氷が溶ける
「はあ……助かりましたよ。あのハゲ野郎。ずっと取り調べられて……やってねぇって言ってんのに、一生続くかと思った……」
「災難でしたね」
千牙は自身の服の匂いを気にしている。あまり見た目に変化はないが、風呂に入れていないはずだ。ストレスは相当なものだろう。
彼は言葉少なにパトカーの後部座席に、綴は助手席に乗り込んだ。
「どうも。千牙さん」
運転席には椿が座っている。彼女の表情も暗い。
「ああ……そういえば、メメは? 一緒に帰れないんですか?」
「彼女は眠っちゃってます。あなたのことが心配で一睡もしてなかったようですから。仮眠を取って貰って、起きたら帰します」
「ふーん。そうですか」
車内は神妙な空気に包まれている。椿は緩やかにアクセルを踏んだ。
署の敷地を出て、車道へ出る。しばらく走行し、署が見えなくなったところで、耐えきれなくなった千牙が「これ、どこに向かってるんですか? 俺の家? パトカーで?」と訊ねる。
しかしその問いには誰も返さない。妙な雰囲気に、千牙は顔をしかめる。
「ちょっと、なんですかこの感じ? 沓木を殴ったのは曳刷で、俺は無実なんですよ? お祝いムードじゃないですか、ねえ?」
椿が一瞬、綴に視線を向けた。頃合いだ、とでも言いたげに。
「千牙さん。確かに、事件の犯人は曳刷さんでした。ですが、僕たちはこの事件の調査をしているうちに、もう1つの事件と出遭ってしまいました」
「なんですか、それ」
「10年前、帆波静流さんという女子生徒が亡くなりました。彼女の死について、調査を進めさせていただきました」
「……は?」
「静流さんは冬の九木川で亡くなりました。ですが彼女が何故川に行ったのか、どうして亡くなってしまったのか。彼女と親しかった人たちは疑問を抱え……僕が依頼を受けました。
僕たちは考えました。彼女の死は事故ではないんじゃないかって」
「……な、なんですか?」
「もしかしたら殺人なんじゃないかって」
綴は膝の上にメモを並べた。
今まで調べた手がかりが、1つの真実を導き出す。
「静流さんを殺したのは、あなたですね。千牙さん」
千牙は酷く狼狽えた。
「いや……あの、八見さん? なにを言ってるんですか? 俺が……静流を殺した? はっ……ははっ……」
綴は用意しておいた、栞の絵のコピーを取り出した。
「こちらが、時尾栞さんが描いた、当時の絵です」
「……は? 当時の絵って、どういう……」
「彼女は記憶力に優れているんですよ。知ってますよね? 一度見た物を、忘れないんです。そして彼女は、当時、現場にいました。そのときの記憶を辿って、絵に残してくれたんです」
千牙にもコピーを手渡す。ペラペラと音がするが、すぐに止む。見る価値などない、と言いたいのかもしれない。
「この川の奥……2人、誰かいるみたいだけど……まさか、まさかね? 静流と俺……とか、ふっ……そう言いたいんですか?」
「……」
「自分で言うのもなんですけど、当時の俺は純粋な高校生で、人を殺すなんて1ミリも考えたことないんですよ」
「純粋というのは、善にも悪にも染まりやすい、ということでもある」椿は言う。
千牙のことは少ししか知らない。けれど、彼はみんなの中心人物で、慕われている存在だ、というのは間違いなさそうで、人を殺すような人間には思えない。
「ふっ。案外、面白いことを言うんですね、刑事と探偵ってのは」
当てこすりを無視し、続ける。
「河原に立っている人の方。見辛いですが、その人、髪が金色で描かれていませんか?」
「……だから? まさか、沓木か?」
「彼は10年前、まだ髪は染めていません。曳刷さんから聞きました」
「犯罪者から聞いた? ふっ。ウケますね、それ」
「沓木さんは、とある人の真似をよくしたらしいです。……千牙さんの真似を。
──10年前に金髪だったのは、あなたですよ」
「……」
千牙は押し黙ってから、やれやれと首を振った。彼の癖なのか、鼻で笑う。
「ふっ、まあ、卒業アルバムでも見たら簡単に分かっちゃいますね。確かにそう、金髪でしたよ。今はこんな綺麗な黒ですけどね。
