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雑草令嬢は野獣令息の腕のなか〜背徳契約から始まる復讐錬金術〜  作者: gen.


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09. 勝負





「テオドロ氏には久方ぶりの "勝負" をしていただきましょうか――――イシドロと」


 私がそう口にした瞬間、部屋の中の空気が波打ちました。私はそれをあえて無視して、マントルピースの上にあった大ぶりの砂時計を手に取ると、それを弄びながら言葉を続けます。


「使用武器は木剣。ルールはどちらか一方を戦闘不能にするか、この砂時計が落ちきるまで。降伏は認められません」

「ま、待ってロサさん!そんな、そんなことをいまの状態のテオドロにやらせたら死んでしまうわ!!」


 私はいまだに床で伸びているファッキソ野郎、もといテオドロを一瞥してから、声の主である侯爵夫人を見ると――そして彼女の言葉に否定の声が上がらない他の面々を見遣ると、自然と深くて長いため息が出てきました。


「そう――――あなた方のイシドロに対する信頼はその程度なんですね」

「ッ……!!」


 このルールで、三男が四男に殺されるか致死に匹敵する手傷を負わされると信じているのだ。この連中は。

 私が心底温度のない声を出したものだから、侯爵夫人の顔が目に見えて引き攣りました。ですがそれでも、否定の声は上がりませんでした。


「ロサ」

「イシドロ」

「俺は別に構わない、が、もう日が落ちてお前を満足させるような勝負をするには明かりが足りない。用意させるにも時間がかかる」

「…………それもそうですね」


 窓の外はすっかり暗くなって、馬車から降りた時には空に見えた日の名残りも見当たらない宵闇です。


「ああ。明日以降でもいいだろう。まさかこの一晩で下手人の一人を逃がすほど、バルラガンの警備体制は手ぬるくないはずだからな」


 最後はイシドロにしても大分皮肉のきいた響きでしたが、無理もありません。すでに一人、堂々と脱出しているわけですから。

 テオドロを殴りつけた張本人であるイグナシオやレアンドロが苦いものを食べさせられたような顔をしていましたが、もちろんフォローする気などありませんとも。


「イシドロが私より冷静で良かったですね。皆さん」


 私は手にしていた砂時計をマントルピースの上に戻すと、長椅子の上のマダム・セルダへ向き直りました。


「私たちは離れに戻りますが、どうされますか?」

「ご一緒、いたします……ルシオ坊ちゃまのご容態も、気になりますので」


 私はマダムに手を貸して彼女を立たせると、ワゴンの上に置いたままになっていた鞄を回収して、と思いましたがすでにイシドロが私の分も持ってくれていました。なので私はマダム・セルダのサポートに専念し三人で居間を横切ると、従僕たちが開いた扉の向こうの薄暗がりを前にして、肩越しに残る面々へこう言い放ったのです。


「それでは明日まで、ご機嫌よう」







 居間の扉が閉じられ三人の足音が遠ざかると、ため込んだ息を最初に吐き出したのは次男レアンドロだった。長く伸ばした黒髪を掻き上げながら、苦みの濃い表情でそれでも口の端を持ち上げて一行が去った扉の方を見やった。


「初めて見たが、あれが二十億グローをもぎ取った女傑ですか」


 一方で笑みのない険しい表情を保っているのは長男のイグナシオである。彼はテオドロを殴りつけた時から拳を解くことなく、母親があれこれと三男を長椅子に運ばせたり絞った布を額に当てたりするのを手伝うでもなく、ただ見ていた。


「――――あれに対する信頼はその程度、か」


 ぽつりと呟いた兄にレアンドロもわずかな笑みを消して、一連の流れを黙って見ていた父、アレハンドロへと視線をやった。彼はロサに謝罪を拒否された時から、一人掛けの椅子に戻り事の成り行きを見ていた。


「如何されるおつもりですか、父上」

「如何もこうもない。あの娘が謝罪も賠償も拒否すると言ったのだ。要は、それ以外の手立てでテオドロから取り立てを行うと宣言した。あの娘の真の要求が読めない以上、止める手立てなど、ない」


