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雑草令嬢は野獣令息の腕のなか〜背徳契約から始まる復讐錬金術〜  作者: gen.


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05. 祝福と転落





 その日は幾つもの馬車が王立アカデミー正門の車寄せにつらなり、まだ強い日差しを遮って石畳に濃い影を落としておりました。馬車から次々に降りていく生徒たちは、学友を見つけては久方ぶりの噂話に興じるなど、普段よりもアカデミーまでの道のりは賑わっていたと思います。

 ただそんな中で私はというと。


「もう、着きましたよイシドロ!早く降ろしてくださいな」


 私を膝から降ろそうとしない誰かさんのせいで、大分じたばたと車体を揺らしていたのではないかと思います。


「もう着いたのか……」


 心底うんざりした表情を隠すでもなく、イシドロの腕がようやく緩んだので私は膝の上から立ち上がり、彼のシャツのボタンが留まるところまで留め直してあげて――一番上のボタンからは命乞いが聞こえそうですけど無視――ジャケットもぴしりと直したところで、のっそりとイシドロが体を起こしました。

 広々とした車内のはずなのに、彼が動くと途端に手狭に見えるから不思議です。それはともかく、せっかくのお披露目なのだからきちんとしなくては。元々野性味あふれる外見が魅力のイシドロですが、今日はしっかりヘアセットまでしたのです。私が。ええこの私が!

 長い前髪を左から大きく掻き上げて、徐々に右に流していくこのヘアセット。幾筋かの前髪が少し右目にかかるところがポイントで、イシドロの鋭くも艶のある目元を強調しているのです!

 いけない。私が興奮しすぎてしまいました。だってずっと勿体ないと思っていたんです。

 私はまぁバルラガンのメイドさんたちに磨いていただいてぼちぼちといったところですが、イシドロは天然の!色気と野性味を同居させた美形なんですから!!

 などと彼の後ろ髪までいじくりまわしていた手を不意に取られたかと思うと、音を立てて啄むような口づけが。


「……よそ見するなよ」

「あら、誰に言ってるのかしら」


 長身からの上目遣いという器用な真似を見せながら、その目元をふ、と笑ってみせたかと思うと、もう一方の手が側戸を開きました。

 さきほどまでのぐずりっぷりが嘘のような軽い足取りで降り立った彼に、外からざわめきが聞こえます。けれどそんな声に構うことなく、私は差し出された手を取って馬車を下りたのです。

 ざわめきがどよめきになるのを聞きながら。


『え、どなた……?』

『あの紋章――バルラガンの』

『バルラガンっ?じゃあご一緒なさってるのは』

『あの噂ほんとうでしたの?』


「日差しは強いけど、風は涼しくていい天気ですね、イシドロ」

「ああ……」

 

『やっぱり、シルベストレ男爵の……!』

『ベニート氏とは婚約破棄されたのって本当でしたのね』

『なんでも継母を追い出して実家の財産を全て没収したとか』

『それですぐバルラガン侯爵のご令息に走るなんて……ひっ』


「イシドロ」


 メイドさんたちが梳ってくれた髪が風になびいて、私のうなじにも涼しい風が通ります。見上げた先のイシドロが、噂話の方から私へとその満月色の瞳を戻してくれたのも、セットした前髪のおかげでよく見えるのです。


「あなたこそ、よそ見はいけませんよ」


 私の悪戯めいた笑みに、軽く目を見開いたイシドロが、そのまま眉尻を下げて微かに笑いました。その笑みでまたざわめきが起きるのを聞き流しつつ、私たちは校門までの道のりを颯爽と歩いていったのでした。



 それにしても、見た目だけでここまで反応が変わるとは。一周回って清々しさすら感じます。

 始業式の後、教室に向かって歩いていると、いままで私が存在しないもののように廊下を占拠して歩いていた生徒たちが、慌てて隅によけていくのです。まあ、それは隣のイシドロだったり私にまつわる噂のせいだったりもするのでしょうが。

