開かれる世界
蛇谷の右手がゆっくりと上がる。悔しさを滲ませたように握りしめられ、空を切って振り下ろされた。一気に力を抜き、息を吐いた。
蛇谷は奥の窓に歩みを進める。その足取りは遅いが、はっきりしていた。
「動機は、あなた自身が言っていたことですか。真洞さんをこの家から自由にするため?」
「──さあ?」
蛇谷は鼻で笑った。
「哀根さんを殺さず、止めるという選択肢はなかったんですか」
「……意味がない。殺してしまえば一石二鳥だ」
「一石二鳥、ですか……」
椿が前に出て言う。
「蛇谷風馬さん。あなたを王樹哀根さん殺害容疑で緊急逮捕します」
それからスマホを操作し、応援を呼ぼうとする。
「風馬さん」燈花は涙声だ。「あなたは幼少の頃からこの屋敷で育てられた、と聞きました。孤児だったそうですね」
そうだったのか、と綴は彼を見やる。
「山の中に捨てられていたのを、大地さんが発見したと。そして、ほぼ同時期に生まれ、屋敷で育てられた真洞くんと一緒に生きてきた……」
「……」
「あなたと真洞くんの絆は、嫁いできたわたしには推し量れません。早く気づいていれば……なにか、できることがあったのかも……」
「燈花様。それは違います」蛇谷は首を振る。「あなたは私の主人であり、使用人としての務めも満足に果たせない私の、恩人です。あなたが謝ることは、何一つとしてないのです」
「……風馬さん」
「燈花様。最後までお仕えできず申し訳ありません。また、梢様を利用したことも、同様に謝罪致します」
そこで、蛇谷の様子に異変を感じた。
「……風馬さん? あなた……」
燈花は気がつくが、遅い。
蛇谷は窓を開け、ごく自然に、外へと身体を傾けた。
「蛇谷さん!」「あ、アイツ、まさか!」
綴と究助は遅れて気づいた。すでに深夜を越え、朝になろうかという時間だ。もはや、彼らの脳は限界だった。
蛇谷は窓から飛び降りようとしている。死をもって、すべてを終わらせようとしているのだ。
「蛇谷風馬! こっちを見なさい!」
「えっ」
椿が声を張り上げた。呼ばれた蛇谷も、綴も振り返った。
椿は画面の点いたスマホを目の前に掲げ、蛇谷に、どこかに繋いだ映像を見せつけていた。
「なにを……」
途端に、蛇谷の身体は硬直した。数秒遅れていたら、重力に身を委ねて地上へ真っ逆さまだったはずなのに。
蛇谷は窓から部屋の中へ、転がるように戻ってきた。
「あ……? なんだ、どうなってんだ!?」究助は騒ぐ。
「間に合って良かった……とは言っても、ただ話をさせようと思って繋いだだけだったんだけど、こんな結果になるとはね……」
「椿さん、いったいなにを……あ!」
画面に映る姿を見て、綴はすべてを理解した。椿の機転が、風馬の命を救ったことを。
彼の能力が、救命に至ったのだと。
蛇谷は唖然としているが、その目は一点に注がれ、逸らせない。
「真洞……?」
『なにやってるんだ、風馬!』
目隠しを取った真洞が、真っ直ぐに蛇谷を見ていた。彼の洗脳は映像越しにも通じる。彼を操ったのだ。窓から離れるように、と。
「どうして……助けるんだ。俺は、お前を……哀根様を……」
風馬は床に寝転んで顔を上げたまま喋る。
『叔母さんのことは……これから償え。でも……俺のことは、いいんだよ。分かってるから』
「……」
真洞の晒された瞳は潤んでいた。一瞬たりとも相手から目を逸らそうとしない。真剣な眼差しだった。
『俺の能力は、効果が切れた後、記憶が混濁する。だから、恥ずかしいけど、正直に言うぞ。
死ぬな……風馬。頼むよ。お前がいないと、俺の世界は、閉じたままなんだ』
「……真洞」
『頼むよ……』
「そう……か……」
それ以上、誰も言葉を発することなく、静かに時間が過ぎていった。
***
「概ね及第点、だな」
「そ、そうですか……」
カフェ、アイ・ノウ。綴はアルバイトの日常を取り戻していた。
ただ、今日は非日常な客が来店していて、気が気でない。
