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雑草令嬢は野獣令息の腕のなか〜背徳契約から始まる復讐錬金術〜  作者: gen.


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01.千載一遇の好機 -ピンチ-




 ピンチです。いえ、チャンスです。千載一遇の好機(ピンチ)が回ってまいりました。

 私ロサ・デ・シルベストレ男爵令嬢、ついさきほど王立アカデミーの寮から夏季休暇でタウンハウスに帰省したのですが。


『お義姉様のお部屋はこれから私が使いますから、新しいお部屋にどうぞ?』

『ああ、そうそう。防犯用にしっかり鍵もかかる部屋よ、あなたにピッタリのね』


 継母アデラと義妹アデリナに家を乗っ取られてました。ついでに部屋も。

 そんな私はどこに追いやられたかといえば、厩舎(ミューズ)

 厩舎です。母屋ですらありません。不幸中の幸いはその二階建て厩舎内の一室――本来は御者が寝泊まりする部屋――が私の錬金系実験室として使われていたことでしょうか。なので最低限の寝起きして勉強するための環境は整ってました。いいか悪いかは別として。

 鍵というのは納屋の扉につけた錠前のことで、当然ながら私が内側から開けることは出来ません。

 ようするに、閉じ込められました。


 問題はそれだけではありません。我が男爵家は数年前まで跡取りとなる直系の男子がいなかったため、親族会議でもっとも私と年の近い又従兄弟のベニート子爵家次男、カミロが私の婚約者となり家を継ぐ、と決まっていたのですが、そのカミロがあっさり私からアデリナに鞍替えしやがりました。アデリナははっきり言って愛想のよい美少女です。生母アデラが美人なうえ、摩訶不思議なことにお父様にもよく似ているのです。血筋もどうせ問題ないんでしょうね。十三年前にお母様が亡くなられたのに十五歳のお父様似の義妹だなんてうふふファッキソとはこういうときに使うのでしょうか。


 まあそれはそれとして、私のあだ名は『雑草令嬢』。お判りでしょうが容姿については義妹の足元にも及びませんし及ぶつもりもございません。

 日に焼けて白茶けた癖の強い榛色のおさげ髪に、そばかすだらけの肌。ちんちくりんの体に素材採取のフィールドワークで負った手傷は数知れず。そんな私なりにもカミロとは幼なじみとして静かに親愛を育んでいたつもりでしたが、つもりだったのは私だけだったようでございます。アデリナに腕を取られてたわわな脂肪を押し付けられヤニ下がった面の幼なじみなどいまや錬成釜に頭からぶち込んでやりたいばかりです。


 こうなると私の嫁ぎ先はどこになるのかという話になってまいりますが、成績不振で容姿も並以下、ろくなところには嫁がせられまいと察した私の行動は早かったのですが、敵もさることながら父より年の離れた五度目の結婚をする資産家の伯爵家という逆によく見つけてきたなという物件もとい釣書を私の納屋のベッドの上に放ってきたのでございます。


『卒業パーティーにはご一緒していただけるそうよ、良かったわね』


 何一つよくありませんがとりあえず釣書は煮炊きにでも使わせてもらうことにして、高笑いと一緒に出ていったアデラの背中に心で中指を立てておきました。ファッキソ。

 卒業パーティーという単語でお察しの方もおられるかもしれませんが私今年が最終学年でございます。つまりこのガッデム婚姻達成まで待ったなしの状態です。

 ですが私もやられっぱなしではありません。そもそも今年五歳になる異母弟ルシオがいるのでカミロはアデラにとって保険のようなものでしょう。そんなルシオも出産するまでアデラと父は結婚していなかったので、本当に父の子か疑いの目がかけられているというのが現状です。


 すこしだけややこしいのですが、我がシルベストレ男爵家は私の生みのお母様であるリリアナ・デ・シルベストレが病床に伏したときその筆頭侍女としてつきっきりで献身的に看護していたのが現継母のアデラです。つきっきりだった結果がアレでアレなのですが。