 『あれがカミロの……!?』『別人じゃないか』『いや、もう婚約破棄の裁判中らしいぞ』『なら俺も……』『よせ、殺されたいのか?隣を見ろッ』などなど。

 失礼な。私のイシドロはゴーサインもないのに殺人なんていたしません。あったらどうだかしれませんが。

 とりあえず授業が聞きやすく、イシドロの座高が後ろに影響しない席を取ってひと息ついた時でした。


「あのぅ……」


 甘くて繊細な、砂糖菓子を音にしたような声がイシドロ側から聞こえてきたのは。


「……なんだ」

「お隣、よろしいでしょうか?」

「勝手にしろ」

「ありがとうございます」


 遠慮がちに震えるその声の主は、ええと、名前は忘れてしまいましたがどこかの伯爵令嬢だったと思います。数名の取り巻きの女子たちと一緒に、イシドロ側の席を埋め尽くした彼女たちは、提出課題のノートを出しながら、今シーズンの夜会ではお見掛けしませんでしたね、だとか提出課題のこのあたりが難しくありませんでしたか?などと言った話題をイシドロに向けて一生懸命発信しています。

 その間、私の方はまるっと無視されているのですが、まあその辺は今に始まったことではないので "雑草令嬢" らしく影に徹しながら、私も提出課題のノートを取り出しました。


「あら、お珍しい」


 その時でした。令嬢の取り巻きの一人が、私のノートをみてくすりと笑ったのは。


「雑草……失礼、シルベストレ男爵令嬢が課題を間に合わせるなんてこともあるのですね」

「およしなさい。シルベストレ嬢、よろしければわたくしのノートで内容の見直しをなさいませんこと?」


 件の伯爵令嬢が少し声を厳しくして取り巻きを窘めました。そしてさらさらと流れる長い髪を揺らしつつ小首を傾げた提案は、遠巻きにこちらの課題の出来について疑問を持っている、と言っているようなものでしたが、私は特に反応することもなくただ自分のノートを手に席を立ちました。


「お気遣いありがとうございます。ですが見直しについてはイシドロと済ませておりますので。イシドロ、ノート持っていきますよ」

「ああ、頼む」

「あ、バルラガン氏のノートでしたらわたくしが……」


 彼女の伸ばされた手を避けるように、イシドロが差し出したノートを自分のそれに重ねた私は、それきり彼女たちを振り返ることなく席の並びを出て、階段を下り教授の立つ教壇脇の机にノートを重ねました。


「今回は間に合ったか」

「はい、おかげさまで」

「君のノートは内容がいいのだから、期限さえ厳守できればこちらも相応の評価をつけられる。この調子で励むように」

「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう頑張ります」


 とはいえ、もう最終学年ですから、ここから巻き返すのはなかなか厳しいものがあります。教授との短い会話を終えた頃、教室に駆け込んできたカミロが私を見た瞬間苦いものを口にしたような顔になったあと、課題のノートを机の上に置くなりすぐ座席の方へと駆けて行きました。


「――――やれやれ」


 私の内心を代弁したかのような教授と目配せし、私は私の席に戻ります。

 するとどうしたことでしょう。先ほどまでイシドロの脇を固めていたあの令嬢集団が影も形もありません。あ、いえ、いました。階段を一つ挟んだ座席列でなにやら俯いてる令嬢をあの取り巻きたちが励まして、る?のでしょうか。よく解りませんが。

 私はといえば普通にイシドロの隣に戻ったのですが、さして興味もなかったとはいえ一応確認のために聞いてみました。


「イシドロ、彼女たちどうなさったんです?」

「腕を絡めてきた」

「はあ」

「授業の邪魔をするなら離れろと言ったら、散った」

「……はあ」


 なるほど、自爆するほど解りやすいアプローチを仕掛けてその通り爆発四散なされたと。

 イシドロは授業以外だと――今は大分減りましたが――絡んでくる輩を千切っては投げしていたので問題児扱いされてましたが、授業態度は至って真面目なのです。いや前者をカバーするために後者があったのかもしれませんが、それはともかく。

 真面目に受けようとしている授業の邪魔は、誰だってされたくはありませんよね。うん。イシドロは無罪。

 しかし授業とは言っても、今季の初日に当たる今日は課題の提出と、今季のスケジュールの説明がほとんどで授業らしい授業は特にないのです。

 純粋に邪魔臭かったんでしょう。多分。



 そんなことがありつつも午前のカリキュラムを消化して午後に備えるお昼の時間に、大分減った、にしても無ではないそれは起きました。


「バルラガンくんよォ」


 いい加減懲りて消えてほしいと、第三者の私が思うのですから無言で視線をやってるイシドロの胸中については一目瞭然といったところでしょうか。こめかみに青筋が立ってます。

