02. 蝶々遊び
楽しい朝食が終わって、あれやこれやと打ち合わせをしていたらあっというまにお昼の時間。シガレットを咥えたイシドロが、呼び出し用の紐を引きました。どういう仕組みかは知りませんが、澄んだ鐘の音が窓の外から聞こえてきます。ワゴンを運んだりする使用人以上の従僕を呼び出すときには、この鐘を使うのだそうです。さて、私は物を知らなそうな顔でライターを弄びながら、イシドロの膝の上に座っています。それらしいほうがいい、という彼の提案です。本当にしようのない人です。そんなところも可愛らしいと思う私も相当どうしようもない人間ですが、今更です。
そうこうしているうちに遠慮がちなノックの音が転がりました。
「失礼いたします坊ちゃま、アルフレドが参りました」
「入れ」
「失礼いたしま……!」
坊ちゃま。当然と言えば当然なのですが新鮮な響きです。彼がバルラガン家執事のアルフレド。当然ながら初対面です。モノクルをつけた老齢の執事と彼の連れてきた従僕たちは、イシドロが膝にのせている私を見て目を見開き、顎が外れそうなほどわかりやすい驚きっぷりを披露してくれました。私はといえば、ライターを弄りながら初めて見る人間たちをちらりと一瞥して、それきり興味を無くしたようにイシドロへと視線を戻しました。
イシドロはそんな私の頭をよくできましたというかのように撫でています。
「ぼ、坊ちゃま、そちらのレディは……」
「これか。朝の散歩中に見つけた。声が気に入ったので朗読手として召し抱えることにした」
「リ、朗読手でございますか」
「そうだ、お前たちもそう呼べ。それとこれの風呂と身支度用にメイドと仕立て屋を呼べ。部屋はこの部屋の隣を準備させろ。いいな」
「ぼ、坊ちゃまの寝室の、お隣に…………」
「文句でもあるのか」
「ッめ、滅相もございません!」
ぎらりと髪の奥からイシドロの鋭い眼光が飛ばされます。他人事ながらアルフレドさんたちが少々お気の毒です。
イシドロはその野生の獣並みの神経過敏さで、昂った神経を自分で落ち着かせることが上手くできなかったこと、それと生まれ持った超人的な身体能力――特に怪力――とでバルラガン家の中では持て余されてきました。小熊のぬいぐるみ、おもちゃの兵隊、金色のたてがみの木馬。……話し相手にと、連れてこられた子供。どれも彼の本意ではなく壊し、傷つけてしまったのだと語ってくれました。それから人も物も寄せ付けなくなったと。
だからこそ、そんな彼が年頃の娘を傍に置く、というのは色々複雑な意味と問題が絡み合ってまいります。けれど私はそんなことを知らず、ただ道端で拾われた娘然としてライターで彼のシガレットに火をつけるのです。
「恐れながら坊ちゃま、旦那様へのご報告は……」
「必要あるか?これは俺のものだ。離れから出す気はない」
溜息交じりの紫煙が目の前に漂います。つまり、私は家具と同じ扱いだということです。家具の一つが増えたところで一々家主に報告する必要はない、というのがイシドロの言い分。一貫した「これ」呼ばわりも実に不良貴族らしい傲岸さ。はまり役過ぎて思わず口元が緩みそうになるのを戒めます。
「質問はそれだけか?なら、そこのテーブルに置いてある封筒を全部今日中に出しておけ。速達でな。それと今朝の朝刊と、今日の夕刊も数紙持ってこい。昼食と夕食の時でいい……ああ、ゴシップ誌もあれば持ってこい。これの暇つぶしになる。食事はこれも一緒に摂るから、そのつもりで用意しろ」
「は、はい。畏まりました……」
従僕の一人が持っていた銀のお盆へ、急いで手紙を回収していきます。私はといえば暇そうなあくびを一つして、イシドロの胸板にぽすんとこめかみを預けました。いかにも年頃の男女の距離感というものをわかっていない庶民的でグッドな振る舞いです。