 そして私のお母様が亡くなられた後も我が家に残り、ルシオを授かったので結婚してくれと父へ言い出したのを、私は条件付きで親族会議の際、賛成してさしあげたのです。結果がアレでソレでしたが。

 そうまでして迎えたアデラと父の蜜月は大した長さもなく、父もまた病に伏せるようになり、私はアカデミーで家の内情を知らされることもなく、今に至るという感じです。


 まあそんなことを思い出しつつ、私はさらさらとペンを滑らせます。便せんの数が足りなくなるかと思ったけれどノートを破けば大した問題ではありませんでした。

 本当によかった。帰省鞄一式ごと放り込まれたおかげで教本も材料も錬金器具も全部あります。

 私は『成績不振の落第生』ということで通っておりますが、そんな落第生に何ができるかこれからご覧にいれましょう。とりあえず窓を開け放っております。換気は重要です。防風林で見えにくいですが母屋の明かりも確認できます。そしてその窓辺には半乾きの綿布たちが。間に合いそうにないので風魔法を使ってくるくると部屋の中を旋回させ、乾燥続行です。便せんは丁寧に折って封筒に入れる分とそうでない分とわけて鞄の中へ。

 次に取り出したりますは手を保護するグローブに三角フラスコ、水銀、硝酸、消毒用アルコールに、マグマスライムの粘液。マグマスライムの粘液以外を適量適順フラスコで混ぜ合わせ、反応を起こさせ白く濁ったところでマグマスライムの粘液が入った試験管へ流し込んでいきます。あとはよく練ってピンク色の半透明のペースト状になれば完成。美味しそうですが口に入れた瞬間文字通り頬が落ちるどころか爆散するので要注意です。

 さて部屋中をひらひら舞っている綿布もそろそろいいでしょう。すべて回収して隔離袋に詰め込みます。

 準備万端。扉の隙間からは私の見張りを命じられたのだろう御者のいびきが聞こえています。仕事熱心で結構なことです。

 さて、納屋の窓から見える母屋の明かりも消えました。試験管の中身を蝶番へ重点的に塗りつつ、恐らくこの辺だろうな、という位置にもぺたぺたと。ちょっと楽しいです。準備完了。


 私は出来るだけ扉から離れた部屋の角、机とベッドを動かして作ったバリゲードの中に退避し、燭台の火を消しました。あ、釣書そのままでした。まあいいでしょう。ぴ、と立てた指先には小さな火の玉。火炎魔法の初級も初級、火球(ファイヤーボール)。が、三つ。

 ぴし、ぴし、ぴし、と指先で弾いた先にはピンクペーストたっぷりの蝶番たち。寸分たがわず飛んでいくのを見送るでもなく、私はひょいと鞄を頭に載せて身を伏せました。

 ぱっと周囲が明るくなり、爆音。あれは粘雷汞(ねんらいこう)という粘度を与えた爆薬です。吹っ飛んでくる木片などが落ち着いたところで埃の煙を手で払いつつ、扉だったものとその下敷きになってるぶよぶよしたものを踏み越えて私は下に向かいます。お仕事お疲れさまでした。


 ご覧いただきました通り、もうこの家への未練や情など芥子粒ほどもございません。ので、最後に盛大に爆破して自爆に見せかけてあげるのです。ガッデム婚約を苦にして自爆。なかなかスパイシーな退場劇ではありませんか。煉瓦と木組みの頑丈なつくりの厩舎とはいえ、この私にかかればあっという間に瓦礫の山です。よいせ、こらせ、と馬車を支柱の傍に移動させ、馬車の鉄製トランクを開けて、詰め込みますのは隔離袋に入れていた綿布こと綿火薬。硝酸と硫酸の混合液に漬けて洗って乾かしただけの、ただの布の顔した爆薬と、そこら中にある砕けた煉瓦とそうでない煉瓦で層を作ります。ぎっちぎちになったところで、例のピンクペーストこと粘雷汞をとろーりと垂らし、トランクの蓋を無理やり閉じます。ここのぎちぎち感が大事なのです。さて、あらためて粘雷汞のピンク色をミューズハウスと呼ばれる厩舎の外、裏通りの石畳まで垂らしました。メインの準備完了です。