 アレハンドロは自身の前を見たまま、普段通りの感情の波のない重苦しい声で吐き捨てた。息を呑む一同の中で、妻カンデラリアだけはまだ事態の深刻さに追いつけていない表情で、テオドロを寝かせた長椅子の傍らから夫へ恐る恐る声をかけた。


「彼女は……ロサさんはそんなにも、恐ろしいことをなさるのですか?」


 そこで初めてアレハンドロの目が妻へと向いた。そこにあったのは苦みのみだったが。


「一人でイシドロを手懐け、生家を潰し、継母を牢獄送りにした娘だぞ。裏付けが取られていないため公表されていないが、あの厩舎の爆破事件自体あの娘の手による可能性があるといわれている」

「っ…………」


 夫の苦み走った言葉に、カンデラリアの白い顔は蒼白になった。

 しかし妻の様子に構うことなく、アレハンドロはその背後へと厳しい目を向けた。


「起きろ、テオドロ」

「……はーい」

「!テオドロ……!」


 驚くカンデラリアの目の前で、あっさりと目を開いたテオドロは、上体を起こすなり額に被せてあった布を手に取って、口の中にたまっていた血の塊を吐き出した。そのまま鼻の詰め物もとって布と一緒にまとめると、椅子の背後に投げ捨てる。おずおずと動き回る使用人たちがそれを回収していった。


「お前は明日、イシドロと木剣勝負をすることになった。ルールはどちらか一方を戦闘不能にするか、あの砂時計の砂が落ちきるまで。降伏は認められん」

「要するに父上は、俺に死ねと仰ってるんですね?」


 もとの飄々とした態度に、どこか捨て鉢さを滲ませたテオドロに対してアレハンドロの厳格さは微塵も揺らがなかった。


「愚息が。あの娘がお前の死体程度で満足するものか」

「ッ……」


 鞭のように鋭い声が、テオドロの口をつぐませる。


「明日の刻限まで己の愚かさを噛みしめ謹慎していろ。レアンドロ!連れていけ」

「はい、父上」


 レアンドロの目配せを受けた従僕たちが彼に付き従い、長椅子の上で唇を噛んでいたテオドロを取り囲んだ。カンデラリアはその厳めしさに何事かを口に出そうとしたが、イグナシオが首を横に振るのを見て、テオドロと同じく口をつぐむしかなかった。







 そのメイドがやって来たのは、昏々と眠り続けるルシオの容態を確認し、マダム・セルダを自室へ送り届け、イシドロの私室で二人だけの夕食を終えた後のことでした。

 食堂での食事なら、食事の後に男性陣が残って葉巻やポートワインを嗜み、女性陣が居間や客間(ドローイング・ルーム)に移動して、といった一幕がありますが、私たちの場合はそんなものはありません。

 私がワゴンに乗っていたティーポットのコゼーを外した時、控えめなノックが部屋の中に転がったのです。

 立とうとするイシドロを制して、私が扉に向かったのは、予感があったからでした。

 すなわち――


「シルベストレ嬢、奥様が食後のお茶を奥様の書斎でご一緒できないかとお誘いです」


 ――この手の交渉の予感が。


「……少し待ってもらえますか」

「畏まりました」


 私は椅子に座ったままこちらの様子を伺っていたイシドロの傍らへと行き、その背もたれに手をかけてこめかみに軽い口づけを贈りました。


「行かなくていい」

「大丈夫。内容が知れているんですもの。先にお茶を飲んで待っててください」


 案の定唸るような声で反対されました。落ち着かせるためにももう一度こめかみに唇を落とします。すると、一応納得はしていないが不承不承送り出す、という表情になったのを確認して、私はそっと椅子の傍らから離れたのでした。

 ランタンを手にしたメイドの顔が心なしか赤くなっていましたが、私は特に触れることもなく彼女の案内で離れから母屋への道を移動していきました。



「奥様、シルベストレ嬢をお連れいたしました」

「どうぞ」


 案内された先、侯爵夫人の書斎は整然としていましたが、飾られている花や置物の柔らかで華やかな雰囲気が、侯爵の書斎のそれとはやはり別物でした。そして肝心の侯爵夫人は、執務机の前に用意されたテーブルに茶器などの一式が用意されているものの、そこの長椅子に腰掛けることなく、立ったまま私を出迎えました。