イシドロはそんな私の頭を撫でてきます。ペットにするみたいに。
「わかったなら早くしろ。あまり俺を待たせるな」
「ははッし、失礼いたします……!」
喉奥から響く、低い唸り声のような低音に追い立てられるようにアルフレドさんたちが退出していきます。
扉の向こうの足音が遠ざかって聞こえなくなると、途端に私たちはくすくすと顔を見合わせて笑い合いました。もちろん、イシドロの膝からはすぐに下りましたとも。
「怖がらせすぎじゃなくて?」
「あの程度でちょうどいい。それで、あの手紙は何なんだ?」
イシドロは相変わらず、私の右手を引いて、手指を弄んでいます。
仕方がないので下りたばかりのその隣に腰を下ろしながら、私はその長い人差し指の指先を、私の人差し指で押しました。
「まずは身動きを取れないよう、脚をもぎます」
「ほう?」
「次は正しい判断が出来ないよう触角を」
「それで」
「次に嘘を吐けないよう、甘い汁を啜れないように口吻をもいで」
「最後は?」
「どこにも行けないよう翅をもぎます」
そう、順番に、ゆっくりと。物事には順序があるのですから。
「怖い女だな、お前は」
そう言って重ね合わせた指に紫煙を吐きかけるイシドロの声は、とびきり楽しそうでした。
イシドロの手配してくれたメイドたちに手伝われて、私は生まれて初めて香油と花びらをふんだんに使ったお湯に浸かりました。こんな贅沢が出来るなら家具扱いも悪くないと一瞬思ってしまったほどです。肌はぴかぴかに磨き上げられて、癖だらけの乾いた髪は香油でしっとりと落ち着かされて、分け目も変えてハーフアップスタイルに。
お化粧まではしなくていいと思ったのですが、ロサ・シルベストレの特徴的なそばかす肌は隠したほうがいいとイシドロからも言われていたので、おとなしく白粉をはたかれました。紅まで差した顔をあらためて鏡で見ると。
「……別人みたいです」
「ええ、とってもお綺麗ですわ。ええと……」
「朗読手です」
「は、はい。朗読手様」
本来なら随伴婦といって同性につく役職名をそのまま名前にする異常さと、それを何とも思ってなさそうな足りてなさ。メイドたちから侮りを受けてもおかしくないところですが、そこはあのイシドロのお気に入りというところが効いているのか問題なさそうです。
次はドレスの採寸。折しも夏は社交のシーズン。新調やら手直しやらで仕立て屋、それも侯爵家に出入りするような立場の人たちは引っ張りだこでしょうが、そこもバルラガンの名前のおかげかすぐに来てもらえました。
「お嬢様はとてもお綺麗な淡い色の髪に深い緑の瞳をしていらっしゃいますから、やはり爽やかな青草色の布地が映えるかと存じます」
「じゃあ、それで。それと、黄色……明るい黄色か、白に金色のビーズ刺繍をしたドレスはできますか?」
「!もちろんでございます。どちらもご用意可能です」
「じゃあそれも。緑のドレスにも金色の刺繍をしてください。イシドロ様の瞳の色だから」
「か、畏まりました!」
採寸が終わってカタログを一緒に眺めていたイシドロが、よく言った、というかのように上機嫌に私の頭を撫でました。まあこれぐらいのサービスは許容範囲内でしょう。専属朗読手としてのドレスですし。
とはいえドレスが仕立て上がるころには夏季休暇もほとんど終わってるでしょうけどね。
ちょうど、計画も最終段階に入っている頃だろうから、何回袖を通す機会があることやら。
さて、お昼をほとんどいただく間もなくスケジュールをこなしていたら、あっという間に夕方になってしまいました。でも、ここからが待ちに待った夕刊のお時間です。
