第三十一話 次代へ託す
――そして数時間後。
裾野、元トヨタ工場跡地。現在は自衛隊のドローン製造拠点として再開発されたその広大な敷地は、箱根の山から這い出してきた薄い霧に包まれていた。
不気味なほどに静まり返った拠点の鉄門を、柿枝の暗号キーによって強制解錠し、漆黒のハイエースEVが滑り込む。
滑り込んだ瞬間、タイヤが悲鳴を上げ、車体は激しくスピンしながら停止した。
「親父さん!」
タケルが荷室から運転席へと身を乗り出したとき、天見託次はすでにハンドルに突っ伏していた。全身から脂汗を流している。『託次の意志(論理キー)』が意識体の封印を解いているのだ。サクラはその後ろで、青白い顔のまま、必死に託次の腕を掴んでいた。
完全に孤立無援。自分たちだけでこの巨大な工場施設を起動し、サルベージを行わなければならない。その圧倒的な絶望の重さに、タケルが息を詰まらせた、その時だった。
――バリバリバリと、霧を暴力的に引き裂く排気音が、背後から迫ってきた。
拠点の開け放たれたゲートへ、狂ったような速度で突っ込んできたのは、自衛隊の車両でも、柿枝の追っ手でもなかった。フロントグリルを泥で汚し、ヘッドライトの凄まじいハイビームで霧を穿ちながら猛ブレーキをかけたのは、長泉総合病院の公用車だった。
車輪が完全に止まるより早く、運転席のドアが乱暴に跳ね上がる。そこから飛び出してきたのは、端正なスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを歪ませた男――長泉総合病院の現院長、長泉朗だった。
「託次! サクラちゃん!」
朗の声は、完全に枯れていた。続いて助手席から降りてきたのは、息を激しく切らし、ナーススーツのまま上着だけを羽織った佐藤看護師だ。彼女の目は、泣き腫らしたように赤く、しかしその手には、病院から命懸けで持ち出したであろう精密医療用の応急キットが握られていた。
タケルは、唖然としてその光景を見つめていた。この大人たちは、長泉から国道二四六号線を、文字通り車を壊すほどの速度で飛ばして駆けつけたのだ。
「院長……佐藤さん……」
託次が声を漏らすと、長泉朗はハイエースの運転席へ駆け寄り、ぐったりとした託次の頸椎に素早く指を当てた。
「君がタケル君か。託次から、長泉の緊急回線に連絡が入ったんだ。『サクラを連れて裾野へ向かう。長泉良朗の罪を雪ぎ、里村先生の遺志を継ぐ時が来た』とね」
朗の瞳には、かつて託次が『プロトタイプ01』として苦悩していた時代から、彼らをずっと見守り、支え続けてきた者だけの、濁りのない強い情愛が宿っていた。
「十年前、父である良朗は、柿枝総理とともに狂気に走った。だが、託次は……彼だけは、命を救うために生きるという、長泉の医療の誇りを捨てなかった。彼が、命を懸けて娘を、未来を救おうとしているんだ。現院長として、一人の医者として、見捨てるわけにいかないだろう!」
「サクラちゃん、無事なのね!? よかった……本当によかった……!」
佐藤看護師がハイエースの荷室へ飛び込み、サクラの小さな体を抱きしめる。サクラの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。偽物の佐藤看護師に騙され、張り詰めていた彼女の心が、ずっと自分を看病してくれた本物の温もりに触れて、ようやく融けた瞬間だった。
タケルは、胸の奥が痛いほどに熱くなるのをこらえ切れなかった。自分たちだけだと思っていた。この狂った世界で、システムに抗っているのは、自分とサクラ、そして親父さんだけだと思っていた。
だが、違った。託次の決死の連絡が、この大人たちの魂に火をつけたのだ。道路が封鎖されようが、世界が終わろうが、そんなものは関係ないと言わんばかりに、ニーヨンロクを切り裂いて走ってきた二人の大人の泥だらけの靴が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
「タケル君、突っ立っている暇はないぞ!」
長泉朗が、託次の体を支えながらタケルを鋭く睨んだ。その鋭い眼差しは、すべてのシステムをハックしてきたタケルに、初めて大人の背中の頼もしさを教えるものだった。
「託次の脳波の変調が始まっている。一刻を争う。拠点のクリーンルームへ彼を運ぶぞ。君のその優秀な指先は、こういう時のためにあるんだろう!」
「分かってるよ、院長先生!」
タケルは乱暴に涙を拭い、ハイエースのコントロールパネルを叩いた。
世界が崩壊へと向かうカウントダウンの中で、天見託次が繋いだ絆の糸が、今、裾野で最も眩い奇跡の光を放ち始めようとしていた。
防音壁に囲まれたクリーンルーム。
大型サーバと医療ユニットが直結され、無数のケーブルが這う処置台に横たわる天見託次の顔を、LED照明の白い光が冷酷に照らしていた。
