第51話 訪問者と事故
コンコン
誰かが玄関の扉を叩く音が聞こえて、映真は早歩きで廊下を進んだ。
(誰だろう)
今は、土曜日の部活が終わった後の、午後2時半。来客の予定は無いはずだ。
私服に身を包む映真が、そっと開錠して扉を開けると……
「あ、宝生さんだ。入ってもいい?」
見慣れた柳井の顔が、目の前に現れた。
「柳井…くん? どうしてここに?」
柳井はこのアパートの住所を知ってはいるので、ここに彼が現れたこと自体は別に問題では無い。
ただ、部活が終わり帰宅して少し経ったこのタイミングで、何の前触れもなく柳井が訪問してきた事を、映真は疑問に思った。
困惑する彼女の質問に対し、柳井は自嘲気味に笑う。
「いやぁ、実はね。お恥ずかしい事に、課題で出てる数学の問題集の解答冊子を無くしちゃってさ。自己採点 出来なくて困ってたんだよ。
片鳥に頼めば解答冊子を貸してくれるかなって思って、出掛けるついでにここに立ち寄ったんだけど……
アイツは今どこに?」
そういうことか、と理解した映真は、振り返って、家の中の風呂場に繋がるドアを指差す。
「観己ならお風呂に入ってるよ」
すると、柳井は「へぇ」と声を漏らす。
「もう風呂に入ってんのか?」
「え? 柳生くんは部活後に入浴しないの?」
「しないよ」
「えっ」
「昼間に風呂に入ると、なんかボーッとするじゃん? 俺、あの感覚が気味悪くて苦手なんだよね〜。
それに俺、体洗わなくても別に気にならないタイプだし」
「いやそういう問題じゃなくて……。部活後の入浴は、疲労回復とか筋肉の緊張緩和とか、良い効果が望めるから大切なんだよ」
「そうなの?! そりゃ良いこと聞いた」
「……」
驚く柳井を目の前にして、映真は呆れた表情を浮かべる。
そんな映真の様子に気付くこともなく、柳井は「んじゃ失礼しまーす」と言いながら靴を脱いで玄関に上がった。
柳井が入れる範囲内で見られるとマズい物などは存在しないので、映真はそのまま「どうぞ」と言って玄関の扉を閉める。
その時、柳井は小さく鼻を動かした。
「ん、どっからか良い匂いが……。
そっか、宝生さんはもう風呂に入ったのか。宝生さんの髪の匂いだ、これ。
なんか良さそうなシャンプー使ってんだな〜」
「う、うん……」
引きつり笑いを浮かべる映真。
男子の時は大して意識していなかったが、女子目線だと柳井はそこそこ気持ち悪い時がある。デリカシーが無いというか、距離感がおかしいというか。
眉を顰める映真の横を、柳井は遠慮なく通り過ぎて行った。
ーーーーーーーーーー
「とりあえず、はい。これが解答冊子だよ」
ダイニングの椅子に座ってコップに入れた麦茶を飲む柳井に、映真は白い冊子を手渡した。
氏名欄には、雑だとも丁寧だとも言えない字で、『片鳥 観己』と書かれている。
柳井は麦茶を喉に流し込んだ後、戸惑うように声を上げる。
「もうこれ借りちゃっていいの? まだ片鳥に許可取ってもらってないだろ」
「別に、許可は必要無いから大丈夫。
私も観己も、既に数学の課題は終えてるし」
映真がそう答えると、柳井は「サンキュー」と言いながらその冊子を受け取った。
柳井は、表紙にある氏名を見ながら呟く。
「それにしても、いいな〜、宝生さんは」
「……なにが?」
「片鳥と2人暮らししてることだよ。
だって、勉強で分かんない所があっても、すぐに片鳥に教えてもらえるんだろ?