「解さん……コーヒーにこだわりがあるんですね」
解はコーヒーを優雅に啜り、瞑目して言った。
「案ずるな。不味いと言っているわけではない。私の口に合うコーヒーはそうそう無いのだから、恥じることもない」
「はあ……」
とはいえ、それなりに楽しんで貰えているようだ。
解は腕に包帯が巻かれている。綴と同じだ。その下には完治していない火傷の痕があるはずだ。それについて問うと、彼は不敵な笑みとともに言った。
「これは戒めだ。曇っていた目を開かせてくれて、感謝する」
態度は大きいが、素直ではあるようだ。
「火傷は腕だけじゃなかったですよね。他は、どうなりましたか?」
「最初は顔まで広がっていたが、幸い、目に見える箇所の火傷はほぼ治った」
「良かったです」
「……私は峯岸部長を信じていた。だが、盲信の代償は重かったな。真実を見失うところだった。
……彼は、私にとっての……有り体に言えば、ヒーローだった。椿から聞いただろう。強盗事件に巻き込まれた私を、彼は救ってくれた」
「火事の中に入って助けてくれたんですよね。凄いですよね」
「おまけに、犯人は銃を所持し、突入した峯岸部長に向けて発砲した。銃弾は彼の腕を貫通した。だが彼は省みず犯人を取り押さえた。酷い傷として残ったが、あの人は……それを『誇りだ』と言った」
「おお……格好いい……」
「そう!」そこで解は、少年のような瞳をした。「格好いいんだ!」
綴は少し微笑ましく思い、口元を緩ませる。すると解は自分がはしゃいだことを察し、恥ずかしく感じたのか、すっと真顔に戻った。苦味で気を引き締めようと考えたのか定かでないが、ぐっとコーヒーを飲んだ。
「……失礼。しかし……彼は変わった。悪を憎み、思想を強めた」ため息を吐く。「彼の言葉は正しく、聞いた者に力を与える。が、視野を狭める」
思い出した。あの異能力差別者の丹巡査長は、峯岸部長から目をかけられていた。峯岸の言葉で思想の偏りを強めたのが、彼なのだろう。
「……悪、か。
……蛇谷さんと真洞さんはどうなるでしょうか」
「蛇谷風馬は自白している。滞りなく罪を暴かれ、罰が下されるだろうな。王樹真洞は──事件が起きたのが山中で良かった。真洞が逮捕されていた時点ではマスコミに漏洩していなかった。真洞が世間に晒されることはない。ただ……王樹家内で立場がどうなるのかは、分からないな」
「少なからず変化はあるでしょうね。あんな事件があったのだから」
「そうだな」
これから彼らの行き着く先は推測するしかない。きっと、絶望的な方向には進まないはずだ──と考えるのは、希望的観測になってしまうだろうか。
「八見綴。1つ提案する」
「なんですか?」
空のカップが静かに置かれた。
「我々特能は異能力研究センターと協力している」
「聞いたことがあります」
「将来的に、彼らの研究は異能力犯罪を撲滅させる一歩となる。それが、特能が協力する理由だ」
「異能力犯罪を、撲滅!? そんなこと、できるんですか?」
「……人の心は脆い。犯罪自体を止めることは難しいが、罪を犯したものを見抜くことは出来るだろう」
「その研究とは、いったいどんな?」
「それを、見せたい。八見綴、私と共に、異能力研究センターに来い」
「え」
声色は優しく、綴を誘っているようだったが、言葉自体は圧がある。
「貴方は研究を知らなくてはならない。特能の目下の本懐について、これまで散々関わってきた貴方は知る義務がある」
散々関わった、と言われても。望んで彼らと関わったつもりはない。
「異能力研究センター……」
しかし、綴も気になっていた。異能力犯罪を撲滅させる研究。もしそんなものがあったなら……罪を犯そうとする異能力者も減る。冤罪を被る異能力者も減る。
「……分かりました。僕も行きます」
「それは重畳だな」
しかし、綴は思い知る。
これからの異能力者たちの未来について知るつもりで向かった場所で、知ったのは。
この世界は、どこまでも残酷であるということだ。




