第39話 観己への、映真への向き合い方/1人の少女
午後の2時。
ユニフォーム姿に着替えた俺は、水筒やタオルといった必要な荷物だけをまとめ、選手の集まる招集所へと向かった。
観客が集うスタンドには、俺の姉妹や玲華といった陸上部員の家族が揃っていたのもあり、かなり騒がしかったな。
「片鳥くん、期待していますよ。健闘を祈ります」
途中で擦れ違った小枝の励ましにも、俺は「頑張ってくる」と返し、歩みを進める。
選手の招集所に到着すると、そこに純と柳井と映真が駆けつけて来た。
「やりきって来いよ、観己」
「800mでボロ負けした俺の無念を晴らしてくれぇ!」
そう言って俺の背中をボンと叩く柳井の横で、映真は何も言わずに微笑む。
「……」
その表情の中に少しの切なさを感じ、俺の目が少し揺らいだ。
(そうか……)
もしあの夜、俺が宝石を拾っていなければ、映真が生まれることはなかった。それが大きな分岐点だった。
映真は女子になってしまったばっかりに、『観己』としてのアイデンティティを始めとした様々なことを失った。
だから、映真は少なからずこう思っているだろう。
『もし映真にならなければ、もし観己のままだったなら、今からの男子5000mにも出場できたはずなのに』
そして俺はいまだに、映真と心から対等に接することができていないのかもしれない。
俺だけが『観己』としてあり続けることに、俺はずっと申し訳なさを感じているのだと思う。
でも映真ならきっと、『そんなこといちいち気にするなよ』と言ってくれる。
それでも俺が後悔や罪悪感といった感情を抱いてしまうのは、恐らく映真 以上に、『分身が生まれた』という事実を俺が飲み込めていないからなのかもしれない。
俺は今、ようやくそのことを実感した。
「行ってくる」
一言そう告げて、俺はスタート地点に移動した。
ーーーーーーーーーー
この大会は『予選』だ。
この大会で上位の結果を出せば、それは都大会への切符となる。
そしてそれを掴むことが、出場する選手の大きな目標の1つなのだ。
俺が男子5000mで目指すべきは、8位以内。
全30人以上が一斉に走る群衆の中で、8位以内。タイムは関係ない。
二年生と一緒に走るため、経験値から考えれば俺たち一年生の勝ち目は低くなるが、それでも上位に食い込める可能性は充分にある。
何より、今年はエントリー人数自体が例年より少ない。
このチャンスを逃すわけにはいかないのだ。
俺はユニフォーム姿に着替えて、スタートラインに並び、息を整える。
元々あまり緊張しない性格なので、そこは問題ない。
一瞬だけ、競技場が静まり返って、
そして……
パン!
合図と共に、俺は思い切り飛び出した。
5000m走では、この400mトラックを12周半走る。
……そう、とにかく長い。
その距離を速いペースで走り続けるのだから、極端に言えば、頭がおかしいんじゃないかと思う人も居るだろう。
俺だってそう思っている。
でも不思議なもので、練習と本番を繰り返せば慣れてきて、意外と楽しかったりするのだ。
ただ、今回ばかりは楽しいとはいかない。
(ぐっ……やっぱりキツいな……)
夏休みでの練習量が少なかったからか、いつもよりも早い段階で俺は疲労感を感じ始めた。
下半身に鉛が纏わり付いてくるかのような、嫌な感覚。
まだ3周も走り終わっていないというのに。
(でも……ここでペースを落とすわけにはいかない。落としたらダメだ。
『俺の練習不足は映真のせい』だなんて誰にも思わせない。
それに、競技に出られない映真のためにも、俺が全力を出さない……と……)
……くそ。
やっぱり駄目だ。
足に力が入らない。
体がふらつく。
息もだいぶ荒れてきた。
肺と心臓が辛い。
周りもどんどん見えなくなる。
(俺は観己……! これくらい……乗り越えられるはず……だから……)
……長い。
長い。
序盤は5位ほどだった順位も、段々と下がっていく。
もう何位か分からない。
2桁順位かもしれない。
……残るはもうあと2周だ。……いや、まだ2周も残っている。
苦しい……
「観己!」
俺が観客席前を通りかかった所で、一際大きな声が、ぼんやりと、でもしっかりと聞こえてきた。
高く透き通った、美しい声……
(映真……?)
「観己! 負けるな! 絶対に、自分に負けるなよ!」
悲鳴のような、絶叫のような、叱咤のような、そんな声援が俺の耳に響く。
その瞬間、俺の足がほんの少しだけ、軽くなったような気がした。
思わず、俺の口元が緩む。
(……そうだよ……そうだよな。
『映真のため』とか、そんな考えは傲慢だったよ。
映真は強い。それは俺が一番よく知ってる。俺が映真に申し訳なさを感じる必要は無い。
結局、俺がやることは『自分の期待に応える』、それだけだ。
分身の映真が『己に負けるな』って言ってるんだ。応えないと……!)
