朝夜の鍛錬、それぞれの理
「……ふぅ。これで朝の分の『化勁』は終わりだ」
翌朝。時計塔の生徒たちがまだ眠りについている、霧深い早朝の学園。
赤レンガの古い温室の中で、クロウは薄いシャツ一枚になり、額の汗を拭った。
その前では、レイラが同じように淡い汗を浮かべながら、ピタリと静止した構えを取っている。
『マスター。……円の軌道による力の『いなし』、再現率82パーセント。ですが、相手の質量と速度が一定を超えた場合、軸がブレて受け流しきれません。――オーバー』
「当たり前だ。形だけをなぞっても『化勁』にはならないな」
クロウはレイラの前に歩み寄り、彼女の細い肩や骨盤の位置を、指先でコンコンと叩いて修正していく。
「お前はホムンクルスだから、肉体の強度は完璧だ。だが、そのせいで力づくで受け止めようとしてしまう。そうではない。相手の突進が10の力なら、お前は1の力でその『先端』をわずかに横へズラすだけでいい。そのために、朝夜の功夫で肉体の芯の連動を叩き込むんだよ。……ほら、もう一回だ」
『了解。朝夜の永久契約に基づき、再試行を開始します。――オーバー』
レイラは感情の薄い顔のまま、しかしどこか必死に、クロウの動きをその瞳に焼き付けて動き出す。中身が九十歳の拳聖であるクロウにとって、どれほど過酷な訓練にも無表情でついてくるこの「相棒」を育てる時間は、最高に心地よいものだった。
「――あの、クロウさん、レイラちゃん。おはようございます」
その時、温室の入り口から、気恥ずかしそうな、しかし温かい声が響いた。
そこに立っていたのは、栗色の髪を揺らした少女――アイリス・ハートレイだった。手には、湯気の立つ水筒と、丁寧に包まれたサンドイッチのバスケットを持っている。
「アイリスか。朝早くからどうした?」
「医務室の準備で早起きしたら、温室から音が聞こえたので……。その、お二人とも、朝ごはんまだですよね? 差し入れ、持ってきちゃいました」
アイリスは少し照れくさそうに微笑み、バスケットを差し出した。
エリート揃いの時計塔にあって、希少な回復魔術の才能を持ちながらも戦闘力が低く、いつも萎縮していた彼女。だが、昨日クロウたちと出会ってからは、その裏表のない優しさで、自然と二人を気遣ってくれるようになっていた。
「それはありがたいな」
『……個体名『アイリス』からの、極上の栄養素および精神的安定因子の供給を確認。――『友愛』の深度上昇。段階を『友好個体』へ引き上げることを推奨します。――オーバー』
レイラは脳内念話でそう告げるが早いか、トコトコとアイリスの元へ歩み寄り、その白いエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。アイリスの胸元に顔を摺り寄せ身を任せるその佇まいは完全に、気に入った飼い主を見つけた子猫のようだった。
「ふふ、レイラちゃん、おはよう。今日も可愛いね」と、アイリスはまるで小さな妹を可愛がるように自然な手つきで、レイラの銀髪を優しく撫でる。
優しい二人の空気感。殺伐とした世界に身を置くクロウにとって、この温室の光景はまさに『オアシス』だった。
だが、その穏やかな時間は、一通の通信によって破られる。
『――クロウ、聞こえるか? MI6のスミスだ』
クロウのポケットに入れていた特務端末から、スミス捜査官の低く冷徹な声が響いた。
アイリスとレイラが小さく身を硬くする。
『昨日、お前たちが回収したあの小瓶の解析が終わった。……最悪の結果だ。中に入っていたのは、人間の精神を狂わせ、体内の魔力を強制的に暴走・膨大化させる禁忌の呪薬――「ウロボロスの血」の希釈液だった』
スミスの言葉に、クロウの灰色の瞳がスッと細まる。
『あの男子生徒は、何者かによってこれを投与され、操られていた。時計塔の内部で、これと同じ成分の魔力反応が他にもいくつか検知されている。学園の内部に、ウロボロスの本格的な「スパイ」が潜り込んでいるのは間違いない』
「ほう……」
受話器の向こうでスミスが「警戒しろ」と続けようとしたが、クロウの唇には、静かに、しかし凶悪なまでの好戦的な笑みが刻まれていた。表向きはどこまでも物静かな佇まいのままだが、その胸の奥では、拳聖の魂が歓喜に震えている。
エレノアやギルバートが聞けば戦慄するような、底知れない武人の狂気。
「平穏を邪魔されるのは胸糞悪いが……ウロボロスとやら、望むところだな。名門の娘を狙うか、あるいは実験体の俺を狙うかは知らないが……挑むなら直接俺のところへ来るといい」
クロウはポケットの中で静かに拳を握り締めた。
「その時は、もう少し骨のある死合いを期待させてもらおうか」
隣でその圧倒的な気配に触れたアイリスは、怯えるよりも先に、「クロウさん、どうか怪我だけはしないでくださいね……?」と、心底彼を心配するような瞳で、静かに訴えかけるのだった。
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