第十四話 強襲、拷問、大爆笑
【避難】
【いますぐ逃げろ】
不気味なほどシンプルなその文字列が、画面上でチカチカと点滅を繰り返す。
先ほど、神業のハッキングで政府の防壁をこじ開けてくれた『見えない味方』からの緊急警告だ。
直後、柚木が命懸けで配備した全世界のブリッジが、糸が切れたように次々とダウンしていく。
「……っ、配備先を逆探知された! ここも、システムも、政府の監視網に完全に検知されて泳がされていたんだ!」
柚木は歯噛みした。エンジニアとしての自負が、国家権力という巨大な暴力の前に粉砕されていく。勝又はその言葉を聞くや否や、顔面を蒼白にして叫んだ。
「まずい、仲間たちにも逃げてって伝えないと……!」
勝又は震える手でスマートフォンを掴み、人海戦術に協力してくれた仲間のジャーナリストたちへ連絡を試みる。だが、彼女の指が発信ボタンに触れるよりも早く、二〇六号室の玄関ドアが「カチリ」と、場違いなほど乾いた音を立てて解錠された。
「なっ……!?」
静かに、そして退路を完全に断ち切るように。黒い戦闘服とフルフェイスのヘルメットに身を包んだ特殊部隊が、一言の発声もなく室内に雪崩れ込んできた。
彼らは流れるような動作で二人の自由を奪い、額には幾つもの赤いレーザーサイトの光点が這い回る。銃口から放たれる無言の圧力が、柚木の小さな体を射すくめた。
息を呑んで硬直する二人の前に、部隊の先頭に立つ冷酷な目つきの男が、ゆっくりと足を踏み入れた。
男はゴミ捨て場を見るような目で室内を一瞥すると、銃口の先で身構える幼い柚木を見下ろした。その薄い唇が、僅かに歪む。
「ほう……。本当に、子どもの姿をしているのだな」
柚木はその言葉に、背筋を凍らせた。
彼らは怪しいハッカーが潜伏しているからここに来たのではない。最初から、『ホムンクルスにオーバーライドした柚木健』という存在を、確実な標的として狩りに来たのだ。
その時、男の耳にあるインカムから声が漏れた。
『こちら第三班。並行して実施したハッカーのアジトへ突入完了。……しかし、ターゲットは既に逃亡し、もぬけの殻です。どうしますか、鈴木部長』
その報告を聞いた瞬間、鈴木は小さく、苛立たしげに舌打ちをした。
(……逃げたか。あの『見えない味方』は)
柚木は、銃口を突きつけられたまま鈴木を睨みつけた。
自分たちは捕まった。だが、あの警告をくれた謎のハッカーだけは、この包囲網を予測し、一足早く闇に消えたらしい。
「勝又さん、動くな……。こいつらは、遊びでここに来たんじゃない」
柚木は、震えそうになる幼い声を必死に抑えて言った。
鈴木は柚木の言葉など聞こえていないかのように、傍らの部下に顎で指示を出す。
「PCを押収しろ。それから、この女と……『サンプル』を運べ。柿枝総理がお待ちだ」
「サンプル……だと?」
柚木の怒りが爆発しかけたが、特殊部隊の冷たい銃口がその眉間に押し付けられる。 勝又は、愛用のカメラを奪われ、腕を捻り上げられながらも、鈴木に向かって吠えた。
「趣味の悪い特殊部隊ね、あんたたち。私の記事が世界中に回った後で、どんな顔をして会見するつもりかしら?」
「記事、か」
鈴木は冷淡に鼻で笑った。
「すべてはヘブンの安寧のために、既に処理済みだ。君たちの言葉を信じる者など、この世界には一人もいなくなる」
柚木と勝又は、そのまま力ずくで部屋から引きずり出され、世田谷の『野戦病院』は崩壊した。
政府の圧倒的な軍事レベルの監視網が牙を剥いた一網打尽の夜から、一夜が明けた。
勝又萌子が命を懸けて放った渾身の告発記事は、柿枝政権が張り巡らせた周到なAI工作網によって、瞬く間に悪質なテロリストによる国家転覆を狙ったフェイクニュースへと仕立て上げられていた。
真実に触れかけた世論は、再び政府の巨大な欺瞞の濁流に呑み込まれ、SNS上では勝又たちへの苛烈なバッシングが吹き荒れる。彼女と、拡散に協力した骨のあるジャーナリストたちは全員が国家反逆の罪で秘密裏に拘束された。抵抗の術もなく意識を抜かれ、彼らは今、ヘブンの深淵で強制的な休眠を強いられている。