片鳥なら家事も料理もこなせるわけだし、頼りにできて羨ましいなぁ」
俺もここに住みてー、と頭を掻く柳井。
映真は、柳井の向かい側の椅子に座って苦笑いする。
「そんな、全部 観己に任せてばかりじゃ駄目じゃない? 自分が出来ることはやらないと」
「偉っ」
「別に偉くなんかないよ」
周囲の人から見れば、今の映真の環境は、『いきなり引っ越してきた転校生の女子』と『1人暮らしに慣れた男子』との2人暮らしだ。
映真が『世話される側』だと思われても当然である。
……まあ、それはあくまでも、映真が『分身』であるという事実を知らなければ、の話だが。
「……宝生さんって、片鳥みたいな超人の片鱗がたまに見えるよな。流石は親戚ってとこか」
半ば呆れたような表情を浮かべながら、柳井は呟いた。
その直後、彼は思い出したように表情を変えた。
「あ。そういや、片鳥といえばなんだけどさ。
なんか片鳥って、宝生さんが来てから少し印象変わってないか?」
「……え?」
柳井が予想外のことを言ったので、映真は思わず調子の外れた声を出した。
「『変わった』って、例えばどんな風に?」
「どんな風かと言われると……難しいんだよな……。
なんというか……あーっ、分からん。とにかく、片鳥の雰囲気がなーんか変わったんだよ」
もっとどうにか言語化出来ないのか、と映真は考えつつも、これ以上は突っ込まなかった。
観己の印象が変わったことなど、映真には身に覚えが無い。
分身として一緒に過ごす中でも、観己は観己のままである。
彼を最も理解しているのは、分身である映真。
だからこそ、柳井の発言の意味は理解できなかった。
「…………」
考え込む映真の顔を、柳井は不思議そうに見つめた。
が、すぐに、「お茶おかわり!」と言って、笑顔でコップを差し出した。
ーーーーーーーーーー
「はーっ、すっきりした」
タオルで頭を拭きながら、覇気の無い表情で俺は呟いた。
部活後の風呂は疲労が取れるが、なんとなく気力が無くなるのだ。
下着姿のまま髪をドライヤーで乾かした俺は、一息ついた後、洗濯機の上に用意していた部屋着を手で掴んだ。
「あっ」
握力が弱かったのか、部屋着が手から滑り落ちてしまい、俺は声を上げた。
屈んで拾い上げた部屋着は、洗面所の床が少し濡れていたのもあり、水を吸って湿ってしまっている。
「うわ最悪……乾かさないと……」
……とその時に、洗濯機の横に何かが落ちているのが、俺の目に映った。
「えっ」
そこに転がっていたのは、映真のスポーツブラ。
俺はそのまま、灰色のそれを拾い上げた。
ちらりと洗濯機の中身を覗いてみると、映真のブラだけが入っていない。
ということは、いま俺が摘んでいるのは恐らく、彼女が今日の部活時に着用していたものである。
「なんでこんな所に落ちて……」
そう呟きながら、俺がもう一度 彼女の下着に目を移すと、とあることに気が付いた。
ブラの背中側の生地の一部が破けている。
流石に大穴が空いているわけではないのだが、繊維が引き裂かれた傷があった。
(一体何があったんだこれは。とりあえず映真に聞くか。
……って、なんかリビングから声が聞こえるような……。電話? テレビの音声?)