 なんだか今更騒がしくなってきた母屋の方ですが、あちらにあるお母様の宝飾品やらなにやらは、唯一学内でもこっそり身に着けていたエメラルドのブローチ以外全部置いていきます。せいぜい紛失物の確認有無にも時間を使ってもらいましょう。


「さて、おさらばです」


 くるりと踵を返して、鞄の車輪をガタガタ言わせながら肩越しに放った火球(ファイヤーボール)


「さようなら、くそったれな皆さま」


 数秒後、大爆音かつ崩落音と共に真っ暗なミューズ通りがとっても明るくなって歩きやすいことこの上ありませんでした。うふふ。



 それにしても馬車を使わず徒歩で歩く、となるとやはりこたえるものです。いくらフィールドワークで鍛えているとはいえ基本は本の虫ですし、私。体力増強魔法がなかったら、こんなデコボコした石畳の入り組んだガッデムロード、途中で音を上げていたかもしれません。

 ガタゴトと音をたてる車輪付き鞄を引っ張りながらあちこち歩き通すこと二時間ほどでしょうか。

 ようやく用事が済んで、石畳が滑らかになって、塀から塀への間隔も長くなって。坂を上って上って上って。やっとのことでたどり着いたお屋敷の前。当然、門は閉ざされてます。

 そこからさらに塀を巡って巡って……このあたりかしら。鞄を足場に鉄格子を掴んできょろきょろやっていたら――――いました。いえ、ありました。かなり遠いけれど、お目当ての明かりが点いた窓が。

 鞄から取り出したノートを破って、ペンでさらさらと短いお手紙を認めて、三角形に折りまして、と。


「さ、おいきなさい」


 ひょい、と投げた三角の翼は鉄格子をすり抜けて、この時間でも明かりが点いている母屋、ではなく離れ屋敷の窓の方へ。無事着いたかは小さくなりすぎて判らなかったけど、しばらくしたら明かりが揺れて窓が開くのが解りました。

 そこからぬ、と出てきた手が紙片を開くのが見えて――――あら、まあ。

 窓が大きく開いたかと思うと、三階――三階ですよね?――からひょいと飛び出してきた巨躯が音も微かに着地して……あー消音魔法も使いましたね。アレ。それからまっすぐ私の方までズンズン歩いてきて。


「こんばんは、よい夜ですね。イシドロ」

「なにをやってる、ロサ……!」

「書いたとおり、家出です」


 いえ、実家の方では死んだと思われてるでしょうけれど。

 アカデミーでの数少ない友人の一人、侯爵令息イシドロ・デ・バルラガンが信じられないものを見る目で私を見下ろしておりました。彼ったらわたくしの頭三つ分は背が高いものだから、小声でおしゃべりするのも一苦労です。

 でもこの程度の苦労大したことありません。これからするお願い事に比べれば。


「とりあえず、泊めて下さる?」

「できるわけが」

「では野宿ですね」

「宿は」

「足がつきますもの」


 数度のやり取りで深いため息が聞こえたかと思うと、徐に飛び上がった彼が鉄格子の塀をあっさり乗り越えてきました。毎度のことながらどういう身体能力なのかしら。強化魔法も大して使ってないというし。


「荷物は。その鞄だけか」

「ええ」

「抱えてろ」


 ここは大人しく言われた通りにいたします。すると私のことを鞄ごとひょいと抱き上げたイシドロが、また地を蹴ってあっさり塀を飛び越えてしまいました。この塀、意味あるのかしら。イシドロが規格外なだけなのはわかってますけどね。

 そのまま着地したイシドロは、私を下ろさないままスタスタと離れ屋敷の方へと歩いていきます。


「歩けますけど」

「知ってる」


 でも下ろしたらどこに行くか知れたもんじゃないからな、ですって。失礼だこと。ちょっとお庭を拝見するぐらいいいじゃありませんか。ねえ?



