笑えない真実が孕んだ言葉に一瞬だけ空気が止まる。柚木は自ら生み出したその重苦しい沈黙をかき消すように、わざとらしく明るい声を張り上げた。
「まぁ、前職が病院だったお前からすれば、この白っ茶けた感じは見慣れたもんなのか?」
あえて「病院」というワードを正面から拾い、それを世間話のレベルにまで薄める。柚木の背中には嫌な汗がじわりと滲んでいた。
「見慣れてはいる。でも、病院は人を助ける場所で、ここは何かを生み出す場所だ。同じ白でも、反射の仕方が違う気がして。妙に、落ち着かないな」
「おーおー、初日から哲学的だねぇ! その違いがわかるってのが、優秀な研究者の証拠ってやつ? 安心しろよ、ここだって人を助けるためのモノを作っているんだぜ。……ま、生み出すまでの産みの苦しみがちょっとエグいだけだって!」
柚木は、天見の不安を吹き飛ばすようにわざとらしく肩をすくめ、再び軽快な足取りで歩き出した。その指先が、ポケットの中で小さく震えているのを、決して悟られないようにしながら。
通路の行き当たりにある扉の前で、柚木は歩みを止めた。天見は、『里村ラボ』の表札と扉の横に掲げられた『先端生命科学事業部 同期制御アーキテクチャ研究室』の案内板を見比べるようにして眺めている。
「ほら、この扉の向こうが、俺たちの戦場だ!」
重厚なセキュリティ扉が静かな駆動音と共にスライドし、ラボの内部が露わになる。
そこは白っ茶けた廊下とは対照的に、稼働中のサーバが発する微かな熱気と、淹れたてのコーヒーの香りが漂う空間だった。
モニターの光に照らされていた佐伯美桜は、独自に設計した複雑怪奇なパケットフィルタリングのルール群と、セオリーを完全に無視した獰猛なルーティングの最終コンフィグを、鼻歌交じりにターミナルへと流し込んでいた。
「おいおい美桜。またそんな複雑怪奇なルール組んで……それ、ちゃんと必要なパケットは通るんだろうな?」
柚木が呆れたようにツッコミを入れると、美桜はモニターから目を離さずに、ふふっと得意げに笑った。
「通るわよ? 当たり前じゃない。不審なノイズだけを噛み砕く、私特製の『お利口な番犬』だもの」
ターンッ!と、迷いのないキータッチでデプロイを完了させると、彼女は二人の足音に弾かれたように顔を上げ、眩しいほどの笑顔で駆け寄ってきた。
「あ、あなたが天見君ね? 初めまして、佐伯美桜です。今日からよろしくね!」
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