「ようこそ、ロサさん」

「お招きいただきありがとうございます。侯爵夫人」


 私は笑顔を作ることもせず、義理の返事を返しました。本当ならイシドロとお茶したかったことぐらいはおわかりのはずなので。

 そんな私の様子に侯爵夫人付きなのだろう侍女が眉を顰めるのが解りましたが、どうでもいいことです。私の目的はさっさと話を終わらせることですから。


「あなたたちは下がって頂戴」


 そんなことを思ってたからかは知りませんが、侯爵夫人が侍女とメイドたちを下がらせました。後ろ髪を引かれるように振り返りつつも、侍女たちが退出していきます。

 彼女たちの扉を閉じる音と足音が遠ざかるのを確認してから、侯爵夫人が改めて私に向き直りました。

 何事かと思えば――――彼女はドレスの裾をつまんで、私に深く頭を下げたのです。


「今回のルシオくんとマダム・セルダの件、親としてなんと言葉を重ねるべきかも分かりませんが、カンデラリア・デ・バルラガンはここに心よりのお詫びを――」

「お詫びでしたら結構です」

「ッ……!」


 たかが男爵令嬢による侯爵夫人からの謝罪キャンセル。本来なら到底許される無礼ではありませんが、いまの私には関係ありません。

 謝罪も賠償も受け付けないと、あの時はっきりと宣言したのですから。

 息を詰まらせる侯爵夫人に対して、私は容赦なく追撃します。


「本件の取り立てはテオドロ氏本人から行わせていただきますので」


 笑みも温度もない私の声がどう響いたのか定かではありませんが、上体を起こした侯爵夫人の顔色は先ほどより明らかに悪くなっていました。

 私はそんな彼女の横を通り過ぎ、空のカップが置かれた長椅子前に腰を下ろすと、サーヴ用のティーポットの中身を私の対面席にある空のカップと、自身のカップに注ぎ入れました。丁度よかった。外を通って来たので、少し体が冷えていたのです。

 侯爵夫人は崩れるように、湯気の立つ紅茶が注がれたカップを前にしたもう一つの長椅子へと腰を下ろしました。

 そしてホストも作法も無視してカップの紅茶を飲む私に対し、縋るような目を向けました。


「……どうすれば、そのお怒りを少しでも鎮めていただけるのかしら……」


 か細い声が、私の手を止めました。カチン、とソーサーがカップを受け止めます。


「六歳のご子息たちが理不尽に死にかねない暴力と侮辱に晒されたとして夫人はその言葉を受け入れられますか?」


 できますか。できないでしょう。四人もの子を持つ親ですものね。

 手元の扇を握る手に力がこもったのがこちらからでも解ります。

 でも取り立てについて随分ご不安なようですから、その不安を少しだけ取り除いてさしあげましょう。


「テオドロ氏からは代償として『血』をいただきます」

「!?」

「ああ、明日の "勝負" とは関係なく――――私は錬金術師でして、丁度美男子の生き血を必要とする素材の錬成予定があったので、その分を頂戴し、それで手打ちとさせていただくつもりです」