 食堂で食後の紅茶を嗜んでいる私たちの周りから、次々と危機察知能力にすぐれた生徒たちが消えて行きます。ついでにこの人たちも連れてってくれないでしょうか。

 同じく最終学年、同じく侯爵家と伯爵家とあとその寄り子がうじゃうじゃと、何度イシドロに殴り倒されても懲りない面々が、新学期早々ご挨拶に来たようです。


「見違えたぜ。女一匹捕まえただけで人間そんなに変わるんだなあ」


 イシドロのこめかみがぴくりと動きました。

 彼らの一人から伸ばされた腕が、私の髪を鷲掴みました。


「俺らも試してェからよ、一晩貸してくれねえ?大体そのままで」


 返す、と、言おうとしたんだと思います。多分ね。

 その前に目の前の食卓がひっくり返って、自分たちに襲い掛かってくるとは思わなかったのか、ティーカップの割れる音と共に数名がそのまま沈黙しました。私の髪を掴んでいた一名はぎりぎりで直撃は避けられたようですが、右肩を食卓が掠めたのかそこを押さえて何とも痛そうな顔をしています。

 多分今から、もっと痛い目に遭いますけれど。

 食卓を踏んでのそりと立ち上がったイシドロが、私の傍で右往左往しているかの人物の頭を掴みました。そのままギリギリと万力のように締め上げているのか、どこぞの令息とは思えないひどい悲鳴が食堂に響き渡ります。


「一度しか言わねえから、お前が覚えて、下っ端どもにも覚えさせろ」

「ひ、ひぎィ……!!」

「ロサを見るな、触るな、関わるな――――覚えたか?」

「ひゃい、ひゃいい……!」


 次の瞬間、座ったままの私から見て丁度イシドロの背後から、食卓を逃れたのだろうその下っ端が、食事を載せる金属製のトレーの角でイシドロの頭を殴り付けました。

 固い音がします。ただ、それだけです。

 ひしゃげたトレーを手に、呆然と立つ下っ端君。ゆっくり振り返ったイシドロは、その片手に握っていた "もの" を下っ端君に投げつけました。


「教育しておけ」

「ぎゃあ!!」


 折り重なって倒れる二名。それでも、イシドロの手は、いえ脚は止まりません。


「ロサに触ると」

「ッやめ――――」

()()なる」


 固いものが砕ける音。イシドロの靴底の下で、私の髪を掴んだあの手は、きっと見当違いな方向に折れ曲がったことでしょう。

 ああ可哀そう。首から上に載ってるものへ、学習機能が搭載されていないばかりに。

 私はカップの残りを飲み干すと、近場のテーブルに置いて席を立ちました。軽くスカートの埃を払ってからカップを回収します。


「イシドロ、保健室に行きましょう」

「……ああ」


 殴られたところ、血は出ていないように見えるけど、打撲傷にはなっているかもしれませんから。

 床の人たち?自力でどうにかするでしょう。



 保健室での診断は迅速で的確でした。先生ももう来てくれるだけマシ、といった態度を隠しもせずに処置してくださり、私たちは早々に保健室を後にしたのです。この後込み合うでしょうから、ね。


「打撲傷だけでよかったですね」

「ああ」

「ちゃんと軟膏塗るんですよ?」

「わかってる」


 中庭のベンチはイシドロの脚を大分余らせてしまうのですけれど、彼がごろ寝をするときは大体ここでした。

 いまはそこに、私の膝枕が加わったので、少しは眠り心地も改善されているといいのですが。

 ざあ、と風を通した青い枝葉が音を立てます。日差しは強くても、日陰は涼しい風が通り抜ける、夏の終わりらしい天気。

 これから葉が色づいては散っていく、美しい季節がやってきます。

 そう。収穫の季節が。


「ロサ」

「なんです?」

「早く特待生(スカラー)になれ」


 私の髪の一房を絡めとったイシドロが、そこへ口づけながら何でもないことのように言います。

 実のところ、イシドロはあらゆる特権を付与されたアカデミー内の一握りのエリート、特待生(スカラー)であり、特待生(スカラー)だけが寄宿を許される特待生宿舎(スカラーズハウス)に属しています。なので、多少の――ええ、多少の暴力沙汰では彼の実家の影響力を使うまでもなく、アカデミー側が必死でもみ消してくれるんですよね。

