第十三話 いますぐ逃げろ
柚木は、バーが伸びるのを待つ一息の間すら惜しみ、裏のコンソールで別のスクリプトを走らせた。研究所の踏み台サーバを多段経由させ、外線ネットワークの極細の隙間を縫って、インドチームのヴィジャイとラーニーへ回線を繋ぐ。暗号化された音声通信が、ノイズ混じりにスピーカーから漏れ出した。
『ユズキか! 無事だったのか! こちらは準備万端だ、サマトヴァの全世界配備はすべて完了しているぞ!』
ヴィジャイの、安堵と興奮の入り混じった声が響く。
「ああ、無事とは言い難いな。……美桜が消息不明なんだ。俺は今、別ルートからブリッジを展開している。それと、サマトヴァの配備、サンキュー。それから……お前らがSNSの拡散を手伝ってくれたんだな。あの神業、本当に助かったよ」
絶望的な状況で道を切り拓いてくれた味方への感謝を口にする柚木。しかし、スピーカーの向こう側から返ってきたのは、困惑の沈黙だった。
『SNS拡散? ああ、ヘブンの真実のリークのことか。いや、ユズキ。それは俺たちじゃないぞ』
「なんだって?」
柚木の背筋に、氷のような戦慄が走った。ヴィジャイたちがやっていないというのなら、政府の軍事級フィルタリングを無力化し、自分たちを出口へと導いたあの超絶的なハッカーは、一体誰だというのか。
柚木は、隣で同じように目を見開いている勝又と顔を見合わせた。自分たちの知らないところで、何かが、あるいは誰かが、この絶望的な戦いの盤面を書き換えようとしていた。
スピーカーから返ってきたヴィジャイの困惑した声に、柚木は一瞬、思考を停止させた。だが、それよりも先にヴィジャイが鋭い指摘を投げかけてくる。
『それよりユズキ、その声はどうした? まるで子供じゃないか。変声機か何かか?』
柚木は思わず自分の喉元に手をやった。柚木健としての太い声をイメージして発した言葉は、プロトタイプ02の幼い声帯を通ることで、どうしても高く、幼い響きになってしまう。この絶望的な戦いの最中にあって、自分の肉体が子どもであるという事実は、彼にとって何よりも忌々しい制約だった。
「そのうち話す。今はそれどころじゃないんだ」
柚木は吐き捨てるように言った。今の自分の状況――人造体に意識をコピーして生き延びているという超常的な事実を説明するには、あまりにも時間が足りない。何より、彼の意識はいつ『本来の主』に領域を明け渡すか分からない綱渡りの状態だ。
「いいか、ヴィジャイ。それより頼みがある。……美桜だ。美桜からもし連絡があったら、どんな些細なことでもいい、すぐに俺に繋いでくれ」
『ミオから……? ああ、わかった』
柚木は隣で固唾を呑んで見守っている勝又に視線を向け、再びコンソールへと向き直った。画面上では、サマトヴァへと繋がるブリッジのプログレスバーが着実に進んでいる。
「彼女は、命懸けで俺を……。生きているはずだ。あいつは、そう簡単に消える女じゃない。だから、頼むぞ」
『了解した。……ユズキ、無理はするなよ。その声……本当におかしいぞ』
「切るぞ」
柚木は一方的に通信を遮断した。
室内には再び、ノートPCのファンの微かな音だけが残る。
(ヴィジャイたちじゃないなら……一体誰が検閲を抜いた?)
勝手にコードが書き換えられたターミナル画面のログを、小さな指でスクロールさせた。そこには、温かい慈悲を感じさせるような痕跡が残されていた。
ヴィジャイとの通信を切った後、柚木はしばらくの間、プログレスバーを凝視していた。しかし、思考は、現在位置から遠く離れたある男の行方を追っていた。
(天見、お前はどこにいる?)
