07. 婚約式
婚約式に決まった形や儀式というものはありません。
一般的には男性からのプロポーズを女性が了承した後、女性側の親に男性側の親から改めて結婚を申し入れます。それから男性が女性へ婚約指輪を送る、というのが貴族間でのお決まりでした。
政略結婚の側面が強い場合は、私が裁判で提出した議事録のように持参金の額や、寡婦になった場合の手当まで細かく決められた法的文書を交わす場合もあります。
ですが私の場合、イシドロとの婚約権限はバルラガン侯爵から私がもぎとったようなものですし、バルラガン侯爵側から礼を尽くすような親は私には存在しません。ただ生きてるのならいますけど。
そんなわけで、迎えの馬車に揺られながら対面のイシドロが行う婚約式はどんなことになるのかと緊張しつつ、数週間ぶりのバルラガンハウスに到着です。土日は必ず帰るつもりが、学期初めのドタバタで全然帰れてませんでした。その分手紙を送っていたんだけれど、私たちの可愛い義弟は元気にしているかしら。
離れ屋敷の方へと向かった馬車から見えた離れの門前に、私は思わず笑みをこぼしていました。
馬車が停まり、イシドロが先んじて下りていきます。その差し出された手を取りながらステップを下ると、離れの門の前で立っていた大小の人影、その小さな方が弾かれたように駆けてきました。
「義姉さま!義兄さま!お帰りなさい!」
「ただいまルシオ。まあ、少し見ない間に背が伸びたんじゃなくて?」
「えへへ」
榛色の髪もつやつやでさらさら、頬も薔薇色で健康そのもののルシオが飛びついてきたのを抱きしめ返すと、何とも可愛らしい笑顔が返ってきました。シルベストレ邸にいたころは無表情がほとんどだったことを思えば、これは劇的な変化です。
「マダム・セルダ。ルシオはいい子にしていましたか?」
「はい、お嬢様。坊ちゃまは目を瞠るほど勉学に打ち込んでいらっしゃいました」
「そう、頑張ったのねルシオ。誇らしいわ」
ルシオのあとを追って降りてきた大きな方の人影、マダム・セルダは私の手元でルシオを養育すると決めた時、まっさきに探し出した家庭教師です。ゆくゆくは男爵家を継いでもらうルシオに相応しく、帝王学なども教えられる経験豊富な家庭教師を見つけ出すのはなかなかに苦労しました。
しかし苦労しただけあって、複数の候補者の中から最も私の考えを理解してくれる人物を見つけ出したので、等価交換といったところでしょう。
マダムが傍に来るとルシオもぴしっと背を伸ばして、私のスカートから手を離しました。
「ねぇイシドロ?この二人に証人となってもらうのはどうでしょうか」
そんなルシオの頭を撫でながら、傍らを見上げると、片眉を上げたイシドロと目が合いました。少しの逡巡の後に、こくりと頷きが返ってきました。
「――――いいだろう」
「義姉さま、証人って……?」
不思議そうな顔をしているルシオとマダム・セルダに片眼を瞑って見せた私は、イシドロの差し出した腕に自分の腕を滑り込ませ、二人を促しながら離れへと向かうのでした。
久方ぶりのイシドロの寝室は、メイドたちの手が入ったのでしょう、きちんと整えられてベッドのシーツに皺ひとつありません。イシドロは部屋の隅に置かれたライティングビューローの天板を鍵を使って外し、中から小さな小箱を取り出しました。
そして閉じたままのカーテンの隙間から外の様子を見ると、言葉少なに入口へとどまっている私たちへこう言いました。
「中庭へ」
秋の深まりと共に、中庭の顔ぶれも以前来たときとは異なっています。優しく涼し気なピンクや薄紫が見られる中、私はコルチカムが盛りを迎えている花壇の前へとエスコートされました。クロッカスに似たピンクや薄紫色の花が地面から直接のびて、彩りを添えています。
「お前たちはそこで待て」
その言葉に、ルシオたちの足音が止まるのがわかりました。
日差しは高く、お昼に近くなっています。真上から降り注ぐ陽の光は、私を見下ろすイシドロの目元に一層暗い影を作ります。
そう、普段なら。
「……!」
マダム・セルダが息を呑むのが視界の端に映ります。
イシドロが躊躇なく、その磨き上げられた靴に皺を寄せて私の前に跪いたのです。
「契約を忘れていないのなら、お前の魂はまだお前だけのもの」