特殊部隊に捕らえられた柚木は、ヘブン移行センターの最下層にある隔離室にいた。
柿枝と鈴木諜報部長の狙いは、柚木の記憶領域に隠されたホムンクルスに関する極秘ドキュメント。彼らは、今の柚木にもその記憶が引き継がれていると確信し、その首の後ろに設けられた接続ポートへ強制的にアクセスチップを突き刺した。
「さあ、ホムンクルスのドキュメントを吐き出してもらおうか。柚木君」
鈴木が冷酷に抽出ボタンを押すと、柚木の脳内から膨大なパケットが政府のサーバへと流れ込んだ。巨大なモニターに展開されていくその真実を、鈴木とIT班のエンジニアたちは息を呑んで見つめる。だが、直後、彼らの表情は凍りついた。
「ぶはっ! はーっはっはっは!!」
拘束衣の中で、柚木が喉を鳴らして大爆笑した。
政府の誇る巨大モニターを埋め尽くしていたのは、不老不死の設計図でもなければ、最新の生命科学のデータでもない。
溝落としで峠を攻める車。首都高を悪魔のように疾走する、時代がかったマシンの咆哮。そこに映し出されていたのは、数千冊にも及ぶ『レトロな車系コミック』の電子データだった。
「貴様っ、ふざけやがって!!」
「俺が、命懸けで守った愛読書だ。お望みなら全巻くれてやるよ。心して読め!」
鈴木の怒号が響く中、柚木は意識の混濁を感じていた。
強引なデータ抽出のショックは、彼の身体に決定的な終わりをもたらしていた。圧縮されていた膨大な知識データが脳内で暴走し、柚木の残された記憶領域を凄まじい勢いで上書きしていく。
そして同時に、この小さな肉体の本来の持ち主――『タケル』という名の意識が、深い眠りからついに浮上し始めていた。
(ああ、バグの終了時間か……)
自分の自我の輪郭が、砂の城のように崩れていく。タケルというホムンクルス本来の意識がアクティブになれば、一時的に領域を間借りしていただけの柚木健は消滅する。だが、ここで消えるわけにはいかない。この身体を、そしてこの知識を、彼らに託さなければならない。
「クソ、こいつはブラフだ。ドキュメントは佐伯美桜の方だったか!」
激昂した鈴木が機材ワゴンを蹴飛ばし、金属音が隔離室に響き渡る。そこへ、焦った様子の部下が駆け込んできた。総理の到着、そして「第二班のお客様」の来訪の報。
鈴木は忌々しげに舌打ちし、部屋を後にした。一人の女性諜報部員が部屋を施錠して出て行った。
それからわずか数分の後、隔離室の電源が落ち、「カチリ」と扉の解錠する音が響いた。柚木はそれを見逃さなかった。何故電源が落ちたのか、扉が開いたのかは分からないが、本能が逃げろと訴えた。
彼は残された最後の力を振り絞り、首の後ろの接続ケーブルを引き抜くと、拘束具のロックを力ずくで解除して駆け出した。
(見たか! これがホムンクルスの特殊能力だ! 実装した覚えは……無いがな!)
建設前から頭に叩き込んでいた施設の構造図を頼りに、警備の死角を突く。驚異的な反射神経と脚力で、柚木はついに施設の敷地外、夜の埋立地へと脱出した。
外へ出たまでは良かった。だが、行く当ても、移動手段もない。トラックの排気音が響く、冷たいアスファルトの上。飛びかける意識を繋ぎ止め、よろめきながら歩く柚木の視界は、コマ送りのように景色が寸断され、明滅を繰り返していた。手足の感覚が消え、自我が知識データの濁流に呑み込まれていく。
(美桜、天見。すまん、俺はここまでだ。あとは……頼んだ、ぞ……)
限界を迎えた柚木の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。夜の冷気が、小さな頬を撫でる。意識が遠のく中、男の太い腕が、動かない柚木の体を優しく抱き上げる。『柚木健』としての最後の意識が、仲間たちの名前を呼びながら、暗い闇の中へと沈んでいく。
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