密入国の残滓と、次なる獲物
西暦2026年、初夏のロンドン。
夜の帳が降りた『アンチマジック対策機関(対魔特務学園ロンドン校)』の校舎裏手は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
月明かりに照らされたレンガ壁の影で、俺――クロウは冷え切った夜風を吸い込んでいた。背後には、寸分の狂いもない不動の姿勢で佇むレイラがいる。
秘密結社『ウロボロス』の研究所から、溶解されかかっていた俺が自力で彼女を連れて脱出したあの夜から、レイラは俺の絶対的なバディであり、朝夜の功夫を叩き込む一番弟子だ。
平和すぎる現代日本で九十年を生き、東洋武術の最高峰を極めながらも、一度も『死合い』を経験できずに老衰で死んだ前世。あの退屈な檻のような日々に比べれば、魔術だの何だの、命のやり取りが裏に潜むこの2026年のロンドンは、俺にとって極上の遊技場に他ならない。
「待たせたな、二人とも。夜分に呼び出してすまない」
暗がりから足音もなく現れたのは、仕立ての良いスーツを着た男――MI6(英国秘密情報部)のスミス捜査官だった。脱出直後の俺たちを保護し、学園にねじ込んでくれた、食えない中年男だ。
スミスは周囲を警戒するように見回すと、手元のタブレット端末の画面を俺たちに向けて提示した。
「例のウロボロスの密入国ルートを追って、MI6と時計塔の共同部隊がキャナリー・ワーフの路地裏をガサ入れしたんだがね。一足遅かった。残されていたのは……これだけだ」
画面に映し出されていたのは、現場写真。廃棄コンテナの影でドロドロに溶けた『何か』の肉塊と、ひび割れたガラスの小瓶だった。
ウロボロスの常套手段である、証拠隠滅のための魔術溶解液。
それを見た瞬間、俺の胸の奥で、前世から引き継いだ狂気的な執念が微かに疼いた。
「俺を『失敗作』として溶解しかけ、ゴミのように処理しようとした連中の魔術だな。相変わらず陰気で、実に悪趣味だよ」
俺とレイラの本質がホムンクルスであることは、スミスには明かしていない。ウロボロス側が用意していた「ロンドンの孤児院出身」という本物のパスポートに基づき、俺たちは「ウロボロスに拉致され、非人道的な魔法実験の被検体にされていた孤児」ということになっている。だからこそスミスは、こうして手がかりの見覚えを俺たちに聞き込みに来ているのだ。
「おいおい、そんなに笑うなよクロウ。君たちをそんな目に遭わせた組織は、2026年の最新テクノロジーと魔術を融合させた、世界最悪の犯罪結社だぞ? 時計塔の魔術師連中だって、奴らの名前を聞けば顔を青くする」
スミスが呆れたように肩をすくめる。拉致の被害者であるはずの少年が、トラウマを見せるどころか、凶悪な笑みを深く刻んでいるのだから無理もない。
「スミス捜査官、ウロボロスの次の狙いは? 何か俺たちに知らせた方がいい情報があったから、わざわざ合いに来たのだろう」
「……察しがいいね。押収したデータの一部に、このロンドン校の『霊脈の基盤コード』に関する記述があった。近々、君たちの通う学園内で、奴らが大規模な仕掛けをしてくる可能性がある」
学園を、そして俺たちを狙うウロボロスの影。
エリート気取りの魔術師どもが、どれほどの絶望を味わうことになるか、今から楽しみで仕方がなかった。
「警告はした。何か思い出したり、敵からの接触があったらすぐに連絡をくれ」
それだけ言い残し、スミスは闇に溶けるように去っていった。
まだ俺の本当の『力』を知らない泳がせ役の中年捜査官を見送り、俺はゆっくりと拳を握り込む。
「レイラ」
「はい、マスター」
「明日の朝の功夫は、突き(寸勁)の回数を三千回に増やす。ウロボロスの奴らが来たら、その誇る魔術ごと、骨までブチ抜いてやる」
『了解。マスターの望む『死合い』のために、我が身を研鑽します。――オーバー』
2026年ロンドン、闇の宴の幕が再び上がろうとしていた。
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