「――――四十歳差の結婚……!?」

「あのまま家にいたら、そうなりましたね」

「カミロは」

アデリナ(義妹)で骨抜きになってました」


 イシドロはわけがあって、バルラガンハウスと呼ばれる大邸宅の中の、本来はゲストハウスらしい離れで独り暮らししています。おかげでこうして夜中に押しかけて長話しても、気兼ねしなくて済むから助かります。

 もっとも、年頃の未婚の令嬢が同じ立場の令息に夜間押しかけるなんてことは、知れたらお互い社会的におしまいですが。

 私たちはそういうことに疎いというか、あまり気にしない同士なんですよね。


「……お前は」


 ピシリ、と小さな音。

 私はイシドロの手元を見ながら、彼の淹れてくれた紅茶を呑んでました。

 彼のカップがいつ割れてもソーサーで受け止められるように、準備しながら。


「それでいいのか」

「まったくよくありません」


 情も未練もなくとも、奪われたものは奪い返さなければ気がすみません。端的に申し上げるなら、私の目的は復讐です。


「ですから、あなたのところに来たんじゃありませんか」


 イシドロのカップは、割れてしまう前にソーサーの上に戻されました。

 彼の鬱蒼と伸ばされた、黒く艶やかな髪の奥からぎらついた金色の目がこちらを見つめていました。私の大好きな、綺麗な満月色の瞳。カミロがいなければ、きっと思ったままに口にしていたでしょうね。

 ああ、もういいのかしら。口にしてしまっても。


「……俺に何をさせたい」

「とりあえずは、死人をかくまってほしいです」

「それぐらい容易い。それで、お前は俺に何を出す?」

「毎晩の朗読手(リーダー)というのはいかが?」


 私はにこりと微笑んでカップをソーサーに戻しました。

 長椅子一つを丸々使い切って座るイシドロに対して、私は対面の長椅子の真ん中にちょこんと腰を下ろしているだけ。はた目から見たらライオンにネズミが話しかけてるような有様だったんじゃないかしら。


「……悪くないな」


 イシドロが唇の端で笑いました。ええ、私、見た目はともかく声は悪くないと自負しております。イシドロが私の声を気に入っているのも、もちろん知っています。


「次は?」

「それは明日にしましょう、寝不足が顔に出てますよ」

「ベッドはお前が使え」

「却下します。あなた長椅子じゃ脚が余るでしょう」

「だが」

「あれだけ広いベッドなんですから、もう一人ぐらい使っても問題ないでしょう」

「……お前はずるい女だな」


 あら、なんのことかしら。


「明日は侍女をつける……とりあえずその見た目を、どうにかするぞ」

「あなたも相変わらず失礼ですね」


 のっそりと立ち上がったイシドロが、サイドテーブルのランプが点いたままのベッドに寝転がったので、私は鞄の中から教本の一冊を取り出しました。それを片手にベッドサイドの椅子を引っ張ってきて、建国史の詩の朗読を始めました。

 私の方を見つつ、その声に耳を傾けていたイシドロがうつらうつらと舟を漕ぎ始めて、やがて深い眠りに落ちるまで。


「おやすみなさい、イシドロ」







 私がイシドロと友人になったのは、その怪力と巨躯で知られる彼とのペアを組んだ課外授業が切っ掛けでした。

 ええ、何せ私成績は底辺も底辺、落第生と呼んで差し支えなかったものですから、成績()申し分ないイシドロとバランスを取るために組まされた、ということで、つまり彼にとってはいい迷惑だったのです。