「サルベージ、開始します」
佐藤看護師の声は、震えていた。彼女の手は、いつも通りの正確さでバイタルをチェックしているが、その瞳からは絶え間なく涙が溢れ、マスクを濡らしている。
傍らに立つ長泉朗は、名医と呼ばれ、これまで数え切れない命を救ってきた。その指が、今は親友を消すために小刻みに震えている。
「タケル君、いいか。データの流入が始まったら、もう後戻りはできない。託次の意識の領域はすべて、里村の遺産によって上書きされる」
「わかってる」
タケルは、ぼやける視界を必死に繋ぎ止めながら、コンソールの前に座っていた。
サクラは、託次の手を両手で固く握りしめ、言葉にならない嗚咽を漏らしている。
「サクラ、タケル君。……泣くな」
処置台の上で、託次が静かに口を開いた。
彼の瞳は、すでにサルベージの干渉を受け、虹彩が不自然に明滅している。それでも、彼は二人を見つめていた。一人の父親として。
「俺は、ずっと怖かった。自分が偽物だとバレるのが。里村先生に言われて、ただの器としてお前を守っているだけなんじゃないかって……」
託次の声が、かすかに掠れる。データの浸食が、彼の言語野にまで及び始めていた。
「でも、違った。……お前と笑い合った時間も……サクラ、お前とバカみたいに言い合った日々も……全部、全部、俺の……俺だけの……宝物だ」
「お父さん! やだ、行かないで! 私、まだ……まだ何も返してない!」
サクラが泣き叫び、託次の胸に顔をうずめる。
託次は、麻痺し始めた右手で、最後に一度だけ、愛おしそうにサクラの髪を撫でた。
「いいんだ。……俺は、お前の中に、ずっといる。……名前を呼んでくれれば……いつでも……」
モニターに映し出されるのは、人類を救うための『ホムンクルス製造ドキュメント』と『コアカプセル技術』。それと引き換えに、託次の瞳から、娘としてサクラを愛し、タケルを導いてきた「天見託次」としての意識の光が、濁り、失われていく。
「お父さん! お父さん、私のこと、わかる!? 嫌だよ、消えちゃダメ……!」
サクラが託次の胸元に縋り付き、叫び声を上げる。その涙が、託次の服に黒い染みを作っていく。託次の視線は、まだサクラを追っていた。だが、その瞳孔は既に焦点は千々に砕け、記憶の糸が一本、また一本と断ち切られていく。
「サクラ……タケル……」
託次の唇が、最後に二人の名を紡いだ。
だが、その響きは既に遠い。まるで、はるか彼方の銀河から届く、途切れ途切れの通信のように。
「俺を……拾い、集めて……くれ……」
それが、人格が完全に崩壊する直前、彼が遺した最後の天見託次としての意志だった。
「わかってる! わかってるから! 親父さん!」
タケルは、溢れ出る涙を拭うことすら忘れ、指先が火花を散らすような速度でキーボードを叩き続けていた。彼の目的は、人類を救うドキュメントの回収だけではない。
巨大なデータの波に押し流され、破棄されていく託次の断片――その記憶の残滓を、隅々からかき集め、極小の領域へと叩き込んでいた。
(消させない……。アンタがサクラにかけた言葉、一つだって消させはしない!!)
たとえ、これらを後で繋ぎ合わせても、それは『今の託次』ではないかもしれない。 意識の統一性は失われ、目覚めた男は、託次の記憶を持つだけの『別の誰か』になっている可能性が高い。それでも。
(別人だっていい……。またゼロから、俺たちがアンタを教えてやる……。だから……っ!)
電子音が鳴り響き、室内に静寂が戻った。
処置台の上の男は、まだ息をしている。心臓も、規則正しく拍動を刻んでいる。
だが、ゆっくりと開かれたその瞳には、もう誰もいなかった。サクラを見ても、タケルを見ても。その瞳はただ、虚空を映し出すレンズのように澄み切っていた。そこにあるのは、ドキュメントを保持した、ただの器だった。
「あ、あぁ……お父さん……?」
サクラが、恐る恐る託次の頬に手を触れる。
だが、託次の表情は動かない。サクラを慈しんだ微笑も、タケルを信頼した強い眼差しも、すべてはドキュメントの下敷きになり、消えたのだ。
「う、あぁぁぁぁぁっ!!」
タケルは、キーボードを叩きつけるようにして突っ伏し、慟哭を上げた。視界が涙でドロドロに溶け、足元が崩れ落ちるような絶望が襲いかかる。自分たちの手で、父親をフォーマットしてしまった。
「タケル君。データを、確認しろ……」
長泉朗の、血を吐くような声。
タケルは、嗚咽を漏らしながら、託次の命を削って取り出したデータを読み解き始めた。モニターに映し出される、人類を救うための設計図。そのコードの一行一行が、自分たちを愛してくれた男の死の記録に見えて、タケルの心臓を鋭く抉る。
「拾い集める。……必ず、アンタを……もう一度……」
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