私を見上げるイシドロの真剣な表情が、金色の瞳が陽の光を反射して煌めいています。
「ゆえに、今度は俺が希う――――その魂の半分を、永遠に俺と共に」
そういってイシドロが取り出したあの小箱の蓋が開かれ、金色の光がイシドロの左手にとられた、私の左手の横に並びます。
「――――!」
その小箱の中の金色の煌めきを見た瞬間、私は思わず息を呑みました。
繊細な彫金で表現された鱗と自らの尾を飲み込む黄金の蛇。その眼窩にはまっている深緑はエメラルドでしょうか。いいえ、そんなことよりも。
これは、ウロボロス。錬金術の基礎書『ウロボロスの書』にその名がある通り、錬金術の核心 "一は全、全は一" を示す存在。卑の破壊をもって貴の再生を成す永劫回帰の象徴。
(……私の魂は私だけのものと言いながら、私が最も喜ぶものは、とうに知っているのね)
私はこみ上げる笑みと感情のままに、口を開いていました。
「お受けします。私の魂の半身を、あなたに」
日差しのおかげで、イシドロのその笑みすらも、よく見えました。一度私の手を解放したイシドロが小箱から指輪を抜くと、あらためて取り上げた私の左手の薬指にその指輪を嵌めます。
「ロサ。お前が俺の唯一、俺の全てだ」
指輪越しの口づけと一緒に、囁かれた言葉が薬指にあるという心臓への血管に染み渡るようです。目眩がしそうなほどの高揚感。この人の言葉なら信じられるという幸福に浸りながら、私は空き箱を手に立ち上がったイシドロと共に、二人の証人へあらためて向き直りました。
「っご婚約おめでとうございます、お嬢様、イシドロ様……!」
「おめでとうございます、義姉さま。義兄さま!」
頬を赤くしたマダム・セルダから意味を教えてもらったのでしょう、ルシオもまた興奮に頬を赤くしています。
「ありがとう、二人とも」
イシドロに寄り添いながら微笑んだその時、傍らのイシドロの空気がぴり、と張り詰めたのを感じました。何事かと彼の視線の先を追ってみれば――――いつのまにか、中庭への入り口である扉の前に、バルラガン家執事のアルフレドさんが立っています。
招かれざる客である自覚があるのでしょう。アルフレドさんの表情は硬く、それでも自身の職務を果たそうとする人のそれです。
無言で歩き出したイシドロにつれられて、私たちもまた真っすぐに中庭の出入り口である扉へと向かいます。
「坊ちゃま」
アルフレドさんを無視するように、いえ実際に無視しようとしたのでしょう。その目の前を横切ろうとしたイシドロの歩みが止まりました。
「奥様が、皆様をお昼のお茶に招待されるとの仰せです」
「……何だと?」
イシドロの唸るような声に、アルフレドさんの顔色がますます悪くなります。
奥様、つまりバルラガン侯爵夫人ですね。離れに居座らせてもらって随分になりますが、私はまだお会いしたことがありません。こうして婚約式も終わったことですし、一度ぐらいご挨拶しておいても問題はないでしょう。
私はいまにも断りそうなイシドロの腕に自身の左手を重ねて、宥めるように笑みを作りました。
「せっかくのご招待ですもの、お受けしましょう?それにまだ、私たち一度も侯爵夫人にご挨拶出来ていませんでしたから」
「……お前がそう言うなら」
イシドロの毛を逆立てた獣のような気配が若干の落ち着きを見せました。
それを見ていたためかどうかはわかりませんが、アルフレドさんがほっと胸を撫ぜおろすような仕草の後、あらためて私たちを見たときには、あの表情の硬さは少し薄らいでました。
「坊ちゃま、シルベストレ嬢……ご婚約、おめでとうございます」
イシドロはそれに応えることなく、私だけが「ありがとう」と返したのでした。
秋口のお茶会は狩猟のシーズンに重なることもあって、お肉を多用した温かい料理がメインで並びます。また、夏のお茶会との違いは明るい屋内で行われる、ということ。
つまり私たちは、侯爵へ挨拶をして以来のバルラガンハウスの母屋へ足を踏み入れたのでした。
アルフレドさんの案内で似たような光景の続く廊下を抜けた先、南向きなのだろう一室の前でアルフレドさんがノックをしました。
「奥様、イシドロ坊ちゃまがたをお連れしました」
「どうぞ、お入りになって」
中から柔らかな声が返ってきます。とはいえ、柔らかな絹の下に尖ったピンがギッシリ、なんてのが社交界の常ですから、私もマダム・セルダと目配せをしつつ、香ばしいセイボリーの匂いが香る扉を慎重に潜ったのです。