それでなに? これが俺で? こっちのしゃがみ込んでるのが静流? へぇ? 金髪は他にもいましたよ」
「──2枚の絵を見比べてください。静流さんは、1枚目では蹲っているのに、2枚目では川に落ちています。同じ場所なのにです」
「不思議なこともあるもんだ」
綴は前を向いたまま、後部座席に向けて言う。
「このとき、川は凍っていたんじゃないですか?」
バックミラーで千牙の様子を盗み見る。大きく表情は変えなかったが、苛立ったように、ぴくりと口角が動いた。
「……嘘でしょ? まさか、それだけで俺が犯人とか? 俺の異能力が《凍結》だから? それだけで犯人扱いはヤバいって!」
「もちろん、それだけじゃないですよ」
「あーあ。こりゃ酷いなぁ。俺が訴えたりしたら勝っちゃうんじゃない?」
「……ハチミツくん。彼、あんな喋り方だったっけ」
「素が出てきた……ってことかもしれません」
他人を見下したような、挑発的な喋り方は神経を逆なでさせる。綴は冷静になろうとする。
冷静、平静に。自分の推理が間違っていなければ、相手は非道な──。
千牙は後部座席でふんぞり返っている。
「知らないなら教えてあげますけど、当時は冬だったんです。きっとメチャクチャ寒かった。川くらい自然に凍ったっておかしくない──」
「──チェック」
「……はぁ? なに……?」
矛盾を指摘したのは、椿だ。
「それは、あり得ない。
すでにあなたは、詰み」
「はっ。あり得ないなんてことは──」
「そういえば、あなたは言ってたっけね。異能力のせいか、科学が苦手だって。知らないなら教えてあげるけど、川は、自然には凍らないの」
「……え」
「結氷といって、寒さによって池や湖などの水面が凍ること。でも、川というのはよほど寒くならないと凍らない。
なぜなら川は、水面が池や湖のように留まらず、絶えず流れているから。水底の温かい水が循環するのも理由の1つ。しかも九木川は水流が速かったらしいね」
《普段からそれなりに流れも速いので、生徒には危ないと言って聞かせていました》
平中の発言だ。記録し、椿と共有していた。
綴が続きを引き取る。
「つまり、川が凍るのは自然ではあり得ないということです。誰か、超常的な力を持った人がいない限りは……」
千牙は反論しようとして口を開いた。しかし、呻き声の他はなにも発せられない。
「千牙さん。あなたは自分の能力で川の端を凍らせた。そして、その上に雪を積もらせたんです」
栞の絵にも、雪の積もった地面が描かれている。雪の下が、地面なのか凍った川面なのか、一目見ただけでは分からない。
「そして静流さんをなんらかの理由で呼びつけ、上に乗るよう誘導した。そして蹲ったタイミングで、能力を解除したんですよ」
「……」
千牙は車の天井を見上げ、ややあってから鼻で笑う。
「馬鹿じゃないの?」
「認めないんですね」
パトカーは町中を進む。
「……栞の絵は信用できんの? アイツの記憶力はたいしたもんだけど。見たところ、かなり曖昧な絵だ。人影の細部も分からないくらい。今、あんたらはこのラクガキを証拠にして俺を犯人だって言い張ってる。悪い冗談だろって感じなんだけど」
千牙は調子づいて喋り続ける。
「なにより、場所ですよ。もしも俺が犯人だとするとさ、周囲に人がいないかよーく確認すると思うよ。ちょっと離れてるくらいの橋の上なんか、むしろしっかり見てると思うけどね。栞は本当にこんな場所にいたのかな? いたら気づくと思うよ? こんなのぜんぶ、でっち上げなんじゃない?」
「……本気で言ってるんですか?」
「……」
「会ったばかりの僕たちならともかく、同じクラスメイトだったあなたが、分かっていないはずがないじゃないですか」
「……なにを言っているのか、さっぱりだね」
「栞さんの異能力のことを、知っているはずです」
《俺らは、究極的な勘違いしてたみたいだぜ》
究助は電話越しにそう言った。彼は異能力研究センターに直撃し、異能力の情報を聞き出した。強引に。
