第33話 映真とトイレの危機
(急げ急げ……!)
3時間目の授業が終わるや否や、映真は目立たないようにしつつも慌てて教室を飛び出した。
窓を打ち付ける雨粒には目もくれず、まだ人が少ない廊下を駆け足で進んでいく。
(……漏れそう!)
そう。映真はトイレを目指していた。
雨で濡れた鞄をタオルで拭いたり、荷物を運ぶクラスメイトを手伝ったり……
という感じで、朝から3限目までトイレのタイミングを逃してしまった結果、今になってとてつもない尿意が映真を襲ったのだ。
彼女の脳裏に、水月大学の本庄 教授との会話がまるで走馬灯のように浮かんでくる。
———『映真ちゃんの膀胱の大きさなんだけど、検査の結果、観己くんとはそんなに変わらないことが分かったよ』
———『そうなんですか? なら、トイレに困る事もあまり無いということで……』
———『いや、それがそうとも言い切れないのよね〜。女子の尿道は男子よりもかなり短いから、ふとした時にピークが来て、物理的な圧迫だけで漏れちゃったりすることも……』
———『ひいぃ……!』
———『だから、尿意のサインには十分気を付けることね!』
———『は、はい……』
(マジで男子の時に比べて尿意が……キツい……!)
百歩譲って家の中ならまだしも、学校でやらかしてしまったら人生が終了してしまう。
最悪の事態を回避したい映真は、ダムの決壊を迎える前になんとか男子トイレに辿り着いた。
一番手前の個室に入り、施錠して便座に座り、一息ついて……
(…………ん?……男子トイレ?!
間違えた!)
自分の過失に気付く頃には、時すでに遅し。
何人かの男子がトイレに入って来ては、小便器の前で会話する声が扉越しに聞こえてくる。
15年間の歳月で身に染み付いていた男子の習慣が、焦る映真を男子トイレに導いてしまったのだ。
映真は、用を足すのも忘れて取り乱し始める。
(ヤバいヤバい……もう個室の外に脱出できるタイミングが無い……!
もしかして俺、閉じ込められた……?)
もし今 映真が堂々と個室から出て、すぐ外に居る男子に遭遇してしまえば、大騒ぎになってしまうであろうことは想像に難くない。
小学校低学年くらいまでなら「間違えちゃった〜」で済むかもしれないが、映真は女子高生。いくら漏れそうで慌てていたからとはいえ、言い訳は出来ない。
男子に都合の良い妄想をされ、周囲から変質者扱いされ、最悪の場合 映真の正体が疑われるのでは、という真っ暗な未来が浮かんでは、映真の額を冷や汗が伝った。
(休憩時間が終わるまでは身動きとれないし……かといって4限目のチャイムが鳴るまで待ってたら、授業に確定で遅れちゃうし……)
全力で思考を巡らせる映真はとりあえず息を潜めてみるものの、個室の外に出られるタイミングなど一向にやってこない。
トイレから数人が去ればまた数人が入ってくる、というのが音で分かる。
(早く逃げたい……! でも、もし見つかったら……!)
化け物から隠れるホラゲーの主人公ってこんな気持ちなのかな……と考えながら、映真は恐怖と焦燥で跳ねる心臓に手を当てた。
と……
映真の目の前に突然、1匹のクモが降臨した。
「ひっ!」
「あれ、今なんか女子の声みたいなの聞こえなかったか?」「気のせいだろ。次の授業は移動教室なんだからさっさと行くぞ」「へーい」
「…………!」
思わず漏れた叫び声を抑えるように、映真は咄嗟に口を両手で塞ぎながら、視界に映るクモに焦点を合わせる。
(なな、な、なんでクモ?! クモなんて居るの? トイレってクモ居んの?!
うっわ……キモっ! キモい! こっち来んな! 来んなって!)
……周囲には隠しているのだが、実は観己もとい映真は虫が大の苦手だった。
小学3年生の頃、頭に乗った巨大な蜂を気付かず手で叩き飛ばしてしまった事件がトラウマになり以来、観己はどんな虫も受け付けなくなったのだ。
目の前のクモは僅か1cm程度の大きさではあるが、映真をパニックに陥れるには十分な存在感だった。
映真の必死の念も虚しく、クモは段々と高度を下げて彼女の足元に接近して来る。
(おい、俺の神聖な太ももに降り立とうとするな! このクモ! 潰す! 絶対潰す! 永遠の眠りにつかせてやる!)
