大英帝国の庇護、そして偽りの兄妹
ロンドンの夜霧を切り裂き、一台の黒い高級サルーンが走る。
後部座席に並んで腰掛けるクロウとレイラは、差し出された温かい紅茶に口を付けていた。
「驚いたな。身元不明の危険分子かと思えば、哀れな被害者だったとは」
助手席から振り返ったボンド・スミス捜査官が、手元のタブレット端末を見つめながら深い溜息を吐いた。
ハンドルを握るのは、スミスの相棒である女性工作員、カリナ・ジェファーソン。彼女はバックミラー越しに、ローブを纏った美しい銀髪の二人を、同情の混じった鋭い視線で見つめている。
スミスがMI6のデータベースで、クロウたちが持っていたパスポートを照会した結果、驚くべき事実が判明していた。
二人はロンドン郊外の孤児院出身。身寄りはなく、数ヶ月前に突如として失踪届が出されていた。年齢は十六歳。ウロボロスの魔術師どもが、拉致した孤児の戸籍をそのまま利用して、実験体に仕立て上げていたのだ。
「……気がついた時には、あの研究室にいた。それ以前の記憶はない。覚えているのは、自分たちの名前だけだ」
クロウはトーンを落とした静かな声で、あらかじめ用意していた『嘘』を告げた。
中身が日本の九十歳の老人であることも、自分たちが『魔力ゼロのホムンクルス』であることも、国家機関に明かす必要はない。
「高い身体能力に、奇妙な体術。おそらく、脳や肉体に非人道的な魔術実験を施されたんだろう。……なぁ、カリナ。こいつを見てくれ」
スミスが端末の画面をカリナに向ける。そこには、車内で簡易的に行われた『適性検査』の結果が表示されていた。
「驚きね。言語の読み書き、高度な算術、歴史の知識まで、すべて最高水準の正答率じゃないですか」
「あぁ。クロウは自分でも『なぜこの知識があるのか分からない』と言っているが……間違いない。実験の過程で、脳に直接、膨大な情報をインプットされたんだ」
スミスたちの分析に、クロウはフードの奥で不敵に口角を上げた。
実際、その通りだったのだ。クロウが自身の脳を内観すると、まるで最初から刻まれていたかのように、現代の義務教育以上の知識がシステムとして機能していた。もちろん、隣のレイラも同様だ。
知識は超一流、だが記憶喪失ゆえに『現代の世間一般の常識』には激しく欠ける――MI6の目には、そう映っていた。
「行く当てもない、時計塔からは狙われる。……どうだ、少年。我々の庇護下に入る気はないか?」
スミスは真剣な目でクロウを見据えた。
「我がMI6には、君たちのような特殊な事情を抱えた若者を保護し、同時に裏社会の闇魔術師に対抗する人員を育成するための、全寮制の特殊訓練学校がある。その高等部へ入学すれば、生活のすべてを国家が安全に担保しよう」
『アンチマジック対策機関』――通称、対魔特務学園。
(ほう……。大英帝国の国家機密機関、か)
クロウにとっては願ってもない提案だった。世界の裏側に堂々と足を踏み入れ、強者どもと『死合』をするための最高の舞台が、向こうから転がり込んできたのだ。胸の奥で、拳聖の魂が歓喜に震える。
「断る理由はない。厄介になろう」
「話が早くて助かる。……ただ、一つ問題があってね」
スミスは少し困ったように眉根を寄せ、レイラに視線を移した。
「あの学校は全寮制で、男女の区別が非常に厳しい。だが、彼女――レイラは、君から半径一メートル以上離れると、明らかにバイタル(心拍数)が跳ね上がる。……これでは寮生活が送れない」
クロウの横で、レイラは感情の薄い顔のまま、クロウのローブの袖をきゅっと掴んで離さなかった。
(マスター。……この者たちとの交渉において、便宜上、私の同室・同教室での帯同が不可欠と判断します。精神的支障を装うことを提案。――オーバー)
レイラから脳内に送られてきた冷徹な『念話』を受け、クロウはわずかに目を細めた。相変わらず形だけの感情表現だが、バディとしての判断は的確だ。クロウはレイラの銀髪に優しく手を置き、スミスへと視線を戻した。
「レイラはあの地下室で、過酷な処置を受け続けていた。そのせいで、俺が傍を離れると著しい精神的不安に陥る。……いわゆる、トラウマだ。同じ部屋、同じ教室での通学を認めてもらえるなら、喜んでその学園へ行こう」
中身が老人のクロウにとって、レイラを守り、古武術を叩き込むためには同室が絶対条件だった。事実を並べ、静かに揺さぶりをかける。
バックミラー越しにその様子を見ていたカリナが、深く胸を打たれたように鼻を鳴らした。
「……スミス先輩。上層部には私からも掛け合います。過酷な実験を生き延びた双子の兄妹です。それくらいの特例、認めさせなきゃ女工作員の名が廃ります!」
「ハハ、相棒がそう言うなら決まりだな。よし、特例措置として『同教室・同部屋』での編入の手続きをとろう」
こうして、二人の偽りの兄妹の行き先が決まった。
エリート魔術師や異能の血筋が集う、国家最高機密の学び舎。
魔力ゼロの規格外な二人が、その学園の門を叩く刻が、静かに近づいていた。
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