「血……血を抜くとは、具体的にどれだけを……」


 呆然とした侯爵夫人に対し、私は残りの紅茶を飲み干して、二杯目を注ぎいれました。


「ワインボトル一本分程度ですね」

「そッそんなに抜かれたらあの子の体に障りが残ってしまうわッ」

「ええ、ルシオの体にも消えない痣や障害が残ったかもしれません。ですから、テオドロ氏にも同じように、臓器不全は起こさない程度に調整して血を抜かせていただきます」

「あ、あなた……」


 侯爵夫人の戦慄く声がわずかな熱を帯び始めるのを察知して、私は二杯目の紅茶を口元に運びました。


「大衆も驚くでしょうね」

「っ!?」

「テオドロ・デ・バルラガン、将来を嘱望される社交界の花にこんな残虐趣味があったとは」


 冷や水を浴びせられたように硬直した侯爵夫人へ、私はにこりと微笑みかけました。

 牽制が無事に成功したようで何よりです。ええ、私は手打ちにする、とは言いましたが、それ以外の報復手段がないとは、一言も申し上げておりませんから。

 この手のゴシップがどれほどの火力を持つかというのは、先だって実験済みですし、ね。

 私は空になったカップをソーサーに戻し、そのソーサーをテーブルへと戻しました。


「お茶、ご馳走様でした」


 席を立った私を、侯爵夫人はただ呆然と見上げます。そんな彼女へスカートの裾をつまんで一礼すると、私はさっさと夫人の書斎を後にしたのでした。

 思ったより時間がかかってしまったので、可愛いあの人が拗ねてないかが心配です。







 その日は皮肉なほどよく晴れた。

 用意された木剣はおもちゃなどではなく、騎士の鍛錬用に使われる長さ、重み共に比べようにならないそれである。場所だけは変わらず、離れの中庭が選ばれた。四方が回廊に囲われた中庭は、余計な視線――無関係な使用人など――を断って、見るべきものだけがその "勝負" を見れるようにする。

 それぞれに勤めを持つバルラガン一家が揃う――それも四男も交えて――など異例のことではあったが、事が事なだけあって、その青空の下には特徴的な彼らの黒髪と、そして色の薄い榛色の髪がそよいでいた。

 中庭の中央花壇を境に、その立ち位置は明確に分かれていたが。


「ルールを確認する」


 中央花壇前の中心に立つ長男イグナシオの声が響く。


「使用武器は木剣のみ。勝負はどちらか一方を戦闘不能にするか、この砂時計が落ちきるまで。降伏は認められない。砂時計が落ちるまで明確な決着がつかなかった場合、双方の負傷度合い、勝負への積極性を見てこちらで判定する。質問は」

「ない」

「……ありませーん」


 イグナシオに向かって右手にはテオドロが、左手にはイシドロがそれぞれに木剣を手にして立っている。そして彼らから距離を取って、左手奥にはロサとレアンドロが。右手奥には侯爵夫妻が立ったまま "勝負" を見守っていた。


「双方、構え」


 イグナシオの一声に、テオドロとイシドロの切っ先が持ち上がる。


「どちらが勝つと思いますか?」

「それを私に聞きますか?」


 前を見たままのレアンドロの囁きに、同じく一瞥を寄越すこともなくロサが応える。

 くつくつと笑うレアンドロに対して、ロサは何の感情も浮かばない顔でイシドロを見つめていた。


「始め!」


 テオドロが動いた。手負いとは思えない素早さで、木剣の切っ先を真っすぐ前方に向けた刺突の構え。その先にあるのは――イシドロの目だ。


「!」


 捉えた。はずの速度だった。だが一瞬、テオドロの切っ先は空へと吸い込まれ、目標を見失ったテオドロの胴に横薙ぎの一撃が入った。


「がッ」


 瞬時に身をかがめて刺突を回避したイシドロが、その石畳を擦るような下段から放った斬撃である。直撃を受けたテオドロの靴底が勢い石畳を滑り、両脇の花壇の寸前で停まった。