 けれどその課外授業の課題がイシドロが苦手な繊細な生物採取だったのもあって、私が少し役に立ちました。

 それと彼自身の怪力を怖がらなかったのも、珍しかったのでしょうね。

 採取した生物のレポートが出来上がるころには、彼の方から話しかけてくるようになっていました。


『どうして、成績が悪いふりをする?』

『あなたはどうして、恐ろしいふりをなさるの?』


 質問に質問を返されるとは思ってなかったんでしょうね。あのときのイシドロの顔といったら。


『教えてくれたら、私も教えて差し上げますわ』


 交換条件というやつですね。採取した希少種のキノコが入ったテラリウムを挟んで、レポートを突き合わせているときに、そんなことを話しました。


『……俺は実際、恐ろしいだろう』

『どこがですの?』

『密猟者どもを……』

『あれはどう考えても十割向こうが悪いじゃありませんの、恐ろしいどころか頼もしかったですわ』


 生物採取の時に現れた密猟者どもに、イシドロが倒木をぶん投げてなぎ倒した時の爽快感といったら堪りませんでした。でもそんなことをいう令嬢も珍しかったのか、イシドロがまた言葉を詰まらせました。

 少し長い沈黙が落ちました。


『夜……』

『夜?』

『眠れない』

『……不眠症でしたの?』

『……わからない。それで日中に苛立つことが、多い。俺が苛立つと、怪我をする奴も増える』


 つまり、イシドロの人を寄せ付けない恐ろし気なふるまいは、人を余計に傷つけないための彼なりの処世術だったというわけですね。彼の前髪は長くて鬱蒼としていて、その目元をほとんど隠していましたから、今のように濃い隈があることも当時の私は知りませんでした。


『……言ったぞ』

『!……ああ、私のは……』

『ロサ!』


 けれど、私にはろくな説明も必要ありませんでした。理由が向こうから顔を出してきましたから。

 イシドロが一緒だと気づくと、思わず怯んだようですけれど、それも一瞬のことでした。


『レポートはできたか?』

『あと少しですわ』

『まだできてないのか!?急いでくれよ、写す時間だってかかるんだぞ』

『ごめんなさい。今日中に持っていきますから』

『とにかく早くしてくれよ、遅れて困るのはお前もなんだからな』


 言いたいだけ言って、あとはイシドロの視線に逃げるように立ち去っていった背中を、あの頃の私はただ見送っていました。


『いまのは』

『カミロ・ベニート。同じクラスでしてよ?』

『お前のなんなんだ』

『婚約者ですわ。彼が子爵でうちは男爵、父がなんとしてもこの縁談を成功させたがってますの』

『……だからレポートをくれてやってたと?』

『そうなりますわね』


 つまらない舞台裏でしたでしょう?それでもまだその頃の私は、カミロのことを未来の夫として憎からず想ってました。今となっては信じられないことですけれど。

 こうして私たちはお互いの秘密を共有することになりました。だからといってすぐに何かが起きたわけでもありません。ただ、授業でペアを組ませられることが増えた、といった変化はありましたけれど。

 それというのも、イシドロが自分のレポートを早く仕上げて私の分も作れるように計らってくれたおかげで、私の成績が少しだけ向上した、ということがありました。

 それを教師陣は評価したようでしたね。危険物と厄介物を一緒にしておけばいい、というような空気も感じましたけれど。


 そうこうしているうちに、私とイシドロは自然と一緒にいることが増えました。今思うとカミロを追い払ってたのかもしれない――おかげでアデリナの付け入る隙を与えたのかもしれない――ですけど。ともかく彼はごく自然に、私の隣にいるようになりました。

 そうして、何度目かのペアでの課題。詩の朗読の課題の時に、私は私の朗読でイシドロが寝入ってしまっていることに気づきました。最初は詩がつまらなすぎたのかと思ったのですけれど、あまりに気持ちよさそうに眠っているから起こしそびれてしまって。

 鐘の音で目覚めたイシドロ自身が、誰よりも驚いてました。


『……眠っていたのか?俺は』

『ええ、それはもう、すやすやと。首、痛めてませんか?』

『……痛くは、ない』

『それはよかったですね』


 その頃には私も侯爵令息様に向かって、随分気やすい口を聞くようになっていました。

 ちなみにイシドロの朗読はもともと声も通りも好いから、少し指導したらすぐよくなりました。

 けれど相変わらず私の朗読の時には舟を漕ぐものだから、私の朗読はそんなにつまらないかと心配になって聞いてみたんです。

 そうしたら、あのイシドロが。普段はむすっとしてぶっきらぼうなあのイシドロが頬を少し赤らめて!


