3話 自主トレと数学
どれだけ走っただろうか。
腕時計の数字が四〇を指したころ、俺は一旦足を止めた。
家から約八キロ。このあたりで一番大きな公園のベンチに腰掛けた。
足に乳酸がたまっているのを感じる。外気温はそこにあるモニターに七度と表示されているが、きっと嘘だ。
長袖のアンダーシャツを着ていることを後悔するほど火照って暑い。まるで夏だ。
「ふぅ、生き返るぜ…。」
息が上がったところで水を飲む。
一見むせそうだが、実はこれが一番気持ちいい。疲れた体に、冷たい水が染みこんでくる。
…染みこみすぎた。
「ゲホゲホッ!」
やはり、水はゆっくり飲まなくてはいけないようだ。
しばらくベンチで休んでいると、向こうから歩いてくる人影を見つけた。
「…見覚えがあるな。」
その人影と、その服装に見覚えがあった。
間違いない。あれは月川だ。
あの時と同じ、黄色い服を着ている。
どうやら向こうはこちらに気付いていないらしい。
それもそうか。普段学校では眼鏡に制服を着ているのに対して、今はコンタクトでサングラスをかけ、服装も野球着だ。気づかれるはずがない。
そう思ったのも束の間だった。
どうやら気づかれたらしい。
「あれ?東雲君じゃん。こんなとこで何してるの?なんかの練習?」
暇なのだろうか。
いくら知り合いに似ているとはいえ、公園のベンチでむせかえっているサングラスに突然話しかけるとは、不用心すぎはしないだろうか。
「えーと、今は走り込みをしていました。」
どうしても敬語になってしまう。
「へーすごいじゃん。どっから走ってきたの?」
「あの山の向こうのあたりです…。」
まるで尋問を受けているような返しになってしまう。
ただ、月川は何も気にしていない様子だ。
「えーすごいねー。頑張ってね。」
そういうと月川は去っていった。何だったのだろう。ただ悪い気はしなかった。
「…ま、帰りも頑張るか…。」
俺はポケットから出しかけていた定期券をもう一度、奥底へと押し込んだ。
走りはじめて三キロ弱。俺はすぐにその選択を後悔した。
ちょっと褒められたからって調子に乗って走ろうとしなければよかった。
ペースはキロ五分半をオーバーしガタガタ。膝はガクガク。呼吸も上がって苦しい。
そして駅も近くにない。次の駅は家の最寄りだ。
とはいえここから引き返すつもりにもなれなかった。
「あーまじで。なんで走ろうと思っちゃったんだろー。」
遥か向こうからこちらへ気動車が走ってくるのが見える。
普通にあれに乗った方がよかったかな。
いやそんなことはなかった。
なぜって?
そんなのいうわけ…。
「そんなのいうわけないよなー!」
別に何かあるわけではない。ただ、走る気になっただけだ。
誰もいない原野に、叫び声がこだましている。
横を通り過ぎる気動車が警笛を鳴らす。巻き起こされた風に髪がなびく。
「よし、後五キロだ。」
俺はもう一度走り始めた。
ようやく辿りついた。
家の前までの道がフルマラソンのようにも感じた。まあ走ったことはないのだが。
時計を見て絶句した。
一三時二二分。
家を出る時に「お昼までには帰ってきなさい」と言われた気がするのはきっと気のせいだろう。
いやそうに違いない。
…だよな。
怯えながら玄関のドアを開ける。
ただいまー。
良かった。どうやら誰もいないようだ…。
「ちょっと尚―!何やってんのよあんた。あんたお昼までに帰ってきくるって言ったわよねー!ずっと待ってたんだけどー!」
…一瞬でフラグを回収してしまった。
その上、どうやら俺が言っていたらしい。
これはまずい。
非常にまずい状況だ。
「…はい、さーせんした。」
「まったく。机の上に昼食置いといたから、勝手に食べときなさいよ。私は陽の野球にいってくるから。」
お?
なぜか詰められないぞ?
「お兄ちゃん何してんのさ。時間は守らないとね。」
弟の陽の少年野球についていくらしい。
「はーいじゃ行ってらっしゃーい。そして陽、お前はうるさい。」
「だってほんとじゃーん。」
ニヤついた顔を、殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「こら陽、余計なこと言わない。」
母が陽を連れてドアを閉めたのを確認すると、俺は大きくため息をついた。
やれやれあの弟、別に仲は悪くないのだがどうも鬱陶しい。
特に最近口が達者になって厄介だ。
ただ心配してくれるのはありがたいような、何か気恥ずかしいような感じになる。
人間は面倒くさい生き物だ。
通学用鞄からプリントを取り出す。
そして一つのことを思い出した。
いや、思い出してしまった。
「…やっべ、課題やらないとな…。」
来月半ばまでに数学の問題集を三〇ページ分やるように言われていたのを思い出した。
「はー。ま今のうちにやっとくか。」
問題集を開き、そして絶望した。
そういえば、まだ学校で授業を受けていなかった。
わかるはずもない。
よくわからない公式と文字が並んだ一ページ目に心を折られ、俺は静かに問題集を閉じた。
問題集は闇に葬り去り、スマホを開いてゴロゴロすることに決めた。
「…よって、ここはこうなります。」
黒板の前、意識の向こう側で先生が話しているのが聞こえる。
が意識がどうしても戻ってこない。
頭を振る。
頬をつねる。
それでもなお眠い。
どうして六限目の数学はこんなに眠いのだろうか。
まず満腹で眠い。
そしてすべての言葉が子守歌に聞こえてくる。
春の陽気がさらに眠気を助長する。
どうしようもない。俺は悪くない。
この世界が俺に寝ろと言っている…。
「…はいじゃあこの問題、東雲。解は何になる。」
唐突な指名が来た。
目を開けると黒板には未知の計算式が書いてある。
何を答えろというんだ。
何一つ働かない頭を必死に回転させる。
「おい東雲、お前だぞ。」
考えている風のポーズをとるのもそろそろ無理があるか。
諦めて「すいません寝てました」と言おうとした直前、横から囁くように声が聞こえてきた。
「Y=0だよ。」
とりあえずこの声を信じてみることにした。
「Y=0です。」
「…正解だ東雲。なら次の問題をえーと…。」
どうやら嵐は去ったようだ。助かった助かった。
「…誰だったんだ?」
気になって、声の聞こえた方を見る。
…月川だ。
こちらを向き、決め顔でサムズアップをしていた。
…一体こいつは、何がしたかったのだろう。
ただ傍観することもできたはずなのに、なぜだ?
考えても仕方がないことは一度やめ、とりあえず俺は軽く頭を下げておいた。
それにしても、数学は眠い。
非常に眠い。
恐ろしく眠い。
「…気を付け、礼。」
「あざしたー。」
ようやく授業が終わった。
終わらないかと思った。
長い、長すぎる。
しかし俺にはこの後やるべきことがある。
そう、野球部の仮入部だ。
前回行き損ねているため、今日こそいかないとまずい。
俺は荷物をさっさとまとめ、鞄の奥からグローブを取り出した。




