第十二話 開かれたバックドア
勝又の部屋は、もはや女の一人暮らしの風情を完全に失っていた。散らかったコーヒーの空き缶、唸りを上げるノートPCの排気音、そしてモニターの青白い光が、そこをさながら『国家という怪物に挑む野戦病院』へと変貌させていた。
「よし、記事のベースは完成したわ。ヘブン移行センターの物流実態と、ヘブンの生活コンポーネント未実装の証拠……。これをリンクさせれば、柿枝のスキームは完全に丸裸よ!」
勝又が血走った目でエンターキーを叩き、データを飛ばす。その先には、彼女が招集した命知らずのジャーナリストたちが待機していた。
『上出来だ。こっちも準備はできている。海外の匿名掲示板、SNSの裏アカウント、国内外の大手メディアへのタレコミ窓口……。あらゆるルートを使って、タイミングを合わせて一斉に放つぞ!』
勝又の仲間と共に、情報の特大爆弾がネットワークの海へと投下された。数分後には世界中がこの嘘の真実で埋め尽くされ、柿枝政権は炎の中に消えるはずだった。しかし、期待していた爆発は起こらなかった。
「嘘でしょ? 記事が、あれも、これも……全部消えていく? なんで、なんでよ!」
勝又の震える声が、狭い部屋に響いた。彼女たちが放ったデータは、アップロードされた数秒後には『規約違反』や『不適切なコンテンツ』として、まるで透明な手に握りつぶされるように消滅していく。代わりに、無害な芸能ゴシップや大量のスパム投稿が濁流のように溢れ出し、真実の声を完全に泥の下へと沈めていった。
「仲間のアカウントも次々と凍結されている! くそっ、柿枝の奴、どれだけ強固なAI工作網を張ってんのよ!」
勝又がスマートフォンを握りしめ、歯噛みする。隣でブリッジ実装のコーディングを進めていた柚木が、鋭い舌打ちと共にコンソール画面を切り替えた。
「政府直轄の、軍事レベルのフィルタリングだ。あいつら、パケットの中身をリアルタイムで検閲してやがる。――俺が防壁の穴をこじ開けてやる! そこからもう一度データを流し込め!」
柚木の小さな手が、悲鳴を上げるようにキーボードを叩き始めた。ペチペチペチペチッ! という軽い音が、切迫したリズムで部屋を満たす。しかし、その音は時折、不自然に乱れた。
「ちっ、指の長さが足りねぇ! なんでこんな時に子どもの体なんだっ!」
柚木は苛立ちを爆発させた。脳内にある大人のブラインドタッチの感覚と、実際の小学低学年の小さな指のサイズが絶望的に合わない。コントロールキーと特定のキーを同時に押すような高度なショートカットすら、今の彼には指をいっぱいに伸ばさなければ届かない。頻発するタイプミスが、極限状態の焦燥に拍車をかける。
「ターミナルも、画面も足りねぇ! 普段のショートカットデバイスもありゃしねぇ! ノートPCの画面一つじゃ処理が追いつかねぇんだよ! もっと画面を寄越せぇぇ! うらららららぁっ!」
柚木は半ばヤケクソのような雄叫びを上げ、短い指を狂ったように動かした。だが、壁は厚い。
【権限がありません】
【アクセスが拒否されました】
無情な赤いアラートが画面を埋め尽くす。
「くそっ、弾かれる! これじゃあブリッジを展開する前に、逆探知で場所を特定されちまうぞ!」
万策尽きた、と思われたその時だった。
柚木が操作していた黒いターミナル画面に、突如として見知らぬコマンドが外部から割り込んできた。
「なっ、なんだ!? 俺のPCが乗っ取られた!?」
「政府からの逆探知!?」
勝又が身構えるが、画面に流れるコードの質が、政府の監視AIとは決定的に異なっていた。それは、洗練され、遊び心すら感じさせる、神業的なハッキングシーケンス。政府の防壁を嘲笑うかのように次々と突破し、一瞬にして海外のニュースサイトへ繋がる「黄金の裏口」を構築してしまったのだ。
「これは……道案内されているのか?」
柚木は目を丸くした。そのプログラムは攻撃ではなく、明らかに「ここを通れ」と扉を開けて待っている。まるで、高速道路をぶっ飛ばす時に、「ほら飛ばせ」とばかりに追い越し車線の前方からスーッと車が居なくなるかのように。
「ええい、行けぇ! 行ってしまえぇ!」
柚木はヤケクソでエンターキーを叩いた。開かれたルートに、勝又の暴露データをすべて流し込む。
直後、状況は劇的に反転した。
政府の検閲AIすら検知できない未知のプロトコルをすり抜けた記事は、世界各国のトップニュースサイトをジャックし、SNSのトレンド第一位に強制的に固定された。今度こそ、どれだけスパムを流しても、どれだけ権力が圧力をかけても揉み消せない。
「す、すげえ……。完全に政府の防壁を出し抜いたぞ」
「ユズキ……今の、あなたの研究員仲間なの?」
驚愕する勝又に対し、柚木は画面を見つめたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
「分からない。俺の知る研究員に、こんなイカれた真似ができる奴はいない」
柚木は、世界中に潜む真の自由を愛するハッカーたちの影を感じ取っていた。
「少なくとも、世界で最もイカれたハッカーが、今、俺たちの味方についていることだけは確かだ」
未知の協力者がもたらした奇跡的な勝機に目を見開いたものの、柚木の理知的な脳は即座に熱を冷まし、本来のミッションへと意識を回帰させた。暴露データの拡散は、あくまでヘブンの嘘を暴くための地ならしに過ぎない。本命はブリッジ機能の実装を完遂し、ヘブンに囚われている人々の意識を呼び戻すことだ。
柚木の小さな手が、再びノートPCの薄いキーボードをペチペチペチペチと、小児の肉体とは思えない異常な速度で叩き始める。指の短さを補うように、肘から先を激しく動かしてキーを乱打するその姿は、凄絶ですらあった。
「よし、ブリッジが完成した。これより、ヘブン本体と全世界の生活コンポーネント『サマトヴァ』を配備している各リージョンに向けて、実装パケットの一斉送信を開始する。――エンタァッ!」
小さな人差し指が、弾かれたようにキーを叩く。
「やったわね!」
興奮した勝又が、祝福のハイタッチをしようと勢いよく手を挙げる。だが、柚木はそれに応える余裕もなく、ただ食い入るように画面を見つめ続けていた。
コンソール画面には、複数のデータ転送を示すプログレスバーが浮かび上がった。世界中に張り巡らされたクラウドリージョンの深部へ、閉じ込められた魂を解き放つための救済プログラムが、光の速さで浸透していく。
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