『ちがう……心地よくて、眠くなる』


 なんて、言うものですから!私、とても驚いてしまって。

 でもその時のイシドロの照れくさそうな、それを隠そうとする表情がなんだかとても大切なものに思えて、静かに胸の内にしまっておきました。

 きっと誰にも見せたことがない表情だろうと思うと、尚更。

 けれど。

 けれど、私にはカミロがいたから。

 それを口に出してはいけないことだとは解っていました。







 ……夢見が最悪です。よりによってカミロに操立てしてた時の記憶だなんて錬成釜へあらゆる毒物と一緒にぶち込んでやりたい記憶ですのに。

 いえ、この憎しみを大事にせよという天啓かも知れません。そういうことにしておきましょう。いまはそれよりも。


「イシドロ、起きてくださいな」


 あのあと随分苦労して上掛けをかけてあげて、ついでに私も潜り込ませてもらったのですけれど、いつのまにやら私の腰の上には太くて重たい丸太、もといイシドロの腕が乗っかっておりました。端っこを選んで潜り込んだのに、いつのまに捕まえられていたのやら。

 ともかくこれは契約内容に入っておりません。


「抱き枕役は未契約ですよ、イシドロ?」


 長くて鬱陶しい前髪を分けてあげたら、とろりと眠気を残した金色の目がこちらを見上げておりました。長い睫毛も伴って普段は鋭い目元が、眠気であどけなく蕩けています。ぐっと甘やかしたくなるずるい顔ですが、契約は契約。


「さあ起きて。ここは寮じゃないんですよ」


 ぽんぽん、と私の腰を捉えているガウンごしの腕を叩いてあげたら、不満げなのっそりとした動きでイシドロが動き出しました。寝乱れたガウンからみえる上半身の逞しいことといったら、アカデミー内の美術ホールに飾られている石像のよう。

 あんまり見るのも失礼ですから、私もこのすきにシーツの海から脱出しましょう。髪を梳くぐらいはしておかないと。


「ロサ」

「はい?」

「洗顔のピッチャーはお前が使え」

「でもそれはイシドロの……」

「俺はシャワールームを使う」


 シャワールーム。なるほど侯爵家のお屋敷ともなるとそんな最先端の設備まで整ってるんですね。鞄を開ける私に背を向けて、イシドロはすたすたとシャワールームの方へ行ってしまいました。確か屋根の上にタンクがついていて、蛇口をひねると雨のような水が降り注ぐとか。でもいくら夏とはいえ朝から冷水を浴びて平気なのかしら。

 ……平気なんでしょうね。イシドロですもの。

 私はシャワールームの方から聞こえてくる水音に耳を傾けながら、繊細な彩色が施されたピッチャーから洗面器に水を注いで顔を洗い、髪をブラシで梳ります。癖だらけの髪をおさげにして、あとは昨日寝る前に脱ぎ捨てたワンピースを鞄に仕舞って、新しいものを着ればおしまい。我ながら簡素な身支度ですが、こんなものです。

 それより今日は忙しいのです。私は鞄から取り出した封筒を昨晩お話ししたときのテーブルの上に並べました。


「これは?」

「今日お願いしたいことです。これを速達で出して、それと朝刊と夕刊を読ませてください。ゴシップ誌もあればなおいいわ」


 シャワールームからすっきりした顔で出てきたイシドロの髪を拭いてあげながら、私はのんびりと答えます。長椅子に背中を預けたイシドロの頭が傾いたかと思うと、大きく仰け反ってきました。面白そうな表情を隠しもせずに。