イシドロの寝室とは別の私室で、夏季休暇の課題を一緒にしていた時でした。コンコンとノックの音がして、立ち上がったイシドロが夕食を載せたワゴンを引き入れてきました。私としては先に夕刊を見たかったのですけれど、食事の後にしろとイシドロに言われてしまったので大人しくイシドロの五分の一ぐらいの量のステーキがメインの夕食をいただくことに。……五分の一とはいえスープもサラダもパンもありますから、相当な量には違いなかったんですけれど。
「ごちそうさまでした――――さあ、なんて書かれてるかしら?」
「夕刊がそんなに待ち遠しかったのか?」
「もちろん。だって、下級貴族街のタウンハウスで爆発事故が起こったんですよ?」
「……なるほどな」
朝刊には "メリルポーン通りのミューズ通りで爆発炎上" "高級タウンハウスで火災発生" 程度にしか書かれていなかったけれど、夕刊になるころにはある程度情報が集まって、さらには昨晩しておいた私の投書も効いているはず。鞄を引き回してガッデムロードを歩き回ったのはこのためですもの。
「 "シルベストレ男爵家の厩舎で爆発炎上" "令嬢一人が生死不明の行方不明" "問われる元侍女の男爵夫人の管理能力" "メリルポーン通りの火災にちらつく男爵家の闇" ……まあまあですね」
貴族の既婚女性にとって家庭内や邸宅の安全管理は基本中の基本。アデラが私を厩舎に閉じ込めてくれたおかげで、その管理能力はないに等しいと証明させることができました。私が爆発させたのだと言ってしまえば、じゃあなぜ嫡出子が厩舎なんかにいたのかという話になりますし、ね。
大衆紙の夕刊を畳んで、ゴシップ誌のほうに手を伸ばせば、もっとスキャンダラスな見出しがあちこちに。
「あらあら、こっちは随分気が早いこと。 "ロサ・デ・シルベストレ男爵令嬢、火災に巻き込まれ亡くなる" ですって。 "なぜ令嬢だけが?アデラ・デ・シルベストレ男爵夫人の意味深な沈黙" ……いい調子ですね」
「いいのか?お前が死んだことになれば相続手続きが……」
「――――なれば、ね」
「……ああ、そのための手紙か」
「さすがイシドロ。私のこと、よくわかってますね」
こうなったアデラは記者や警察や野次馬に囲まれて夜会に出るどころじゃないだろうけれど、この流れを利用して必ず私を死んだものとするはず。いいえ、死んでくれていなきゃ困るとさえ思っているでしょうね。
でも、そう上手くいくかしら?
「ねえイシドロ、お願いがあるんですけれど」
「言ってみろ」
ゴシップ誌や夕刊をローテーブルに乗せて、私は空いた右手をすかさず取ってきたイシドロに微笑みかけます。イシドロの笑みもランプに照らされて、獰猛な獣が舌なめずりするような凄みがありました。背筋がぞくりと粟立つような、恐ろしさを秘めた笑み。けれど私はその感覚が好きなのです。とても。
「アデラとカミロに監視の目を」
「報酬は」
「私の左手、に、自由に触れる権利でどうでしょう」
「前払いか?」
「……仕方ありませんね」
くすくすと二人分の笑みがこぼれます。両手を伸ばして、私はイシドロの長い黒髪を掻き上げるように手を滑らせました。そのままこつりと、額を合わせました。互いの吐息も触れ合う距離です。不意に、イシドロの顔が傾いたので、私はすこし顎を引きました。
「だめですよ、イシドロ」
「……」
たしなめる声にも、イシドロがふ、と笑うのが解ります。
「物事には順番があるんですから……」
「ああ、……楽しみだな」
その言葉の先はいまは聞かなくても解りますから、私も何も言いませんでした。
さあ、次の手を打ちましょう。
●
「どういうことですの!?」
早朝のシルベストレ男爵家の応接間には、その時刻には似つかわしくない金切り声が響いていた。声の主であるアデラは真っ黒なドレスに身を包んでいる一方で、彼女の対面している男爵家縁戚のベニート子爵は、一般的な夏の装いで帽子も脱がずにコツリとステッキを床に突いた。二人の間には一人の弁護士が、自身の帽子を手におろおろと左右へ視線をさ迷わせている。そして部屋の応接セットである一人掛けの椅子には、榛色の髪をもつ少年が無表情のまま座っていた。