柚木は自分の小さな指を、キーボードの上で休ませる。今、冷静に状況を整理すれば、決定的な矛盾がある。
自分と美桜はフルミネGTで崖から海へ転落した。意識が途絶えたのはその瞬間だ。だが、目覚めた時、俺はこの『プロトタイプ02』の体で、下田にいたところを勝又に保護された。
本来、この人造体は東雲の研究所の培養カプセルの中にあったはずだ。海に沈んだ柚木の意識が、どうやって物理的に離れた場所にいた『02』に飛び移ったのか。
(バグで意識が移ったとしても、器が移動していなきゃ説明がつかない。誰かが研究所からこの体を連れ出したんだ……。あんな厳戒態勢の中で、それができる奴は一人しかいない)
脳裏に浮かぶのは、あの時二手に分かれた天見託次の顔だ。
「ねえ、ユズキ。手が止まっているわよ。どうかした?」
勝又が、モニターの光に照らされた柚木の横顔を覗き込んできた。
「勝又さん。あんたが俺を見つけた時、近くに誰か……三十前後の男はいなかったか? あるいは、乗り捨てられた車とか」
「男? いえ、私が見たのは、パニックになった観光客だけよ。君は車の影で、意識を失って倒れていたわ。……そういえば、その近くに古い灰色のワゴンが停まっていた気がするけど、地響きが凄くてそれどころじゃなかったわね」
古い灰色のワゴン。日本サイバトロニクスの社用車かもしれない。
柚木の推測が、確信へと変わる。
(あの馬鹿……俺たちが囮になっている間に、研究所に引き返したのか。里村の記憶を使って、残された器を救い出すために)
だとすれば、ここにはいないもう一つの器――佐伯美桜がオーバーライドするはずだった『プロトタイプ03』も、天見が連れ出しているはずだ。
「天見。お前、まだ生きているんだろうな」
柚木は再びキーボードを叩き始めた。今度はブリッジの実装ではなく、伊豆スマートシティの交通監視システムへの侵入だ。天見が下田まで来たのなら、必ず何らかの足跡が残っている。
(天見のことだ、あの混乱の中で俺……『02』を見失ったんだろう。だが、『03』まで手放すはずがない。あいつは美桜のことも、ホムンクルスたちのことも、放っておけるような冷徹な奴じゃないからな)
柚木は、焦燥感を抑え込むように強くエンターキーを叩いた。
天見が無事だという確証はない。だが、あいつが生きて動いているのなら、必ずサマトヴァが繋がった瞬間に、何らかのコンタクトを寄越してくるはずだ。
「ユズキ……あんた、自分だけじゃなくて、仲間のことも全部背負い込むつもり?」
勝又の声には、呆れと、それを上回るほどの敬意が混じっていた。
「背負ってるんじゃない。俺が、あいつらに生かされたんだ」
柚木は、幼い声で短く答えた。
自分の意識がいつまで保つか分からない。美桜の行方も、天見の安否も不明。それでも、目の前の画面には真実という名の武器が着々と組み上がっている。
「勝又さん。天見……俺の仲間の捜索は、裏で回し続ける。あんたは、さっきの暴露記事の反応をチェックして。あいつがどこかで見てるはずだ。俺たちが反撃を開始したことを、知らせてやるんだ」
「了解よ、小さなリーダーさん」
勝又は不敵に笑い、再びスマートフォンへと意識を向けた。
ブリッジの配備を示すプログレスバーが、『完了』と伝えた。
勝利の確信に近い熱が柚木の胸をよぎる。あとはこのブリッジを通じて、全世界のサマトヴァとヘブンを物理的に接続するだけだ。そうなれば、休眠させられた同僚たちの意識は、仮想世界の住人として目覚める。
だが、その瞬間だった。
勝又のノートPCの画面が、脈打つような禍々しい鮮紅色に染まった。
何事かと二人が息を呑む暇もなく、無数のウィンドウがモニターを埋め尽くすように展開される。そこに表示されていたのは、かつての震災や津波警報を彷彿とさせる、強烈なコントラストの警告画面だった。
【避難】
【いますぐ逃げろ】
不気味なほどシンプルなその文字列が、画面上でチカチカと点滅を繰り返す。
先ほど、神業のハッキングで政府の防壁をこじ開けてくれた『見えない味方』からの緊急警告だ。
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