無魔の蹂躙、黒犬と双頭獣
学園の南側最深部、地下電子書庫室へと続く重厚な鉄扉の前。
そこは、すでに硝煙と血の臭いが充満する、静かな地獄と化していた。
「……は、あ……魔術、が……練れ、ない……っ」
学園の警備を任されていた時計塔の魔術師が、喉をかきむしりながら床に倒れ伏す。
通路に立ち込めるのは、ウロボロスが開発した特殊な対魔術無力煙幕。マナの流れを強制的に霧散させるその毒煙の前では、名門の防衛魔術もただの呼吸困難を引き起こすだけの足枷に過ぎない。
「時計塔の魔術師など、魔術を封じればただの案山子だな。残りの防衛隊員も処理しろ」
タクティカルベストに身を包んだウロボロスの潜入部隊長が、冷酷に命じる。煙幕の影響を受けないアサルトライフルの一斉射撃と、彼らが使役する数体の魔獣――漆黒の毛並みを持つ凶暴な『ブラックウルフ』の爪牙によって、学園の警備員たちは声を上げる暇もなく殲滅されていった。
「よし、電子ロックを解除しろ。外部リンクがないなら、物理的にデータを引っこ抜くだけだ。時間は――」
「おいおい、ずいぶんと景気よく片付けたものだな」
暗闇の奥、立ち込める紫煙を割りながら、物静かな足音が二つ、規則正しく響いてきた。
「なっ……!? 誰だ、防衛の生き残りか!」
潜入部隊長が鋭く銃口を向ける。だが、煙の向こうから現れたのは、防護マスクすらつけず、制服のポケットに手を突っ込んだまま悠然と歩く銀髪の少年――クロウだった。その背後には、いつもと変わらぬ無表情のレイラがピタリと従っている。
「防毒マスクもなしに、この煙の中でなぜ立っていられる……! 貴様、どの家系の魔術師だ!」
「魔術師、か。あいにくそんな上等なものじゃない。ただの、通りすがりのネズミだよ」
クロウは灰色の瞳を細め、くく、と喉を鳴らした。
この部屋を満たす煙幕は、体内のマナを乱すもの。だが、前世から連綿と練り上げられたクロウの『気(闘気)』は、魔術とは全く異なる生命エネルギーだ。乱される筋道など最初から存在しない。
「チッ、不気味なガキめ! 噛み殺せ!」
部隊長の合図とともに、三頭のブラックウルフが、鋭い牙を剥いてクロウの喉元へ同時に飛びかかった。鉄をも噛み砕く魔獣の奇襲。
だが、クロウは構えすら取らない。
シュッ、シュッ――。
大気を鋭く引き裂く無音の閃きが二度。
すれ違いざま、クロウの手刀がブラックウルフの眉間を正確に捉えていた。気の鋭利化によって放たれたそれは、魔獣の硬質な頭蓋を、肉をも、一切の抵抗なく滑らかに両断する。
キャン、とも鳴けずに左右に泣き別れて転がる肉塊。最後の一頭は、レイラが寸分の狂いもない正拳突きでその胸に触れ、足の裏からの浸透発勁によって、内臓を完全に液状化させて床に転がした。
「ば、馬鹿な……! 強化魔術もなしに、素手でブラックウルフを……!?」
潜入部隊の男たちの顔が、初めて恐怖に強張る。彼らの常識である「魔術の優劣」が、この二人の前では一歩も通用していない。
「……想定以上のイレギュラーだな。だが、これならどうだ!」
部隊長は背負っていた戦術背嚢から、禍々しい紫色の光を放つラグビーボール大の結晶体を取り出し、床へと叩きつけた。
パリン、と世界がひび割れるような硬質な音が響き、結晶の破片から、ブラックウルフとは比較にならない、圧倒的な密度の質量と狂気が溢れ出す。
「グルゥゥゥ、オォォン!!」
現れたのは、巨躯を持つ双頭の巨獣――ウロボロスが結晶に封じ込めていた虎の子の兵器、上位魔獣『オルトロス』だった。その二つの口から、対魔術煙幕をも焼き尽くすほどの灼熱の炎が噴き出す。
「マスター。……個体名『オルトロス』。出力、および危険度は先ほどの個体の12倍と推計。レイラの現在の功夫では、完全な無力化までに240秒を要します。――オーバー」
『問題ない。お前はそこで、よく見ておくといい』
クロウは脳内念話で短く応じると、初めてポケットから右手を抜いた。
スッと右手を引き、手刀を構える。その美しい少年の掌の周囲が、一瞬にして陽炎のような、禍々しいまでの密度の『気』で歪んだ。あらゆる「魔」を物理的に切り裂くために練り上げられた、部位鍛錬の極致――。
「オオォォォン!」
オルトロスが、大気を爆動させてクロウへと突進する。その鋭い爪が、クロウの頭部を消し飛ばさんと振り下ろされた。
「『魔殺掌』」
クロウは物静かに、その名を呟いた。
刹那。
すれ違いのワンモーション。
ズバァッ!!!
肉を断つ音ではない。鋼鉄の巨塊を、超高圧のウォーターカッターで一瞬にして切断したかのような、滑らかで鋭利な轟音が地下室に響き渡った。
「ガ、……ア……?」
オルトロスの二つの首が、同時に、綺麗に傾く。
次の瞬間、巨獣の身体は斜め一文字に滑り落ちるようにして両断され、大量の返り血とともに、床へと激しく崩れ落ちた。その断面は、分子結合すら切断されたように美しく水平だった。
「……ひ、一撃、だと……? 化け物め……!」
銃を握る部隊長の指が、ガタガタと音を立てて震え出す。
クロウは、手についた血を静かに一振りして払うと、冷徹な灰色の瞳をウロボロスの残党へと向けた。
「さて。最高峰の魔術とやらを期待していたんだが、ずいぶんと退屈なペットだな。……次は、お前たちの番だ」
月光の届かない地下室で、拳聖の静かなる蹂躙が、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。
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