密謀のチェスボード、闇を聴く耳
「――これより『オペレーション・パペットマスター』を開始する」
西暦2026年、初夏の深夜。ロンドン校から数マイル離れた、偽装コンテナオフィスの中。
ウロボロスの幹部であるコードネーム『魔術師』は、冷徹な声で卓上のマイクに向かって告げた。彼の前にある大型モニターには、対魔特務学園ロンドン校の立体的な3Dマップが映し出されている。
「囮の『猟犬部隊』、前線へ。ターゲットはヴァレンタイン家を含む、有力魔術師家系五家の子息。なお、事前に仕込んだ『ウロボロスの血』の自動活性化コードを送信しろ。学園内の不適格者どもを暴走させ、防衛戦力を完全に北側校舎へ引きつける」
『錬金術師』はチェスの黒のナイトをパチリと進め、不敵に口角を上げた。
銃火器で武装した傭兵部隊による襲撃と、生徒たちの魔力暴走。時計塔のエリートどもは、この派手な大騒ぎに目を奪われ、拉致を防ぐだけで手一杯になるはずだ。
「だが、本命は地下電子書庫室。あそこは外部リンクが一切遮断されたスタンドアローンだ。潜入部隊以外に、あの『英国霊脈コード』と『大精神魔術式』のデータを引き出せる者はいない。――実験体とデータ、その二重取りこそが我が組織の至上命題だ。時計塔の無能どもに、2026年の最先端の戦術を教えてやるとしよう」
◇◇◇◇◇
「……騒がしくなってきたな」
同時刻、学園の敷地の片隅にある、レンガ造りの古い温室。
月光の差し込む暗闇の中で、クロウは静かに瞑目したまま、冷え切った夜風に耳を澄ませていた。背後には、微動だにせず付き従うレイラが佇んでいる。
遠く、北側校舎のほうから、爆発音と、自動小銃の激しい銃声が夜の静寂を切り裂いて響いてきた。さらには、複数の魔術師たちが放つ、歪んだ魔力の波動が、大気を不気味に震わせている。
「マスター。……北側校舎にて、多数の正体不明の戦闘員、および魔力暴走を起こした生徒の反応を検知。魔力パターンから、先日回収した『ウロボロスの血』と同等の成分と推計されます。エレノア・ヴァレンタイン、およびギルバート・ヴァレンタインが交戦を開始。――戦闘海域への急行を推奨します。――オーバー」
レイラが脳内念話で淡々と状況を報告する。
しかし、クロウは動かなかった。灰色の瞳をゆっくりと開くと、北側とは完全に真逆の方角――南側にある、地下深くへと続く古びた階段のほうを見つめた。
「いや、北側はただの『騒音』だな」
「……騒音、ですか?」
「ああ。武術の理合いでも、本当に致命的な一撃というのは、最も目立つ大技の裏に隠されているものさ。……聴いてみろ、レイラ。北側の派手な銃声の裏で、南側の地下へ続く通気口の風の音が、わずかに『詰まって』いる。人間が四人、それもかなり重い機材を抱えて、気配を殺しながら階段を降りていく大気の振動だ」
魔力を持たないクロウの五感は、今や『気』の循環によって、最新のセンサーをも凌駕する領域に達していた。
魔術師どもが張り巡らせた高度なセキュリティや魔力探知には一切引っかからない「無魔の密入国者」たちの足音を、クロウの耳は正確に捉えていた。
「スミス捜査官が言っていたな。奴らの狙いは学園の『霊脈コード』だと。ならば、奴らが向かうのは魔力のない北側校舎ではなく、学園のあらゆる機密データが眠る地下電子書庫室だ。外部リンクのないその部屋へ、直接データを盗みに来たのだろう」
「……状況を再分析。マスターの推論との合致率98パーセント。ウロボロスの本命は地下電子書庫室と再定義します。――オーバー」
クロウはポケットに手を突っ込んだまま、物静かに、しかしその唇に凶悪なまでの好戦的な笑みを刻んだ。
「名門のお嬢さんたちの誘拐を囮にして、本命のデータを裏で盗み出すか。実に見事な作戦だな、ウロボロス。……だが、あいにく俺の平穏な夜を邪魔したのが、お前たちの最大の不運だ」
クロウはゆっくりと歩き出し、地下へと続く暗い階段を見据えた。
「行くぞ、レイラ。ネズミ退治の時間だ。声を上げる暇すら与えず、その贅沢な作戦ごと、骨の髄まで粉砕してやろう」
「了解、マスター。……これより、地下電子書庫室の防衛、および敵対個体の排除任務を最優先で執行します。――オーバー」
月光に銀の三つ編みを揺らしながら、二人の『失敗作』は、誰にも知られることなく、静かに暗黒の地下へと滑り込んでいった。
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