「僕は栞さんと初めて会ったとき、彼女の異能力バッジを見て、それから彼女の記憶力のことを聞いた。だから、彼女の驚異的な記憶力こそが能力だと、勘違いしてしまいました」
思えば、彼女は一言も言っていない。「自分の異能力は完全記憶だ」なんて。話の流れで思い込んでいただけだ。
「勘違いするのも無理はないけど、探偵なら、早とちりは御法度だね」
椿に窘められる。ぐうの音も出ない。
「超記憶症候群というのがある。世界でとても珍しい特徴を持つ人々で、その名の通り、非常に優れた記憶力を所有している。特異なものではあるけど、異能力ではないの」
「頭がいい、足が速い、手先が器用。それらと一緒……ってことですね。まあ、一緒と言うには、あまりに傑出している特徴ですが」
特異な才能と、それとは別の異能力。それらが1人の身体に同居しているなんて、いったい、どれだけ低い確率で起こることなのか。しかし起こったことは事実だ。
「彼女の本当の異能力は──」
『時尾栞の本当の能力は、《気配遮断》。要するに、自分の存在感をメチャクチャ薄くさせることができる能力だ』
最初からおかしかったのだ。
究助が店内に入ってすぐ、彼女は当たり前のように、店の外に出ようとした。究助や他の誰にも止められることなく。
『目の前にいても、喋っていても、関係ない。他者は栞の存在に気づくことが難しくなる。例外は、彼女に触れることだ。触れた対象は、彼女の存在に気づける』
綴は何故気づけたのか。彼女とぶつかったからだ。そして腕を掴んだからだ。
『透明化に近いな。ただし、彼女は自分の能力を完全にコントロールできていないらしい。だから、無意識下で能力を使ってしまうことも多い……らしい』
「……橋の上にいた栞さんは能力を発動していた。無意識かは分からないけどね。遠くいた犯人は、栞さんに気づかなかった」
「ちなみに、あなたと、メメさんの異能力も聞いてきました」
『千牙零人の能力は《凍結》。手で触れた対象を生物非生物問わず、凍結させられる。そんな広い範囲は凍結させられないが、接点を中心に約1mくらいならいける。実際に見たと思うが、凍結も融解も簡単にできる』
『ついでにメメの能力だ。能力名は《障壁》。手で触れた空間に透明な壁を生成可能。壁はメメ本人が触れる、もしくは能力者と壁が約50m離れると破壊される。あまり大きい壁は作れないが、同時に5枚複製できる。代償はないとのことだ。あと、アイツが実演したように、壁は誰でも動かすことができる』
「……」
「異能力研究センターの人から聞きました。信じていいと思います。
それと同様に……この絵も、信じられます」
「ふっ……ふふふっ……ははははっ!」
「……可笑しいですか?」
千牙は脚を組んだ。剥がれかけてた化けの皮は、もう完全に消えていた。
彼のギラギラとした目と、バックミラー越しに合った。
「ははは……うっ、げほっげほっ! はは……あーあ。ムキになってさ……マジでウケるな」
「……」
「八見さん、探偵なんだっけ? でもさ、普通の探偵って浮気調査とか猫探しとかするもんじゃないの? こんなことしちゃって……なに? 小説に出てくる探偵のマネ? 憧れちゃってる感じ? ははは……ウケる。ハズいっしょ、そーいうのさ」
反論するのはもう無駄だと感じたのか、攻撃の仕方を変えたようだ。
「……恥ずかしくないです。一応、誇りを持ってやってますから」
「はいはいはい! そーいうのね。ジョーネツとか、シンネンとか? あはは!」
「……」
なにが可笑しいのか。彼の眼は冷ややかで笑っていない。
「いろいろ、知ったようなことを言ってるけど」椿が口を挟む。「物事を俯瞰して見てるつもり?」
「いやいや。誰でも簡単に分かるよ。そういうのがハズいってことくらい」
「ふうん……でも、いくら俯瞰しても自分自身のことは見れていないみたい」
「……はぁ?」
「そうやって口数多く非難するあなたは……傍から見ると、滑稽に映る」
「……ちっ。あーあ! ウケるな。ハズいヤツばっかだ! げほっ」