ベニート子爵は元侍女であるアデラと現男爵の結婚を最も強硬に反対していた、一族の中でも保守派の筆頭である。当然というべきか、アデラとの仲は現在に至っても険悪の一言だった。
「申しあげたとおりだ。貴女が喪服を着る必要はない――資格はない、と言い換えても構わんがね」
「あの火災で嫡出子たるロサが亡くなりましたのよ!?それを――――」
「安心したまえ、アデラ」
男爵夫人、とは呼ばない。ベニート子爵は懐から取り出した一枚の便せんを広げて見せた。
「この通り、ロサは生きている。 "生命の危険を感じたため、信頼できる人物の下へ身を寄せている" とあるがね」
「な――――」
「摩訶不思議な話だとは思わんかね。あの燃えた厩舎には新しい鍵をつけたばかりだったそうじゃないか。そんな厩舎が炎上して、母屋が多少あぶられたとはいえ、厩舎とはずいぶん離れた部屋のロサが行方不明。しかも生命の危機を感じてとは」
「そ、それは……あの子の被害妄想ですわ!か、勝手に出ていったと思えばそんな手紙を出すなんて非常識な……!」
「遺骨の一つも見つかってない状況で、嫡出子の死亡を既成事実化させようとしたというのも十分に非常識だと思われるがね」
ベニート子爵の冷たい目が、先ほどから視線を右往左往していた弁護士に注がれる。途端に弁護士はびくりと身を竦ませて、忙しなく帽子を持ち直し始めた。
「君が一体何を根拠に、あの火災でロサが死んだと思っていたのか――――は、もうこの際どうでもいいことだ。ロサは生きている。生命の危機を感じながらね。我々親族一同としては、彼女が安心してこの家に戻るためにも、いくつかの曖昧になっていた事柄をこの際整理すべきだということで意見が一致した」
「は……」
「ルシオの血統についてだ」
ここでベニート子爵の視線は一人掛けに座った少年、ことルシオに向けられたが、ルシオは大人たちの騒ぎのすべてに無関心だというように無表情のまま、窓の外を見ていた。
邸の外には、いまもゴシップ誌の記者たちが詰めかけている。この応接間から見えるのは、庭だけだったが。
「!?なにを、あの子は旦那様との子だとわたくしたちの結婚時にはっきりと」
「はっきりとは、していなかったはずだ。ただ君たちの主張を我々が受け入れた、というだけでね」
ロサからの手紙の便せんを懐に仕舞ったベニート子爵は青ざめた顔のアデラを一瞥すると、再度ステッキをカツリと鳴らした。
「とはいえ、いまの社交シーズンで我々も暇ではない。この件はあらためて時と場を設けることにしよう。それまでに必要な支度を調えておくことだな」
そう言い捨てて帽子を深くかぶり直したベニート子爵は、さっさと踵を返すと上の階で寝たきりになっている現男爵に挨拶をすることもせず、男爵邸を後にした。
応接間に残された弁護士は、こぶしを握り締めてわなわなと震えているアデラに言葉を選びながらもロサが生きていると判明した以上これ以上の手続きは難しい、とだけ伝えて逃げるようにそそくさと退出していった。
そうして、アデラとルシオだけが応接間に残された。ルシオの前のテーブルには、今や意味を無くした書類たちが並べられている。
「子爵たちは帰られたのね。お母様」
「アデリナ……!」
「だから無理だと言ったじゃないの。死体も見つかってない人間の死亡届けだなんて」
「なにを悠長なことを言っているの!あの小娘が生きてる限り男爵家の嫡出子は――――」
そこから先の言葉を、応接間に入ってきたアデリナはもう何度も聞かされていた。それこそ、うんざりするほどに。男爵家の嫡出子はロサ。でも、だからなんだというのだろう。
アデリナは母と同じ艶やかな栗色の髪を指に巻きながら、事も無げに言い放った。
