第三十二話 大人の背中
タケルは涙を拭い、託次が命懸けで遺してくれたそのデータを猛烈な速度で読み解いていった。指先がキーボードを叩く音だけが、静寂のクリーンルームに激しく響く。
しかし、読み解く速度が上がるにつれ、タケルの顔から血の気が引いていった。
「嘘だろ。これじゃ、間に合わないっ!」
タケルの絶叫に、サクラが肩を震わせた。
モニターに展開された『ホムンクルス製造ドキュメント』の深層。そこには残酷な物理的限界が記されていた。
「人工肉体を一から鋳造するには、特殊な培養液と、細胞を安定させるための膨大な時間が必要だ。柿枝が仕掛けた世界崩壊のカウントダウンがゼロになるまでに、ヘブンに囚われている数億人の受け皿を用意するなんて、物理的に不可能だ……!」
箱の作り方は分かった。だが、肝心の箱を揃えるための時間がこの世界にはもう残されていない。サクラの顔が絶望に染まり、足元から崩れ落ちそうになる。
「あの人は……サクラの父親である天見託次は、俺に『頼んだぞ』と言ったんだ。あいつが、叶わない夢を俺に押し付けるわけがない……!」
タケルは、隣で物言わぬ器となった託次の横顔を見た。
娘を愛し、不器用ながらも自分を「サクラを託せる男」として認めてくれた男。あの厳しくも温かい眼差しが、タケルの脳裏に焼き付いている。
(そうだ! 親父さんは「コアカプセルを複製しろ」と言っていた!)
「サクラ、見てくれ! これが親父さんの『コアカプセル』だ。電源の無い場所でも半永久的に意識データを維持し続ける、超高密度の記憶体だ!」
タケルが震える指で託次の体が映し出されたモニターを示す。そこには、ホムンクルスの肉体が完成するまでの間、人々の意識を一時的にストックしておくための『魂の避難シェルター』が浮かび上がっていた。
「ここにお父さんが眠っているの?」
サクラが、託次の胸元にそっと手を置く。
「ああ、きっとそうだ。……親父さんの記憶の断片も、この中に大切に保管されているはずだ。かき集めた記憶の残滓をこのカプセルに集約させれば、いつか必ず……! それに、この技術は、ヘブンが崩壊しても数億人の意識をこの『箱舟』に一時退避させられる。肉体が出来上がるまで、彼らをここで眠らせておけるんだ!」
タケルはサクラの肩を抱き寄せ、力強い眼差しで彼女を見つめた。
「親父さんは、自分を消してでも、ヘブンの人たちと……そして、俺たちが生きる未来を守ろうとしたんだ。サクラの父親として、最高にかっこいい背中を見せてくれたんだよ」
タケルはコンソールに向き直り、最終プログラムのビルドを開始した。
「親父さん。アンタの娘は、俺が絶対に守り抜く。だから……少しの間だけ、そのカプセルの中で休んでいてくれ。数億人の魂を救い出した後、俺が必ず、アンタをサクラの元へ連れ戻す。……それが、娘の彼氏としての、俺の最初の仕事だ!」
サクラは、涙を乱暴に拭い、託次の冷たくなった手をそっと握りしめた。数秒間の沈黙。そして決意を固めたように顔を上げ「うん」と頷いた。
タケルが叩き込んだエンターキーが、静寂の中で力強く鳴り響いた。
その横、サクラが、モニターに映し出されたコアカプセル設計図を指し示す。
「でもタケルくん、ほらここ見て。カプセルの中枢になる『中間ユニット』なんて、今から数億個も作れないよ?」
サクラの震える声が、クリーンルームの静寂を切り裂いた。それは、エンジニアなら誰もが突き当たる、物理的限界という名の分厚い壁だった。数億の意識を救うには、数億の器がいる。この世界の終わりまで、残された時間はあとわずか。神様でもない限り、間に合うはずがなかった。
だが、タケルは泣き出しそうな笑顔のまま、猛烈な勢いでコードを書き換え始めた。モニターの蒼白い光に照らされた彼の横顔には、かつて柚木健が持ち、そして今、タケルという青年に受け継がれたエンジニアの執念が、青白い炎となって宿っていた。
「ハードが足りないなら、有り物で代用して、ソフトの力でカバーするんだ」
タケルの指先が、キーボードの上で踊る。画面には、かつて人々を『ヘブン』という檻へ送り込むために使われた、忌まわしきデバイスの設計図が表示された。
「ヘブン移行処置センターで回収された移行用チップ。あの在庫が、全国の拠点に山のように眠っているはずだ」
「あの悪魔のチップを、代用品にする気か!」
傍らでバイタルを注視していた長泉朗が、驚愕に目を見開いた。それは、権力者たちが国民を家畜のように管理するためにばら撒いた、支配の象徴だったからだ。
「ああ。あの悪魔のチップを、檻の鍵から救命ボートのエンジンに無理やり書き換えてやるんだ!」
タケルはエンターキーを叩き、SNSの深層へと信号を飛ばした。
「俺一人じゃ、数億人分のパッチを当てるなんて到底無理だ。……でも、この世界にはまだ、システムに魂を売っていないハッカーたちがいる。世界中の、名もなき善意のハッカー達の力を借りる!」
タケルが世界へ放ったのは、救済のためのオープンソース・プロジェクト『新世界』
『俺たちは今、世界の失敗作を直そうとしている。力を貸してくれ。これは、俺たちの「お父さん」が命懸けで守った、最後のバックアップだ』
柿枝が支配する歪んだネットワークの隙間を縫い、世界中のエンジニアたちの端末に、タケルからの熱いメッセージが届き始める。
「あとは、カプセルを半永久的に稼働させるためのペロブスカイト太陽パネルと全固体電池だ。莫大なハードの調達が必要になるが……」
タケルの言葉に、朗が頼もしく胸を張った。彼は白衣を脱ぎ捨て、泥だらけのシャツの袖を捲り上げる。その瞳には、医療に従事する者としての、そして託次の親友としての不退転の決意が宿っていた。
「それなら心配ない。ここはドローン製造の最先端拠点だ。ドローン用の高効率ペロブスカイトと、大容量の全固体電池が、山のように備蓄されているはずだ。託次が、命を懸けてここまで繋いでくれたんだ。ここで立ち止まったら、一生あいつに合わせる顔がない」
朗は固く拳を握りしめ、拠点の施設管理室へと走り出した。
「佐藤さん! 君はサクラちゃんのケアを。タケル君、ネットワークの防衛とプログラムの拡散を任せたぞ。残りの泥臭い作業は、全部我々大人が引き受けてやる!」
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