「――――報酬は?」

「……私の右手に好きに触れる権利、でどうです?」


 くつくつと、イシドロが喉で笑いました。


「悪くない」


 そんなイシドロに、私も笑いました。そう、物事には順序というものがありますから。


 ところでろくに従者もつけず、イシドロが離れでどうやって生活しているのかと思っていましたら、寝室の扉がコンコンとノックされました。でも声かけなんかはありません。

 イシドロが立ち上がって寝室の扉を開くと、そこには銀のボウルが被さったワゴンたちが。なるほど、こうやって食事は運ばせているんですね。

 イシドロがワゴンを引き入れている間に、私は寝室のカーテンを開いて回りました。

 メインのカーテン自体も見事だけれど、随分変えていないのか少し日焼けがみられます。一方でレースのカーテンの繊細なことといったら、さすが侯爵家。

 外の様子はほとんど見られませんがこの模様の繊細さだけで十分な華があります。


「ロサ、朝食はどれぐらいがいい」

「え?ああ、私は…………」


 これは……朝食という概念に挑戦しているかのようなメニューです。

 振り返った先には、窓際のテーブルにつけられたワゴン。銀のカバーを外されたそこには山盛りになった分厚いステーキ肉の重なり。ゆで卵のスタンドが三つあるのは目の錯覚ではないですよね。なみなみのポタージュと、添えられているのは焼きたてのパン。豆のペーストに酢漬けの野菜(ピクルス)たちとサラダ。

 うーんイシドロの体がどうやって作られたのか何となくお察しできるような。


「卵とパンを一つずつとサラダとペーストを少しいただきます……」

「肉は」

「……じゃあ、その小さいものの半分だけ」


 それだけでいいのかという顔をされましても。


「カトラリーのスペアはないでしょう?」


 もっともらしい理屈で納得していただきました。お肉?パンに挟んでいただきます。

 パンも卵もちょっとお行儀が悪いですがかぶり付きで。ああ、ジューシィな肉汁と蕩ける脂、新鮮な野菜のハーモニーがたまりません。黄身もとろりと濃厚で、朝採れの卵の新鮮さがわかります。

 思えばアカデミーでの食堂でも、私は大抵一人でした。いくら仲良くなったからといって四六時中一緒ではイシドロの外聞にも悪かったですし、雑草令嬢と席を並べたい奇特な人もいませんでしたから。カミロ?たまには一緒にいてくれましたね。本当、たまには。

 それがいまや、こうして穏やかな日差しのなか、朝食を分け合って食べているなんて。


「――――この後、執事を呼んでお前のことを説明することにする。食事や衣類、部屋の準備などがあるからな」


 あっとうまに食事が終わって、ティーコゼーを外されたポットから注がれた紅茶を楽しんでる間にイシドロが切り出しました。ティーカップはイシドロがいくつ割ってもいいようにスペアがある、というのが何とも言い難いですが幸いでしたね。


「ええ、かまいません。ただ、私のことは街で拾ったものとでもしてください」

「……ロサ・デ・シルベストレ男爵令嬢は行方不明か」


 にこりと微笑んだ私に対し、イシドロも唇の片端を上げました。


「なんと呼ばせる?」

朗読手(リーダー)でよいでしょう。だって、あなたの専属ですもの」


 犬に犬、と名付けるようなものですが、名前なんてこの場では必要ありません。

 私がロサだと知っているのは、イシドロだけで充分なのです。


「その場合、離れ(ここ)からは出さないが?」

「十分です」


 カップを置いた私の右手を、イシドロが掬い取りました。


「あら、まだ手紙は出せていませんよ。イシドロ?」

「前払い分だ。いいだろう?」


 イシドロの太くて長い指が、私の小さな手指を恭しく絡めとって自身の左頬へと導きます。私はそこを指の背でゆっくりと撫ぜながら、思わず小さな笑みをこぼしていました。


「しようのない人」



 



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