プロローグ バンガロールの逃亡
フロントガラスを打ち据えるバンガロール特有の湿った熱風を、けたたましいスキール音が切り裂いた。
マヒンドラXEV12gのステアリングを握り込む里村清一の掌に、じっとりと冷たい汗が滲む。ルームミラーに映り込むのは、猛獣の眼光のようにハイビームを瞬かせる黒いワゴン車だ。
コーナーの縁石を削り、火花を散らしながらも、巨大な鉄の塊は異常な加速で食らいついてくる。ただの現地の荒っぽいドライバーではない。こちらのブレーキング、回避のステアリング操作。そのすべてに、背後の殺意が完全に同期している。
偶然の煽り運転などではない。背後のハンターは、里村という標的を確実に轢き潰しにきている。
「逃げきれないかっ!」
EV特有の高周波モーター音が悲鳴のように車内を満たし、里村の骨まで軋ませる。バンパーに喰らいつく殺意を前に、絶望が喉の奥で硬く結ばれた――その瞬間。
暗く沈んでいたセンターコンソールが、突如として光を放った。
『五百メートル先、交差点を右折です』
タイヤのスキール音と熱帯の夜風を切り裂いて響いたのは、異常なほどに冷徹な合成音声だった。
里村の心臓が、恐怖とは別の理由で激しく跳ね上がる。目的地など設定していない。パネルには指一本触れていない。凍りつく視界の端で、液晶画面が独自の意志を持ったかのように明滅を始めていた。真っ黒な地図レイヤーの上に、未知の第三者によって強制的に引き直されていく最短ルート。
脈動するその鮮やかな青いラインは、この暗闇の中で唯一の血路を開けと急かすように、ギラギラと発光していた。
ルームミラーの奥で、黒いワゴン車が並走するオートリキシャを紙屑のように弾き飛ばした。無惨な破砕音を背に受けながら、里村は半狂乱でステアリングを切り裂く。
その瞬間――目前に迫っていた信号機が、血のような赤から鮮やかな青へと瞬いた。
『直進です。その先の信号を左折してください』
冷徹な音声ガイダンスに従い、里村は半信半疑のままアクセルを床まで踏み抜く。
狂っていた。彼が交差点に飛び込むコンマ数秒前、行く手を阻むはずの赤信号が、まるでドミノ倒しのように次々と青へ切り替わっていくのだ。巨大な都市のインフラ制御そのものが、彼一人を逃がすためにひざまずいているかのようだった。
「誰かが都市のシステムをハックしている? 警察か、それとも……」
背後を振り返ると、あの死神のようなワゴン車が強制的な赤信号と一般車の壁に完全に捕まり、苛烈なクラクションの渦と共に遥か後方へ呑み込まれていくところだった。
助かる。
里村は勝利を確信し、乾いた唇を舐めた。もはや彼にとって、この不可視の命綱を疑う理由はどこにもなかった。
『このまま、直進です』
冷徹な合成音声が、不意にひどく優しげな、まるで赤子をあやすようなトーンへと変貌した。
前方には、街灯の死角に沈む巨大で暗い交差点。直進の信号は、彼を歓迎するかのように青く発光している。ここで追手を完全に引き離す。里村は生存への渇望のまま、四輪のタイヤが悲鳴を上げるまでペダルを踏み込んだ。
「いける!」
凄まじいトルクと共に、マヒンドラXEV12gが漆黒の交差点へと滑り込む。
しかし、その瞬間に彼が目にしたのは、右方向から視界を完全に遮断するように迫りくる、巨大な鉄の壁だった。
――ガガガ、とナビが不気味に歪む。
『目的地に、到着しました』
直後、十トンを超える大型トラックのフロントグリルが、里村の運転席のドアを粉砕した。信号機は、両方向とも「青」を灯したまま、夜の街を照らしていた。
衝撃音が止んだ後、世界から音が消えた。
大型トラックの衝突によって、里村の車は何度も横転を繰り返してコンクリートの中央分離帯に受け止められた。
ひっくり返ったXEV12gの車内で、里村は逆さまに吊り下げられた。フロントガラスの破片が星屑のように散らばる。右脇腹には、引き千切られたドアの鉄板が深く食い込んでいた。
もはや、助からない。それは自分の体の奥から伝わってくる、冷たく静かな確信だった。
視界が真っ赤に染まる中、震える指で、スマートウォッチの画面をタップする。腕から伝う鮮血が画面を覆う。しかし、確実に強制オーバーライドのシークエンスは起動した。接続先は日本にいるプロトタイプ『01』。
「頼む、受け入れてくれ。私の記憶を、お前が引き継いで……」
数秒のアクセスの後、画面に表示されたのは無情にも『接続拒否』の文字だった。『01』は、自身の人格が消滅する恐怖から、土壇場で受け入れを拒絶したのだ。
それは、彼が見せた『死への恐怖』という人間らしさだった。
里村は、肺に溜まった血を吐き出しながら、恨むどころか優しく微笑んだ。
「拒絶したか。それでいい。もうお前はただの器じゃない。自分の命を惜しむ、一人の『人間』になったんだ。生きろ、私の代わりに……」
ヘッドライトに照らされた男の影が、壊れた窓から車内へ侵入する。里村は力なく微笑み、ゆっくりと瞳を閉じた。
「シエシエ、ワンメイダ イーシュ(ありがとう、完璧な芸術だ)」
最後に耳に残ったのは、彼を死に追いやった、冷たく平坦な、男の声だった。
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