「落ち着いてよお母様。だって、カミロは私に夢中じゃない。子爵の目を盗んで会いに来るほどなのよ?」
そう、シルベストレ男爵家を継ぐのはカミロなのだ。そう決まっているからこそ、アデリナはカミロを誘惑した。あんな色気のいの字もない義姉から、奪い取るのはたやすいことだった。嫡出子がなんだというのか。結局爵位を継げるのは男だけだ。その男を押さえてしまったのだから、ロサにできることなどない。
だから、アデリナは実弟であるはずのルシオに向ける目も感情の薄いものだった。男爵家を手に入れるのは自分なのだ。ルシオなど、いなくてもいい。
それをさすがに、アデラの前で口にすることはなかったが。
「その子爵が問題なんじゃないの……!いくらカミロがあなたとの結婚に乗り気でも――――ああルシオ、あなたは間違いなく旦那様の子なのになんて扱いなの」
また始まった。アデラはよろめくようにルシオの方へ向かうと、その小さな榛色の頭を抱きしめる。そうされている弟は無表情のままだ。まるで母からの溺愛などどうでもいいというかのように。
アデリナは知っていた。ルシオが自分たちより、アカデミーから帰ってくる義姉との再会を心待ちにしていたということを。アデリナは通わせてもらえなかったアカデミーでの実験の話や草花の話を、母の選ぶ絵本などよりよほど目を輝かせて聞いていたことを。
裏切者。その小さな裏切者に傾倒する母も愚か者だ。
「待っていなさいルシオ、お母様が絶対にあなたを旦那様との子だと証明してあげるから……!」
アデリナは二人に背を向けた。今夜のカミロと向かう夜会で着るドレスを選ぶためだ。
二人がアデリナに関心を向けないように、もうアデリナも二人に関心を向けることはなかった。
●
「――――動いたぞ」
「まあ、早いこと」
私はピペットから試薬を試験管に移し替えつつ、試験管とピペットをケースへと戻しました。手袋を外して、イシドロが差し出した封筒を受け取ると中の報告書を取り出します。
「カミロとアデリナは夜会三昧ですか。暢気なものですね。このままラブレターの一通でも手に入ればいいのだけれど」
「あるぞ」
「私を喜ばせるのが上手になってきてません?」
「どうだかな」
笑みを浮かべたイシドロがあらためて差し出してきた厚みのある封筒を受け取ると、たしかに "カミロ・デ・ベニートから親愛なるアデリナ・デ・シルベストレ嬢へ" と署名があります。中身はお察しでしょうから検めるのはあとでいいでしょう。
それより報告書の続きを――――
「ロサ?」
自分でも、笑みが消えたのが解りました。ふつふつと胸の奥から湧き上がってくるこの感情は、随分と久しぶりのものです。まだ、こんな風に私の中に残っていたんですね。ファッキソでもガッデムでもまだ足りない、憤怒というものが。
「イシドロ、お願いがあります」
「なんだ?」
「アデラが質屋に売ったこのネックレス。早急に買い戻してください」
ダイヤモンドと真珠のネックレス。それは亡きお母様の遺品の一つ。
何事もなければ私が相続するはずの、家に結びついた財産目録にも記録されている一品です。
とうとう触れてはならないところに手を出しましたね、アデラ。触角をもがれた蝶々さん。正しい判断ができなくなるとは思ってましたがこれほどとは。
私の後ろに立ったイシドロの大きな両手が、報告書に皺を寄せていた私の両手を優しく包み込みました。
「もちろんお前の望み通りにする。だから、そう強く掴みすぎるな。お前の指が傷つく」
「そんなにやわな指ではありませんけれど……」
報告書の続きでは、換金を終えたアデラが向かった先はメリダ教会の記録保管庫。洗礼記録などの出生に関わる公文書が保管されている場所です。
何を目的に向かったかなどは想像に難くありません。いつの時代もお金というものはいろんな場所を開くマスターキーですから。