 イシドロ自身が特待生(スカラー)の特権であるガウンも煩わしいと着ていないので、あまり知られていないことではあるのですが。


「もう少し待ってください」

「待ったら、どうなる」

「席が空きます」

「あいつか」

「ええ」


 特待生(スカラー)には定員があります。誰かが入るには誰かが抜けなくてはいけない。けれど私たちには、そこに心当たりがありました。

 ええ、そろそろエリート気取りの害虫には、ご退場願いましょう。







 王立アカデミーは貴族中心とはいえ実力次第で平民も受け入れているエリート学院です。なので、テストの頻度は並の学校よりも高く、抜き打ちもざらにあります。

 その中でも最難関と言われる三つのテストが、学期初めの総督試験(リターン・エグザム)、中間期の中間口頭試験(ミッド・ターム)、そして学期末の卒業―または進級―査定(グレート・エグザム)試験です。

 このうち総督試験は夏季休暇の課題をしっかり理解できているかもかねた内容なので、自身のノートとレポートの持ち込みが許可されています。しかしそれ以外は一切の資料持ち込みは禁止。つまり課題理解が間違えていれば根本から答えようがないというものです。

 今回の私は、イシドロのゲストルームで何に煩わされることもなく自分の課題と実験に専念できたので、この総督試験はよい復習機会でした。ええ、本当に、よい機会でしたとも。


「総督試験結果が貼り出されたぞ!」


 教室に駆け込んできた一人の号令で、教室内が一斉に賑やかになります。私は普段この波を見送るだけなのですが、今回ばかりはイシドロと一緒に "見物" へ出かけることにしました。


『おい、薬学トップを見ろよ』

『何かの間違いか?錬金術も――――』

『カミロの名前がないぞ!?』


 ああ、賑やかさが心地いいこと。

 扇がないので驚いた風に両手で口元を押さえておきましたが、そうでもしなければ笑い出していたところです。

 薬草学、錬金術、呪文学はトップ、語学、数学、地政学、保健学は三位以内。

 ああ、ようやく自分の実力を、本当の実力というものを、この目で確かめることができました。

 やっと呼吸が出来た、と感じたのは、決して大げさな感情ではないはずです。

 

「あ…………」


 ……本当に、らしくもない感情が湧き上がってきました。そのせいで瞼の縁が少し熱くなっています。イシドロの腕が私の方に回り、抱き寄せてくれました。

 よかった。本当に、本当にこんなのは、私らしくないから。眦に浮かんだものはすぐにハンカチで拭って、私を優しく見下ろす唯一の人には笑みを返しましょう。大丈夫。この程度でもう揺れたりはしません。

 今回は格別に気合が入ったけれど、それでも呪文学はイシドロと僅差、数学、保健学も負けてしまってます。本当に、私の恋人は抜け目のない恐ろしいひとです。


「シルベストレさん、おめでとう!」


 不意に、そんな声が聞こえて驚いて振り返ると、錬金術の補講仲間の女子生徒が自分のことのように頬を赤くして喜んでくれていました。


「いつも思ってたの、シルベストレさんはこんな補講受けるまでもないくらい理解してるし私へ教えてくれるくらいなのに、どうしてテストでは――――って」

「あ、ありがとう、ございます」

「本当におめでとう、シルベストレ嬢!」

「おめでとう!!」


 お世辞じゃない、純粋な祝福というものを受けたのは何時ぶりかしら。

 彼女を皮切りに、周りの生徒たちも口々に祝福をくれて、本気で少し戸惑ってしまいましたけれど。でもその一方で、私の頭の冷静な部分はしっかりと "見物" しに来た情報も得ていました。

 私を囲んでくれる人垣から遠く離れたところで、踵を返して駆け去る背中も。


「……これで席が空くな」


 イシドロの低い声の耳打ちに、私も自身の笑みが深まるのを感じます。


『カミロ・デ・ベニート 四十二 二十五 三十五 五十 二十一 三十 二十九』 


 どれ一つとして平均点にすら達していない、赤点だらけのその一行。

 私は祝福に笑顔で返しながら、あらためてこの言葉を口にしました。


「ありがとう。本当にうれしいわ!」







 嘘だ。

 嘘だ。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!