 ひゅう、と呼吸するだけであばらが痛む。折れているかもしれない。テオドロが苦痛に歪んだ顔を上げた瞬間、もうそこに "怪物" は迫っていた。


「ッ!!」


 右肩を狙い放たれた刺突を、跳ね上げた木剣の棟で逸らす。木剣だというのに、逸らされたその刺突を掠めた右耳に、また痛みが走った。

 返す刃で振り上げた木剣を、そのまま眼前の胴体目掛け振り下ろしたが、やはり手ごたえはなかった。幾つか、千切れたボタンが石畳に転がる音がしただけだ。


「このッ――――」


 テオドロが振り下ろした木剣を両手で構え直した時、ヒュ、と空を斬る音が聞こえた。

 目だけが、その速さに追いついた。目の前で回転したその体、遠心力を加えた一撃が自らへ襲いかかってくるのを。


「ッぎ」


 テオドロの利き腕は右だ。だから咄嗟に、右腕を差し出せば戦闘不能と判断されるのではという考えが脳裏に過ぎった。これ以上この "怪物" に付き合わされずに済むと。

 その一瞬の躊躇が、彼の左肩を破壊した。


「アアアアッ!!」


 堪えきれなかった悲鳴が上がる。木剣とはいえその硬さに速度を乗せれば十二分に鈍器という凶器になる。まして使い手の膂力が人並外れていれば。

 侯爵夫人がその声に動きかけるのを、傍らの侯爵が制する。

 とうとうその場に膝をついたテオドロが剣を手放して、その右手で砕かれた左肩を覆いながら声を絞り出した。


「い、たいッ……!痛いッ……やめてくれ!もう」


 降伏は認められない。だが砂時計の砂が落ち切れば、それまでの負傷度合いでこの "勝負" を終わらせることが出来る。

 そのシステムを理解しているなら、そしてこれ以上の家族からの疎外を恐れるなら、この "怪物" とてこうも懇願する人間に追い討ちはかけまい。

 打算と合理でものを考えるテオドロは、自分が散々蔑称した相手のことを結局は理解していなかったのかもしれない。

  "怪物" とは、道理の外に存在するということを。

 冷や汗に塗れたテオドロの鼻先に、木剣の乾いた切先が突きつけられる。

 逆光の中、二つの満月が無感動に自分を見下ろしている。


「――――そう言った()()にお前は何と答えた?」


 次の瞬間、自分の運命を悟ったテオドロの淡色の瞳が見開かれた。

 "怪物" の一撃が、自身の額を割らんとするそれが、無慈悲に振り上げられ――――落ちてくる。


「ぅわァアアアアアア!!!!」

「テオドロ――――!!」


 駆け出した侯爵夫人を、イグナシオの腕が止めた。彼女の目の前で、白目を剥いたテオドロが崩れ落ちる。恐慌状態にあった彼女は気づかず、"それ" を目にしたのはイグナシオのみだったが、イシドロの振り下ろした切先はひたりと、テオドロの額の寸前で停止していた。


「審判」


 イシドロの放り出した木剣が、泡を吹いているテオドロにあたり、乾いた音を立てて石畳に転がる。


「相手が戦闘不能だ」

「勝負あり。勝者、イシドロ」


 イグナシオの冷静な声が宣言する。テオドロの無事――と言っていいかは定かではないが――に気づいた侯爵夫人は、長男の腕に縋ったまま、言葉もなくその場にへたり込んだ。

 イシドロはそんな家族には一瞥をくれることもなく、踵を返す。真っすぐに、自分の帰るべき居場所の方へと。


「お疲れ様、イシドロ」

「大したことない」

「腕を上げたな、お前」

「ロサから離れろ」


 小走りに駆け寄ってきた少女が、その腕を無邪気に掴む。イシドロはそれを許し、レアンドロが彼女に並ぶのを腕を使って追い払っている。

 やがて少女――ロサの肩を抱いたイシドロは、中庭の出入り口である扉の方へと歩いて行った。

 侯爵夫人は茫然と、その光景を目で追いかけるばかりだった。







 目の前には、白紙の紙切れ。


「これはなんでしょうか?」

「ルシオ氏への賠償金、記者どもへの口止め料、そして今回の "勝負" でイシドロが手加減をした分を含めた手当……全てをまとめた額を書きたまえ」


 葉巻の甘く重苦しい紫煙の向こうから、淡々とした声が帰ってきます。

 午前の "勝負" のあと、アカデミーの午後の授業に出席すべく準備していた私とイシドロでしたが、またしても私のみが呼び出しをくらいました。

 今度は侯爵夫人ではなく、バルラガン侯爵の書斎に、という違いはありましたが。

 大方妻から採血計画の話やゴシップ誌にネタを売りつけるつもりだということについても聞いたのでしょう。あれだけ謝罪も賠償もいらないと言ったのに、こんな小切手を出してくるということは。