そこは壁一面がガラス張りになっている明るい日差しに溢れた部屋でした。多角形の机が並べられ、用意されている空き椅子は四つ。そして一番奥の衝立を背にした席に、深い紅茶色のドレスを纏ったその人が座っていました。
彼女は入室した私たちを見るなり席を立ち、その白い顔へ柔和な微笑みを浮かべました。
私たちはすかさず、礼の姿勢を取ります。この場で最も位が高いのはこの黒髪の貴婦人――――バルラガン侯爵夫人なのですから。
「ようこそ、皆様方……久しぶりね。イシドロ」
「今更何の用だ」
無造作なイシドロの声が夫人の声を一蹴します。一瞬夫人が息を呑む気配がしましたが、私たちは顔をあげません。さすがというか、すぐ気を取り直した彼女の声からは、まだ柔らかさも喪われていませんでした。
「何の用、だなんて。大事な四男が婚約をしたのだから、その婚約者ご本人とご家族へご挨拶するのは当然のことでしょう?」
「……どこでそれを」
「あなたが買い物をする度、その請求書を誰が処理していると思っていて?」
「…………」
これは侯爵夫人の方が一枚上手のようです。侯爵家令息としてお金を自由にさせてもらってるらしいイシドロですが、結局その請求書は母屋に集まります。
また、どうやら侯爵夫人は女主人として帳簿を使用人任せにせず、しっかり管理されている方のようです。そうでなければ、婚約指輪の請求書になんて気づかないでしょうから。
まして婚約者候補の私ことロサ・デ・シルベストレが婚約破棄に至った、ということは新聞で大々報道されてしまっているわけですから、そこと請求書とこの土日の急な帰宅、と重ね合わせれば――あとは離れに誰か人をやっておけば――その日の目的はおおよそ見当がつくというもの。
「さあ、皆様顔を上げてくださいな――――わたくしがカンデリア・デ・バルラガン。当バルラガン家の女主人を務めております、イシドロの母です。そして……あなたがロサさんね?ずっとお会いしたかったのよ」
「光栄です、侯爵夫人。改めまして、お初にお目にかかります。ロサ・デ・シルベストレです」
「まあ、そんな堅苦しい挨拶はよしてちょうだい。せっかく未来の家族にお会いできたのですから」
侯爵夫人の瞳の色は明るい緑でした。口元と同じく穏やかに微笑むそれが、ゆっくりと私からその後ろへと向かいます。
「同じく、ルシオ・デ・シルベストレです。侯爵夫人」
「あなたの噂もメイドたちから聞いていてよ。大変聡明な少年であると――――小さな紳士さん」
「ルシオ坊ちゃまの専任教師を担当しております、ノミエ・デ・セルダと申します」
「ルシオ君の家庭教師の方ね。あなたもメイドたちに礼儀正しくしてくださってると伺ってるわ」
「勿体ないお言葉です」
「さ、皆様、せっかくのセイボリーが冷めてしまうわ。どうぞお座りになって」
そうして示された席順は、夫人の右手にルシオ、左手に私、ルシオの右隣にマダム・セルダ、私の左隣にイシドロというものでした。
ルールに則った席順とはいえ、私とルシオの手元が侯爵夫人からは丸見えです。下手な真似は出来ません。
「ミートパイはお好き?新鮮なウサギ肉が手に入ったのよ。是非召し上がっていただきたいわ」
「ありがとうございます。喜んでいただきます」
「食べ盛りの頃でしょう。遠慮しないで召し上がってね」
「ありがとうございます。侯爵夫人」
サクサクのパイ生地と濃厚なグレイビーソース、そして完璧に下処理された新鮮なジビエのハーモニー。ああ、これは……たまりません。夏季休暇でお世話になってた頃から解ってましたけど、バルラガン邸のお抱えシェフは腕が良すぎます。
うっかり気を抜きそうになるではないですか。それどころではないというのに。
ルシオの方もミートパイに始まり、マッシュルーム、チーズ、ベーコンがたっぷり入ったキッシュでご満悦のようです。うん、綺麗に食べれていますね。マダム・セルダもほっとした様子で見ています。彼女のお皿にはクランベリーソース添えのポークパイが。
イシドロはというと薔薇のように巻かれたローストビーフをフォークで串刺しにし、無言で口に運んでいます。これはいつものこと。
さて、全員が何かしらをお腹に入れたところで、待っていたように侯爵夫人が口を開きました。
