第十五話 オンライン学校の三人
灰色の雲が立ち込める横浜の朝。古いマンションの一室。
耳元で鳴り響く、荒れ狂う波濤の音。そして、掌に残る——自分よりも少しだけ小さな、温かくて震える手の感触。隣には、誰かがいた。泣きそうな、それでいてすべてを託すような瞳をした女性が、何かを叫んでいた。
「……っ、待て、行くな!」
タケルは闇に向かって手を伸ばし、虚空を掴んだ。
だが、その瞬間に覚醒が脳を支配する。夢の境界線が容赦なく引き直され、鮮明だった色彩が猛烈なスピードで色褪せていった。
心臓が早鐘を打っている。頬には冷たい汗が伝い、喉の奥はひどく渇いていた。
必死に、今見たものを脳のストレージに書き留めようとする。だが、思考を巡らせるほどに、記憶は指の間から溢れる砂のように消えていく。
女性の顔はただの白い影になり、切迫した叫び声は空調の音にかき消された。残ったのは、胸を締め付けるような、正体不明の絶望と愛着の残滓だけだ。
「思い出せない。……クソッ」
タケルは乱れた呼吸を整えながら、枕元に置いてあった水を一気に飲み干した。
これが初めてではない。十七年間生きてきた中で、数えきれないほど繰り返されてきた情報の剥離だ。
鏡に映る自分の顔は、相変わらず端正すぎてどこかのアーティストが作った工芸品のようだった。肌にはシミ一つなく、どれほど不摂生な夜を過ごしてもクマすらできない。
(相変わらず、空っぽな器だな)
青白い光が部屋に広がり、タケルを日常へと引き戻す。
夢の内容はもう、九割がた失われていた。ただの「海が出てくる怖い夢」として、脳の片隅に追いやられていく。
枕元に放ってあったパーカーをひっ掴み、強引に頭から突っ込んだ。
タケルの記憶は、十年前のあの日、この部屋のベッドで目覚めた時から始まっている。神野健という名前以外、七歳までの自分を証明する写真は一枚もなく、親の顔すら知らない。
目覚めた直後の彼を支えてくれたのは、隣に住んでいたお節介な老夫婦だった。彼らが数年前に引っ越してからは、この部屋は完全な一人の城になった。生活費に困ることはない。『あしなが玉岩会』と名乗る謎の支援団体から、毎月、一人の高校生が贅沢をしなければ余るほどの金額が自動的に振り込まれる。
「あしなが、ね。顔も知らない恩人が、俺に何を期待しているんだか」
自嘲気味に呟き、彼はVRゴーグルを装着する。網膜に展開された仮想教室は、灰色のグラデーションが支配する神奈川区の曇天とは正反対の、抜けるような青空と緑に囲まれた美しいキャンパスだった。
タケルが通うオンライン学校は、この現代社会において奇妙なほど自由を許容していた。校則は形骸化し、アバターのカスタマイズも個人の裁量に任されている。それは管理社会での、ガス抜きのような場所だった。
デスク脇の箱の中には、政府支給の『栄養バー』が転がっているが、彼はそれに手を出さない。代わりに、自分で淹れた苦いだけのコーヒーを啜る。喉を焼くような感覚。これだけが、自分が生きていることを実感させてくれる儀式だった。
二年生B組、オンライン・ラウンジのログイン画面が展開される。
そこには、長泉の病院にいる天見美桜と、勝田台の山田絵美里が待っている。
(七歳までの記憶なんて、最初からなかったのかもしれない。俺は、この世界に転生した、バグみたいな存在だ)
だが、サクラの文字が画面に踊るたび、そのバグが激しく熱を帯びるのをタケルは知っている。記憶の欠落を埋めるように疼く、安堵と執着心。
タケルはアバターのパーカーのフードを深く被り、ラウンジへとダイブさせる。アバターは本人に準拠した姿だが、ラウンジの中では多少のカスタマイズが許されている。
「タケル君、サクラ、生きてるー?」
真っ先に声をあげたのは、ピンク色のアバターを跳ねさせているエミリだ。勝田台の自宅から繋いでいる彼女は、制服の襟元に光るラインストーンのピアスを嬉しそうに揺らしている。
「ギリギリな。徹夜でコードと睨めっこしてて、危うく情報の雪崩に埋まるとこだったぜ」
タケルは黒いパーカーのフードを少し持ち上げ、わざとらしくおどけたエモートを返した。ふと視線を横に向けると、そこには白いワンピース姿のサクラがいた。彼女のアバターは、黒いサテンのリボンで髪を纏め、目元には薄くパールの粉を散らしている。
「あ、サクラ! その目元のパール、すごく可愛い! 先週のアップデートで追加されたコスメデータだよね?」
エミリがサクラのアバターに駆け寄り、顔を覗き込むようにエモートを動かした。
「えへへ、気づいてくれた? お小遣いコインで買ってみたの。でも、ちょっと派手だったかな……いつか、この病室を出られたら。その時に、タケル君やエミリちゃんと一緒に現実の街を歩くための、練習のつもりだったんだけど……やっぱり、変かな?」
サクラが照れたように伏し目がちになる。タケルの胸の奥が、理由もなくギュッと締め付けられた。
「全然! もっと派手にしちゃいなよ! いっそ髪色も私みたいにピンクにするとかさ!」
「ええっ、ピンクはちょっと……。お父さんがびっくりして、病室まで飛んで来ちゃうよ」
困ったように笑うサクラに、タケルも笑いながら肩をすくめた。
「いいんじゃね? 青春は派手にしてなんぼだろ。親父さんが泡吹いて倒れない程度にな!」
「タケル君は分かってるねー。青春は派手にしてなんぼだもんね! 現実の校則じゃ絶対できない格好を、ここで全部やりきらなきゃだよね!」
エミリは誇らしげに胸を張って、ピンクのツインテールを揺らした。その屈託のない笑顔に、サクラは少しだけ眩しそうな、羨望の眼差しを向ける。
「ふふ、エミリらしくて似合ってるよ。……私もいつか、そんな風におしゃれして、現実の街でエミリと一緒に歩いてみたいな」
サクラが寂しそうに微笑むと、エミリは「絶対行けるよ!」と力強く頷いた後、ふとジト目でタケルの方を振り返った。
「で? タケル君はサクラのこの可愛いメイク、どう思うわけ?」
「は? 俺に振るなよ。そういうのは専門外だ」
「出たよ、斜に構えた系男子。いい、タケル君。サクラは私の大事な親友なんだからね。もしサクラを泣かせるような変な虫が寄り付いたら、私がそいつの端末を爆発させるから。……タケル君も、ちゃんとサクラを守るの手伝いなさいよ?」
エミリの冗談めかした、けれど確かな親友への愛情がこもった言葉。タケルは黒いパーカーのフードを少し持ち上げ、わざとらしくおどけたエモートを返した。
「へいへい。その時は、俺の最高に優秀な防壁で、その変な虫をデジタルの奈落へ突き落としてやるよ。親父さんが泡吹いて倒れない程度にな」
タケルがそう言って笑うと、サクラもホッとしたように小さく声を上げて笑った。
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