「あッ……!!」


 無我夢中で走っていたら、不意に落ち葉の吹き溜まりで脚を滑らせた。視界が回り、全身が枯れた芝生の上に、落ち葉の上に、石畳の上にと叩きつけられる。


「う、くっ……」


 痛い。なぜだ。どうして僕がこんな目に?

 ロサがレポートをやってれば、薬学は上位三位になれた。

 ロサが実験結果をノートにまとめていれば、錬金術はトップになれた。

 ロサがノートをとっていれば。

 ロサが。あいつが。あいつがちゃんと僕の言うことを聞いていれば……!!

 赤点を取った人間に特待生宿舎(スカラーズハウス)での居場所はない。

 まただ。またあいつ(ロサ)が僕の居場所を奪った!実家だってそうだ。アデリナの隣だって……!!


「ロサ――――ロサ、あの、魔女!悪魔め!!裏切者めェッ!!」

「おやおや、穏やかじゃないね」


 落ち葉を握りしめながら叫んでいたら、不意に人の声が入り込んだ。

 僕は文字通り腰を抜かして振り返りながら、思わず後退っていた。そこには私服姿の男性が二人。ただし、どちらもアカデミー指定のストールを巻いている。


(!しまった。大学部の敷地まで来ちまったのか……!)


 この敷地内で私服が許されてるのは大学部と大学院、そして教員だけだ。


「す、すみません先輩方!みっともないところを……」

「いや確かに随分な醜態ではあったけど、ロサといった?君をそこまで追い詰めた悪女が、そんな名前なのかい?」


 最初に感じたのは、香りだ。自分の安っぽいポマードの香水臭さとは違う、上等なムスクの香りが鼻先に来た。友人だろうもう一人を置いたその男の人は、優雅な足取りで僕の前へやってくると、穏やかな笑みを浮かべながら僕の前にしゃがみこんだ。


「随分ひどい目に遭ったみたいだね、可哀そうに」

「そう、そうなんです!僕は裏切られてッ笑いものにされて、ス、特待生(スカラー)の椅子まで……!」

「おお、そりゃまた、なんて酷い女だろうね。まるで魔女だ」

「そうなんです。あいつは魔女でッでも、バルラガン侯爵の四男が番犬みたいにあいつの傍にいて……!!」

「バルラガン?」


 どこか既視感のある、黒髪に明るい色の瞳をもったその人物は、その名前にぱちりと目を瞬かせると、笑みを一層深めて僕の顔を覗き込んだ。


「興味深いな。バルラガンの四男と言えばあの狂犬、いや怪物だろう?それが魔女の飼い犬になってるって?」

「そ、そうなんです。あいつ、僕という婚約者がありながら!バルラガンのところに走ってッ!いまは義弟までそっちに連れてかれてッ……!」

「……その話、詳しく聞かせてほしいな。どうだい、暖かいラウンジでスパイス入りの紅茶でも飲みながら」

「え……え、でも、僕はこの通り高等部の……」

「僕が一緒にいるから大丈夫。さ、ここは寒いよ、さっさと行こう」


 呆然とする僕の前に差し出された手は白かった。さっき転んだせいで薄汚れた僕の手を重ねていいものか一瞬躊躇したが、彼はそんなことに構わずに僕を引っ張り起こすと、僕についている枯れ葉のくずをパンパンと手際よく払ってくれた。

 こんなに、誰かに親切にしてもらったのはいつ以来だろう。

 僕はじんわりこみ上げるものに任せて、彼の手に導かれるまま、待っていてくれた男性と共に大学部のラウンジに向かって歩き出していた。

 今頃教室では僕のいないテスト返却が始まっていたのだろうが、その時の僕には、そんなことはどうでもよくなっていた。





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