ふらついていた顔に力が入る。
しっかりと前が見える。
ラスト1周を告げる鐘が鳴り、俺は一段、もう一段と速度を上げた。
そして、もうどのくらい走ったのかも分からないまま、歓声に包まれて、俺はゴールラインを踏み締めた……。
ーーーーーーーーーー
「ハァ、ハァ、ハァ……」
しばらくの間、俺はゴール付近の日陰に座り込んでいた。
他の選手達が続々と帰っていく所を見て、俺もゆっくりと立ち上がる。
そして、ふらふらとした足取りで荷物を回収し、競技場の外に出た。
……と、こちらに向かって来る足音が聞こえた。
「観己! お疲れ!」
顔を上げれば、そこには満面の笑みの映真。
「あ……映真……」
「7位だったじゃん! しかも自己ベスト大幅更新!
おめでとう!」
「……ありがとう。映真の声援のお陰で、なんとかやりきったよ。本当にありがとう」
映真につられて俺が笑顔を見せると、彼女は少し気恥ずかしそうに頬を掻く。
「その……な、なんだろうな……。観己自身にお礼を言われるのって、なんか面映ゆいというか、照れくさいというか……」
「おいおい勘弁してくれ」
俺は苦笑を浮かべながら、鏡高校の陸上部員たちが居る観客席の方へ戻って行った。
その俺をじっと見つめている、1人の少女が居ることには全く気付かずに。
ーーーーーーーーーー
男子5000mが終了してから、20分ほど経っただろうか。
競技場の本部内にある掲示板。そこに貼り出された各選手の公式記録を確認しようと、人集りが出来ていた。
そしてその中に佇んでいたのは、1人の、高校生くらいの少女。
フリルの付いたその白いワンピースは、私服として着るにはなかなかハードルが高いように見える。
しかし、その服を違和感無く着こなせるほどに、彼女のスタイルと顔立ちは整っていた。
彼女は貼り出された記録の1つ、『片鳥 観己』の欄を確認すると、満足そうに笑みを浮かべ、そして踵を返した。
その時、とある人物が彼女に声を掛けた。
「やっぱり居たんだね。ミラ」
その声に覚えがあったのか、『ミラ』と呼ばれた彼女は、目を見張ってゆっくりと振り返る。
そこには……町嶋 純が立っていた。
「純……くん……?」
ミラが呆然と立ち尽くしていると、純は壁にもたれながら話し始める。
「観己はいつも通り、スタンドの一席で休んでる。だから今なら、観己に鉢合わせることなく、彼の記録を確認できる。
ミラは、このタイミングを狙ってたってことかな」
まるでこの場の時間だけが遅く流れているかのように、純の言葉の後に間が空く。
ミラは未だに、呆気にとられたような表情をしている。
「……じゃあ、どうして純くんだけここに居るの? いつもは観己と一緒に居るはずなのに……。
もしかして、わたしが観戦に来るってこと……純くんは知ってたの?」
ミラが恐る恐る問いかけると、純は首を横に振った。
「いや、知らなかったよ。でも、予測はしてた。
そしたら、観己が競技に向かった直後に、たまたま遠目でミラの姿を見たんだよ。だから俺は、久々にミラと話す為にここに来た。
安心して。観己は、ミラが居たことに気付いてないみたいだから。
……だけどミラ。せっかく応援に来たのに、観己には会わなくて良いの?」
目線を逸らす彼女。
純は少し間を置いた後、彼女の顔をじっと見た。
「……ねえ、教えてほしい。
あの時、観己との間で何があったのか」
彼の口調は決して強くなく、優しくも少し悲しさを含んだ声色だった。
ミラは一切動かず、その場で口だけを開く。
「……何も起きてない。……いや、違う。わたしは観己に何も出来なかった。
だから、今さら観己に会う権利はわたしには無い。会いたくない」
「……それでも、ミラはこうやって応援に来てる。それは本当に、ミラの本心なの?」
するとピクッと動いたミラの体を見て、純はすぐに訂正を入れる。
「ごめん、今のはただの独り言」
「……じゃあね」
ミラは表情を変えないまま体を後ろに向け、その場を去ろうとする。
その前に、純が一言付け加えた。
「もし、ミラが本当に観己に会いたくないなら、宝生さんにも会わない方が良いと思うよ。ミラはまだ偶然 、彼女とは顔を合わせてないみたいだけど」
「宝生……さん……?」
「緑髪の子」
「あぁ、あの可愛い人……?」
「彼女は、最近 鏡高校に転校してきた観己のいとこだよ。
あの2人は確かに仲が良いけど、まあ、家族とか きょうだい みたいな距離感だね」
「……ありがとう」
そう残して、今度こそミラは去って行った。
去る直前のミラの表情に安堵の色を感じた純は、「顔に出てるよ」とボソッと呟き、スタンドに居る観己の元へと戻ったのだった。