「ねぇロサさん、イシドロとはどんな風に出会ったのかしら?この子ったら学校の様子をちっとも教えてくれないんですもの」
おっと、そうきましたか。スモーキーな香りが特徴的な紅茶でパイの脂を流した私は、にっこりと笑顔を、作るのではなく、若干恥ずかしそうな顔を作りながら手元に視線を落としました。
「ええとそれは……私があまりに成績不振だった頃、成績優秀なイシドロ……くんとバランスを取るために課外授業のペアになりまして……あ、もともと同じクラスメートではあったのですが、直接お話したのはそれが初めてです」
「よくってよイシドロで。まあそうだったの?ロサさんが成績不振だったなんて信じられないわ」
うそおっしゃい。私のことを少しでも調べたなら私が赤点補習常連の落第生だったことは丸わかりのはずです。いくら傍若無人な四男に輪をかけて傍若無人にその結婚権限をもぎとっていった女とはいえ、侯爵家が身内の結婚相手の身辺を調べないはずがないのだから。よって、私の成績その他は筒抜けになっていると思うべきなのです。最新のそれはどうだかしりませんが。
「いえ、本当にあの頃はひどくて……たくさんイシドロに助けてもらいました」
「じゃあ、それが二人のなれそめということかしら?」
「――――その話は俺も聞きたいなあ」
はい、と応えかけたその時でした。俄かに入り口側が騒がしくなったかと思うと、扉が開いて一人の男性が給仕役のメイドを押し退けるように入ってきたのです。
軽快な足取りでこちらへとやって来るその人物が何者か、さして考える必要は在りませんでした。
「テオドロ」
窘めるような厳めしさをもった侯爵夫人の呼んだその名前、何より彼の黒髪に、明るい色の瞳――そして侯爵夫人とうり二つの美貌が、彼の正体を物語っていたので。
それはともかく、テオドロと呼ばれたその人物が侯爵夫人の頬に口づけながら言った次の言葉が、私の中の熾火に触れました。
「そんな厳しい顔をなさらないでくださいよ母上。気になって当然じゃあありませんか――――こんな手に負えない怪物を引き取ってくれる聖女がどんな人物か、なんて」
ファッキソ。
「……私がどんな女かお知りになりたいのでしたら、先週の新聞をお読みになればお分かりいただけるかと存じます。少なくとも、聖女には程遠いかと」
「ああ、不貞を働いた男から二十億グロー毟り取って婚約破棄までした女傑!確かに今のあなたの目はその愚か者を見てた時の目に近いのでしょうね。緑の炎が燃える、美しい瞳だ」
「テオドロ!いい加減になさい」
ぴしゃりと鞭打つような侯爵夫人の声に、ファッキソ野郎――もとい、バルラガン家三男、イシドロの兄の一人テオドロ――は侯爵夫人の背もたれからぱっと両手をあげ、ヘラリと笑ってみせました。その拍子に香ったムスクが鼻先に纏いつくのを、私は手で仰いで散らします。
「そして今は氷のように冷たい――――誤解しないでください。俺は個人的にはあなたと親しくなりたいと思っているんですよ」
「個人的な感想を申し上げるなら、非常に困難かと存じます」
「そうおっしゃらずに……」
侯爵夫人の背もたれを離れた手が、私の座る席をつう、と辿って行きました。
そのまま断りもなく私の髪の一房をすくい上げたかと思うと。
「ラベンダーベースの香りですか?よい趣味だ」
「イシドロ!」
次の瞬間、私は立ち上がってフォークを放とうとしたイシドロを押さえこんでいました。
ファックもファック超ファックです。このお茶会に乱入してきたときからファッキソ野郎の目的がどう考えてもイシドロ狙いだとは思ってましたが、こんな形で煽りたてるなんて。
イシドロの喉元から獣じみた唸り声と歯ぎしりが聞こえます。私はそんなイシドロの手からなんとかフォークをもぎとると、背中を撫ぜながら席に付かせることに成功しました。
「ははっ!こいつは傑作だ!!本当に言うことを聞くんだな」
「およしなさいテオドロッ!弟の婚約者になんてことを……!」
もはや悲鳴のような侯爵夫人の声が部屋に響きます。
狂喜じみたファッキソ野郎の笑い声も。
私はといえば、本当久方ぶりにこんな荒れ狂う胸中を感じたもので、対処が後手に回りました。まずは深く呼吸を吐き出して、姿勢を正します。それから間近のイシドロの頬を一撫ぜ。大丈夫。あなたは何も悪くないから。