千牙は咳払いをしてから、にやにやしながら言う。
「静流もあんたらみたいな感じだったな」
「えっ……」
「静流はさ、沓木が曳刷をいじめてるのとか、許さない女子だったんだよ。委員長タイプってヤツ? でも、力じゃ勝てないし、先公はほら、あんたらも見ただろうけど、平中っていう日和見主義の無能じゃん。意味ないんだよな。なのに……」
「静流さんは、諦めなかった?」
「……そうだよ。寒いっつーか、つまんねーんだよね」
「……あなたは、沓木さんのいじめを、楽しんで見ていたんですか……!?」
「いや、表向きは優等生だから、止めようって態度は見せてたよ? でも、曳刷もキモいし馬鹿だし。ざまあみろって思って放っておいた。それをマジになって怒るってんだから、静流は1回、痛い目に遭ってもらいたかった」
「あなたは……!」
椿のハンドルを握る手に力がこもる。
「おっと! だからって俺じゃないから! あっははは! 自白すると思った? 残念でした! あははは! うっ、げほっ、がほっ!」
「最低のクズね……」
「ってか、結局のところ、証拠なんかないんでしょ? あったらもう出してるもんな! 俺を逮捕なんかできないんだよ! そもそも逮捕状すら出ないんじゃない?」
綴は俯き、冷や汗を流しながら、ひたすら混乱する頭を鎮めようとしていた。
理解ができない。したくもない。
悪意だ。
今まで出会ってきた人間とは違う。明確な悪意を持って、人を殺した。
胸がざわついて仕方がない。
そして怒りだ。異能力者だからって、危険なわけじゃない……悪ではないと、異能力者たちが必死に訴えていることを、この男は踏みにじっている。
「……千牙さん、あなたは……!」
「あはは! 怒ってる怒ってる!」
口をつぐんでしまう。言葉が出てこなかった。行き場のない感情をぶつけたいという欲が溢れて、でも上手く発せない。
「ハチミツくん。堪えて。大丈夫。必ず逮捕する。コイツは……絶対に許さない」
「……はい」
後部座席で千牙は、大口を開けて笑い出す。
「特能だからなぁ。あのハゲと同じようなことしないでくださいよぉ? げほっ。ちゃんと手続き踏んでくださいよ。げほっげほっ……なんか、暑いなぁ」
「……?」
ふと、千牙に、なにか違和感を覚えた。ずっと俯いていたせいか、しばらく千牙の顔を見ていなかったが、彼は、こんな顔をしていただろうか?
「……千牙さん?」
「……げほっ、げほおっ……! ……クソ、なんだ……? 胃が苦しい……」
千牙の顔は青白く、汗を非常にかいている。興奮はどんどん収まり、目の焦点が合わなくなっていった。
「……あ……!? ぐ……げぼっ!?」
「千牙──」
「──ああああああああっ!?」
千牙は突然、絶叫し、血を吐いた。
「な!? せ、千牙さん! 千牙さん!? どうしたんですか!?」
「ちょっとハチミツくん、なにが起こったの!?」
椿は慌てて路肩にパトカーを停車させた。
「千牙さんが血を吐きました! びょ、病院に向かってください!」
千牙の口から、喉から、流れる川のように血が溢れだした。呻き声を絞り出して、座席に倒れた。白かった歯はすっかり赤く染まり、余裕ぶっていた表情は絶望のものに変わった。
「な……ああ……っ!? な、なんで……なんでだよっ……!? これ、俺、なに……」
「千牙さん、喋らないで! 今、病院に……」
「い、嫌だ……た、助け……」
千牙は血と涙を目に浮かべる。そしてかっと大きく見開くと、掠れた声で言った。
「──静流……?」
そして、痙攣。
どこかで今回の事件を甘く見ていた。
殺人ではなく、未遂に終わった沓木と曳刷の事件。椿という頼もしい味方が増え、解決できた。
酷い悪意を持つ男と対決することになったが、追い詰めていることに変わりはない。だから、解決に向けて進むだけ──。
改めて、自分の認識が甘かったことを恥じ、目の前の現実に向き合う。
10年前から続く怨嗟の鎖は、断ち切れていなかったのだ。
急いで病院に運んだが、手遅れだった。
千牙零人が、死亡した。




