第44話 小さな認識の相違
「ただいま」
日が傾き、空が茜色に染まり始めた時間帯。
俺が帰宅して玄関に入ると、正前からトットッと足音が聞こえてきた。
「おかえり」
廊下を歩いて来たのは、エプロン姿の映真。
今日は、彼女に夕食を作ってもらっていたのだ。
(なんか新婚夫婦 感あるな)と俺が言葉に出すか迷っていると、映真が先に口を開いた。
「とりあえず、炊き込みご飯はもう炊き始めたよ。あとは、弁当に入れられる天ぷらやカレー用の材料も準備してある」
「サンキュー。助かる」
「んで、観己の方はちゃんと買えた?」
「もちろん」
そう答えて俺が突き出したのは、『sweetwins』というスイーツ店の店名が印字されたビニール袋。
俺が夕方遅くになって帰宅したのは、この袋の中身を買いに行っていたからだった。
袋の中から、俺はそのブツを取り出す。
「はい。これがかの有名な……『ホールアップルパイ』!」
「うおー!……って、ケーキ箱のせいでまだ中身見えないじゃん」
「まあまあ、そう早まるなって」
俺は映真を宥めながら、靴を片付け、ひとまず手を洗う。
ダイニングテーブルまで移動した後、その机上に白いケーキ箱を置き、そしてゆっくりと開いた。
「良い匂い……!」「美味しそー!」
箱の中から現れたのは、直径15cmほどの、網目模様のアップルパイ。
エアコンの効いた涼しい部屋の中で、ホワホワと柔らかい湯気が立ち上っている。
俺と映真は、口角を上げて目を輝かせた。
「これを2人だけで食えるとか最高か……!」
「予約しといて良かったよ!」
普段 俺が愛食しているのは、ホールサイズを4分の1にカットしてあるミニアップルパイ。
完成度が高く、この上ない贅沢品だ。
しかし、唯一の不満点があった。
それは、『焼き立て』を食べられないということ。
最も美味しい『焼き立て』を食べるには事前に予約をする必要があるのだが、予約を出来るのはホールサイズのみという制限がある。
1人暮らしをしていた夏休み以前の俺では、ホールサイズとなると流石に大き過ぎて、美味しく食べ切ることはできなかった。
そのため、どうしても焼き立てを手に入れられなかったのだ。
しかし、映真が居るとなると話は別。
2人でならホールサイズも食べられる。このメリットを活用しないわけにはいかない。
「よし、とりあえず食べよう!」
映真は手際よく小皿とフォークを取り出し、パイを半分に切り分ける。
そして俺たちは席に座って、「いただきます!」と手を合わせた。
一口かじってみれば、パイとリンゴとシナモンの調和が俺の口内を満たす。
「ん〜、至福!」
「毎日食べたいくらいだな」
「破産するって」
「まあ、両親からの仕送りを増やしてもらえれば余裕で……」
「おい」
「冗談だってば」
そう笑う映真の後ろ、窓の向こう側からは、ツクツクボウシとヒグラシの鳴き声が小さく聞こえてくる。
夏が終わり、少しずつだが日も短くなってきた。
夕焼けの風景も相まって、なんともしんみりとした雰囲気になるものだ。
その時、ふと俺は、昼休みの玲華の言葉を思い返した。
——『1人で抱え込まない方法を——』
俺はフォークを握る手を止め、映真の目を見る。
「あ、あのさぁ、映真……」
「ん? どうした?」
「その…………」
一瞬、俺は喉に何かが詰まったような感覚がした。
自分は何を言いたかったのだろう。何を言うべきなのだろう。
途端に、漠然として分からなくなる。
「……今日の体育祭運営委員会、どうだった?」
俺は、咄嗟に話題を変えた。
映真はどこか違和感を覚えたような表情をしたが、すぐに答える。
「委員会? まあ、基本の流れは想像通りだったよ。木星 会長から、体育祭当日までのおおまかな予定を教えてもらったくらい。
委員としては、明日の朝に縦割り種目のアンケートをクラスに配布して、それ以降も頻繁に仕事が続く感じかな」
「なかなか大変そうだな」
「大変ではあるかもしれないけど、問題は無いよ。だって、俺は観己の分身。観己が求めるような仕事は、俺1人でも必ずこなせるから。
だから、観己は学級委員の仕事に集中しなよ」
カラコンを外した映真の翠緑の瞳が、キラリと光る。
その目はまるで『心配されるようなことは何も無い』と訴えかけてくるようだった。
俺は息を呑む。
「……言われなくても分かってるよ、映真。
ただ、自分が女子である自覚はしっかり待てよ」
「と言うと?」
「テンションが上がり過ぎて暴走したりするなよ、ってこと。無意識のうちに、周囲との距離感をミスったりしたら、困るのは映真だろうし」
「いやいや、それくらいはもう調整できるわ……」
軽口を叩くのも良い加減にしような、と呟く映真は、残り少なくなったパイを物惜しげに口に運んだ。
ーーーーーーーーーー
「ふぅ……」
夜8時を回って風呂に入った映真は、バスチェアに座って髪を洗い流していた。
1ヶ月前よりも確実に髪は伸びており、今は肩甲骨の下辺りまでの長さがある。
顔を上げれば、そこには鏡に映る映真の体。
この体は、妙に視線を吸引する力がある。
鏡が曇っていてよく見えないのが、映真にとっては救いだった。
(さっき、パイを食べていた時の観己……何か別のことを言おうとしてたような気もしたけど、よく分からなかったな。
もしかして、学校で何かあったとか?
……そういえば、今日の昼休み、観己は生徒会室に行ってたっけ)
映真は泡立てネットで体を洗いながら、そのことを思い出した。
体育祭運営委員会を終えた映真が1年2組教室に戻った時、観己は不在だった。
本人に聞くまでもない。こういう時、観己は生徒会の手伝いをしている。
『生徒会長になる』というかねてからの夢の為だ。
(だけど……それは『観己』の夢。観己が居る以上、俺はどうしても生徒会長にはなれない。それは当然のことで、覆らない事実だ。それは、観己も理解しているはず。
観己が学級委員としての仕事に励むなら、俺は俺なりに、体育祭運営委員として尽力をしないといけないな……)
その時、映真の手がピタリと動きを止めた。
(……『尽力』?
……なんの為に?
俺はもう夢を叶えることはできないのに、俺が尽力する理由は何? そもそも、俺の今の夢は何?
それに、俺は観己の分身。じゃあ、『俺なりに』ってなんだろうか? 俺が出来ることは観己にも出来る。むしろ俺には、女体化のせいで出来なくなったこともある。観己が居るなら、俺の存在意義は何?
俺はどうすれば良い?
俺は……弱い人間なのか?
……落ち着け。夜だから、ネガティブな思考回路になってるだけだ。毒されちゃいけない。
それに、そういう虚無感や躊躇を無くす為に、俺は委員になったんだろ)
少なくとも、観己の前ではしっかりしないと。
そう胸に刻んだ映真は、一度 自分の頬を軽く手で叩き、シャワーを手に取った。
映真と観己との間に、かすかな認識の齟齬が生まれ始めた瞬間だった。