「仮に金額を書いたとしても、テオドロ氏からの採血は行わせていただきますが?」

「好きにしたまえ。あれはそれだけのことをした。これはあくまでバルラガン家からの賠償だ」


 さいですか。

 ふっと息を吐いた私は用意されていたペンをインク壺に着け、遠慮なく六億六千万グローと金額を記入したそれを侯爵のお手元へ差し戻しました。

 侯爵家として支払えなくはない、ただし決して安くもない額に侯爵の眉間の皺が深くなるのが見えましたが知ったことではありません。

 侯爵は紫煙と共に深い息を吐き出して、手にした葉巻を傍らの灰皿に押し付けました。


「……これで満足かね」

「いいえまったく?ただし―――私と結婚後も、イシドロの籍を抜かないと一筆お約束いただけるならその紙切れから三割減いたします。それなら満足です」


 侯爵の眉が反応したのを私は見逃しませんでした。

 私は彼の執務机に両手をつき、身を乗り出します。イシドロと似ながらもより深い琥珀色の瞳を逃がさないように。


「イシドロは理性のない獣でも道理を解さない怪物でもありません。いまや自身の力を完全に自覚的に制御できている事は、今回のことで十二分にお判りいただけたはず。彼は己を律する立派な紳士です。私との結婚を選ぶという点においては無鉄砲であると認めますが」


 でも、もう閉じ込めておく必要も、弾き出す必要もない。

 あなたももう解ってるはずです、バルラガン侯爵。


「…………」


 侯爵の沈黙は、私にとって長いものでした。彼と私の間に揺蕩い続ける紫煙が、薄れて、その姿を消す頃。

 ようやく侯爵は、息を吐き出したのです。


「……いいだろう」

「!!」


 私は、自分の瞳孔が開いているだろうことを感じていました。

 バルラガン侯爵が引き出しから真新しい紙を取り出し、その文章を書き込み、侯爵家の印を捺すまでの間、差し出された新しい小切手に、四億六千二百万グローを書き込むまでの間。

 そしてその両方を手に入れた時、私は侯爵に言った通り、今回の一件の中で初めて満足というものを覚えたのです。


「……どこまでかね」

「なにがでしょう」

「どこまでが君の思惑通りだ」

「なんのことやらさっぱりです」


 にっこり微笑んで見せた私に、侯爵はまた深い息をつくと「下がっていい」と短く告げたのでした。



 私は離れで宛がわれている部屋の鍵付き引き出しに書類を仕舞うと、廊下で待っていたイシドロを連れてルシオの部屋を訪ねました。

 ルシオの怪我で最も後遺症が心配されたのはこめかみの傷で、それ以外は痣こそ派手に変色しているものの、時間の経過と共に消える打撲傷のみだという診断がでていました。

 額に包帯を巻かれたルシオはまだ青白い顔のまま眠っており、傍らには世話役のメイドやマダム・セルダが不安そうな顔でそのベッドをとりまいている、という状態。

 私はそんな不安に満ちた部屋の空気に一息ついて、ルシオのベッドの傍らに立つと、腕を組んでこう言ったのです。


「サボタージュはそこまでですよ、ルシオ」


 私がそう言うなり、ルシオの繊細な睫毛がふる、と震えたかと思うと、その紅い唇がうっすらと笑みを描きました。


「……ふふ、義姉さまはお手厳しい」

「!!ルシオ坊ちゃま!」


 ルシオの青い瞳が開かれると、マダム・セルダやメイドたちの歓喜の声が部屋の空気を一変させました。

 まったく、これだけの人を心配させておきながら仮病を使うとは、この太々しさは誰に似たんでしょう。

 ちなみに最初に気づいたのは私ではなくイシドロです。呼吸が起きてる人間のそれだ、と。


「今回の件、私は褒めませんよ。ルシオ」

「賠償金が足りませんでしたか?」

「そんなことを言っているのではありません。あなたは次期シルベストレ男爵なのですから、馬鹿な真似は控えるようにと言っているのです。カミロ如き相手にしなければ尻尾を巻いて逃げ出したでしょうに」

「うーん、どうでしょう。あのときの彼は、ちょっと正気にはみえなかったので」


 これだけ減らず口を利けるなら、回復は良好のようですね。

 私は小さく息をついて、ベッドの傍らに膝をつき、包帯ごしの額へ口づけを贈りました。

 そう、あなたは二つとない私の大事な駒なのですから、こんなことで壊されては困るのです。


「罰として、しばらくは大人しく厳重な警備のもと看護されながら勉強なさい」

「はい、義姉さま」


 厳格な姉らしい表情を作ってぴしゃりと言い渡してから、苦笑するルシオをおいて、今度こそ私とイシドロは遅れながらアカデミーへの馬車へと乗り込むのでした。





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