振り返って、腰に手をあてて斜に構えたファッキソ野郎と、真っ青になった侯爵夫人を交互に見遣ると、ドレスの裾を掴んで一礼を。
「……心づくしのお持て成しに感謝いたします侯爵夫人。イシドロの体調が優れないようですので、私たちはこのあたりで失礼させていただこうかと存じます」
「……ええ……わかりました」
「ルシオ坊ちゃま、私どもも」
「……」
この騒ぎの中でもカスタードの載ったタルトを食べていたルシオが、食べかけのそれを皿に置いて口元を拭きました。そしてすらりと椅子から立ち上がると、何事もなかったかのように侯爵夫人へ辞去の礼を見せます。
私はこのルシオの姿に内心で深い安堵を覚えました。マダム・セルダも同じだったことでしょう。
けれどこの時、私は見事な一礼を見せたルシオへ安堵していて、あのテオドロのどす黒い眼差しがルシオに注がれていることには気づかなかったのです。
こうして、侯爵夫人からの初めてお招きいただいたお茶会は散々な結果となって解散となりました。
離れに戻った私たちは、ルシオのことをマダム・セルダに任せて、私はイシドロと一緒に彼の寝室に入りました。部屋に入るなり整えた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しシャツのボタンを外したイシドロは、そのままベッドに転がりました。腕で目元を隠したまま、仰向けになった彼の傍らに、私は腰を下ろしました。
「…………ロサ」
「ここにいます」
「……あいつには近づくな」
「二度と会いたくもありません」
率直な感想を述べたところで、ふ、とイシドロの笑みを含んだ吐息が漏れてきました。
バルラガン家が私を調査したように、私もバルラガン侯爵家についてはある程度調べをつけています。イシドロには三人の兄がいて、長兄イグナシオは家の跡取り、次兄レアンドロは宮廷武官、そして彼らと年が離れ、最もイシドロと年が近い直兄テオドロは王立アカデミーの大学生。
あと、これは噂の域を出ませんが、イシドロに絡んでくる輩どもの裏にはそれを煽っているアカデミーの大学生がいる、という話があります。
今日のこれで、噂に大分信ぴょう性が出たのは言うまでもありません。
「……六歳の頃だ」
「え?」
自分の考えに沈んでいて、少し反応が遅れました。
六歳。いまのルシオの年です。
「木剣であいつの右腕を折った」
「!」
「いきなり勝負だって木剣持たされて、殴られて、逃げようと振るったら木剣ごと折れた」
「…………」
「そんなことの繰り返しだ。俺は」
そんなことの繰り返しが。
あなたを傷つけてきたのね。
「……ロサ?」
「あなたは悪くない」
「――――」
腕の覆いを除けて、両手でその頬を掴んできっぱりと言ったら、乱れた前髪の向こう、イシドロの満月色が微かに見開きました。
「あなたはいつだって、自分から手を出さなかった。密猟者に襲われた時も、絡まれた時もそう。今日もそう。私が嫌がってるのが解ったから怒った」
私の髪が流れ落ちて、イシドロの顔の周りに帳を下ろしました。
「だから、あなたは傷つかなくていいの」
「……お前は、どうして――」
俺を恐れない?傷ついたってわかった?睡眠障害のことを知ってたからか?
イシドロの言いそうなことを頭の中に並べてみたけれど、そのどれも彼の唇からは出てきませんでした。
「――そうやって、俺を助ける」
「……強いて言うなら」
またぐしゃぐしゃになってしまった前髪を、そっと額の上に除けます。
「そうやって自分から逃げずに傷ついてきたあなたが好きだから」
「……好き?」
「婚約までしたのに、今更それ確認します?」
今度は私が少し笑う番でした。薄く開いた紅い唇に、自分のそれを重ねます。ただ重ね合うだけだったそれが深くなるのは、瞬きの間でした。私の頭の後ろに、イシドロの大きな手が重なります。
角度を変え何度も重なり合う合間で、小さく息を吐いた私が、お返しのように問い返すと、イシドロの瞳がゆるりと細くなりました。
「……あなたはどうして、私を好きになってくれたんですか?」
「……いま、ここにいてくれた」
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