「イシドロ、もう一つお願いが」
「言ってみろ」
「耳を貸してください」
流れ落ちてきた黒髪が私の頬をくすぐります。私はそんな彼の耳元で、とある計画を耳打ちしました。
少し遅れて、くつくつとイシドロの笑い声が聞こえてきました。あまりに近いので、少しくすぐったいです。
「いいだろう。それで、報酬は?」
「私の両脚……いいえ首から下へ、自由に触れる権利でいかがです?」
「ああ、いいだろう……あと少しだな」
「ええ、あと少し」
私が差し出せるものも、この計画も終わりも、あと少し。
イシドロが毎日香油と一緒に梳られて、すっかりさらさらになった私の髪に口づけるのが解りました。
「……楽しみだ」
その声の艶やかな低さが、私の背筋をまたぞくりと震わせました。けれど、決して嫌な感覚ではありませんでした。髪はまだ契約のうちに入っていませんでしたが、今回ばかりは見逃してあげましょう。
「さあ、実験の続きをさせてくださいな」
先ほどまでは夏季休暇の課題のための実験でしたけれど、今度は計画に合わせて、調合の配分を変えなくては。
「――――似合うな」
「そうかしら。欲目というものじゃありません?」
「否定はしない。が、真珠の白はお前の緑の瞳を際立たせる」
その晩、イシドロが早速買い戻してくれたネックレスとシュミーズだけを身に着けて、私はイシドロのベッドの上に座っていました。私の膝の上に頭を載せたイシドロは上機嫌そのものです。
「それで、今夜はどの詩集にしましょうか。坊ちゃま」
「眠るのが惜しい」
「またそんなことを仰って」
私はイシドロの長い前髪をそっと指先で払い除けました。目元の隈は完全にではないけれど、ずいぶん薄くなっています。いい傾向です。
正直なところ、この長い髪で隠してしまうのが惜しいほど、イシドロの容姿は優れていると思います。万人受けする王子様、とまでは言いませんが、しなやかな猛獣のような、秘めた獰猛さが感じられる鋭い目元を縁どる長い睫毛に、通った鼻梁、意志の強そうなくっきりした眉に、厚みのある赤い唇まで。
いつかこの素敵さを彼自身にも、そして周囲にも理解してほしいと思うのは、私のもつ欲目というものでしょうか。
まあ、後者については遠からずやって来る予定ですが。
私が首をかしげると、大粒小粒の真珠を連ねたネックレスがちゃり、と小さな音をたてます。
「本当にありがとうございます。イシドロ」
「……突然どうした」
「ここまでこれたのは、全部あなたのおかげですもの」
「……お前は独りでもやり遂げていただろう。俺がしたのは、それを少し早めることだけだ」
「それでも、こんなに円滑に進めたのはあなたの厚意のおかげです」
「ロサ、俺は――――」
ひたりと、私の指先がイシドロの唇に重なりました。
私たちは "友人" なのです。だから、その先を聞くことはできません。
いまは、まだ。
「あせらないで、イシドロ」
「……計画が終われば、契約も終わる。そうすればお前は俺のもとを離れていくんだろう」
「そんなことを心配していたの?……かわいい人」
ちゃり、と音が先行して、私は露になっているイシドロの額に唇を落としました。
祝福のキスは "友人" でも許されるでしょう?
「私は手に入れたものをそうたやすく手放す人間じゃありませんよ」
「……ロサ・カニーナに巻かれてたのは俺の方か?」
弾力のある、形の良い唇を親指で辿ると、戯れのように白い歯が私の指先を甘く噛みました。それを好きにさせながら、私は笑みを深めます。
「どうかしら。いまはただ、心配しなくても大丈夫、とだけ言っておきましょう――――さあ、今夜の詩集を選んで」
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