そんな疑問を特に重く考えることも無く、俺は洗面所を出る。
俺は下着姿のまま、部屋着を抱え、映真の下着を右手の指に掛け、リビングに繋がるドアを開けた。
「映真。お前のこのスポブラの——」
「よお片鳥! おじゃましてま——」
その瞬間、リビングの時の流れは完全に止まった。
俺の目の前には何故か、笑顔で両手を上げている柳井 珀磨がいる。
映真はというと、ダイニングで椅子に座りながら俺の方を眺めている。
一方の俺は、半裸の状態で、映真の下着を右手に……
「うわぁあっ!」
「はぁぁっ!?」
「ギャァァ!」
ーーーーーーーーーー
「……2人に聞きたいことが山ほど浮かんできて困ってるんだが……」
眉をひそめる柳井は、腕を組んでソファの前に立つ。
そのソファには、新しく取り出した部屋着を身に付けた俺と、映真が並んで座っていた。
柳井は続ける。
「……とりあえず、2人は『クロ』ってことでいいか?」
「何が?!」
俺が慌てて聞き返すと、柳井はそれを抑え込むように、困惑の声を張り上げた。
「だっておかしいだろ?! 片鳥は、俺が家に来てるのを知らずに風呂から上がってきたんだよな?!」
「まあ……うん」
「いつもパンツ一丁で宝生さんの前に出て来てるのか?!」
「それは違う! いつもはちゃんと部屋着を着てリビングに入ってるから!
……ていうか、さっきも別にパンツ一丁じゃなかったし! シャツ着てたから!」
「でもお前さ……平気で宝生さんの下着触ってたじゃん。普通に考えて異常じゃね? お前ら高校生だよな? たかが いとこ の関係だよな?
ていうことはよ。もしかしてこの数週間の間で、お前ら2人の関係性は進展して……」
「変な憶測を立てるな! 誤解だから!」
「いやでもさぁ……」
いくら1つ屋根の下で暮らしているとはいえ、親族(という設定)であるとはいえ、俺と映真は思春期の男女。プライベートは極力守り合うのが普通である。
そのプライベートになんの躊躇もなく干渉できる関係性は、せいぜい親密な恋人といったところだ。
そう柳井に正論で指摘され、俺は目を泳がせる。
「いやぁ……俺たちってお互いに、下着を見られることくらい別に気にしてないというか……許容してるというか……」
「そんなことがあるのか……?」
と柳井は漏らした後、映真の方を見る。
「宝生さんも、言いたいことあったら胸のうちに秘めずにちゃんと片鳥に言えよ。部屋を借りてる側だからって、嫌なことを我慢しちゃダメだろ」
「え、えっと……柳井くんのお気遣いは嬉しいんだけど……私は本当に、その、気にしてないというか……」
「まじ……?」
「分かりやすくドン引きするな」
俺はそう言いつつも、表情を歪ませる柳井の気持ちも分かっていた。
お世辞にも聡明とはいえないあの柳井でさえも、ここまで俺たちの関係性に対して違和感を抱えているのだ。
彼が『分身』という真実の確信に迫ってしまうのも、時間の問題かもしれない……
「……ま、2人がそう言うなら、そういうことなんだろうなぁ。『2人暮らし』って、俺の想像してるものとはだいぶ違うのか。おもしろっ」
……ということはなく、柳井はすぐに疑念を消し去って納得してくれたのか、笑って麦茶を飲んだ。
俺は、無言で映真と顔を見合わせる。
((……そうだった、柳井はこういうヤツだった……))
ここに来たのが柳井だったというのは、不幸中の幸いというやつなのかもしれない。
さっきまでの緊張感が嘘のように、空気が一気に緩んだ。
とりあえず俺は、柳井に釘を刺す。
「柳井。分かってると思うけど、今日お前が見たものは絶対に他人に漏らすなよ。純にも漏らすなよ」
「もちろん。流石に俺にもそれくらいの常識あるし。ま、特に見返りを求めるつもりも無いから、安心しろ」
「見返り求められる可能性あったのか?」
「無償の気遣いができる俺って、優しい〜!」
なんか1人で自分に酔っている柳井を尻目に、俺は映真に囁きかける。
「……ちなみに、お前のあのスポブラは一体何があったんだ?」
「あー……。実は、脱ぎ方を間違えたせいで、指で生地を破いちゃってさ。
一旦それを洗濯機の上に置いてたんだけど、何かの拍子に落ちちゃったみたい。ほんとごめん」
「そ、そっか……」
はぁ、と俺は小さくため息をついた。