映真は震える手でトイレットペーパーを30cmほどガッと巻き取ると、クモの下にそれを構え、包み込むようにして一気に握り潰した。
そしてクモ入りペーパーの塊を速やかに便器に投げ入れて流したところで、映真は一息ついて蹲った。
(もう散々だ……早くここから出してくれ……)
ーーーーーーーーーー
「……あれ? ねえ柳井。映真がどこに行ったか知ってる?」
「いや。俺は知らないよ」
「そっか……」
3限目が終わってから気付けば映真の姿が教室から消えており、俺は困惑していた。
俺は近くに居た柳井に聞いてみたものの、映真の行方の手掛かりはない。
もしかしたらトイレに行ったのかも、などと思いながら用を足すため男子トイレへ入ると、そこで俺は純と居合わせた。
「ねえ純。映真のこと見てない?」
「宝生さん? 俺は見てないけど……」
「やっぱりそうか。アイツどこに行ったんだろ……」
やはり一切の情報を得られず、俺がそう呟いたその時……
フ……フ…ス…フ……フ……
(……え?)
どこか覚えのある音が聞こえて、俺の動きがピタリと止まった。
(い、今のは……)
ト…フ……フ…フ……フ……
「ん? なんか変な音しない? 吐息みたいな……」
純もその音に気付いたのか、キョロキョロと辺りを見回し始める。
……が、俺は即座に誤魔化しに動いた。
「吐息? あー、あれかも。誰かが腹痛で苦しんでるだけだよ、きっと」
「確かにその可能性は高いけど……」
「純は先に教室戻ってなよ。俺、やっぱり大の方に行くから」
「……分かった。先戻っとくね」
空いている個室を指差す俺の様子を少し訝しがりながらも、いつもの微笑みで男子トイレを後にする純。
空気を読み過ぎてて恐ろしいレベルの彼に感謝しながら、俺は男子トイレから一時的に人が消えたタイミングを確認し、唯一閉まっている個室の扉をノックした。
「ここですかー? さっき『え』『ま』ってメッセージを伝えてきた人は」
さっきの息の音は恐らく……というか絶対に、俺の黒歴史言語だった。
純も知らないその暗号を使えるのは、この学校ならたった1人しかいない。
俺が声を掛けてから少し間を置いて、高く透き通った、おおよそ男性のものではない微かな美声が聞こえてきた。
「う……うん。気付いてくれて助かったよ……」
「やっぱり映真か。なんで今さらトイレを間違えたんだよ」
「それは……ちょっと漏れそうで、周り見ずに慌てて……って言わせないでよ! 恥ずかしいから!」
「ごめんごめん。……で、俺は映真が脱出するのを手伝えば良いと?」
「そういうこと。ほんと頼む」
「分かった。俺が合図を出したら、映真は俺を陰にしながら出て来いよ」
「了解」
そして俺は男子トイレの扉を開け、廊下をさっと見渡した。
(よし、運がいい! 今ならちょうど人が居ない!)
純がトイレから去って以降、男子トイレでの生徒の行き来はゼロ。
神様も、流石に映真のことを不憫に思って味方してくれたのだろう。
俺はすぐに、映真が居る個室の方を振り返った。
「よし映真、今がチャン……」
「ん? 観己、お前 誰と話してんだ?」
「っ!」
まるで瞬間移動して来たかのように突如トイレの入り口に現れた……柳井の声に、俺の肩がビクッと跳ねる。
映真が慌てて施錠し直した個室を尻目に、俺は出来るだけ平静を保って柳井の方を向く。
「あっ、ただの独り言だよ……」
「なんだ、そういうことか。でも、独り言なら人に聞かれないように気を付けろよ。個室に人居るっぽいし」
それだけ言って、柳井は洗面台の鏡の前で自分の髪をいじり始めた。
俺の独り言(大嘘)に対しては特にそれ以上の追及は無い。柳井の勘が鈍くて助かった……
(……助かってないわ! お前早くこっから出て行けよ!)
用を足すならともかく、このタイミングで洗面台前に居座る柳井は はっきり言ってめちゃくちゃ邪魔だ。間が悪すぎる。
映真の個室からも、「はぁ……」という明らかな溜め息が聞こえてきた。
映真がストレスで禿げたりしてないだろうか。緑色の抜け毛がトイレに大量に落ちてたら問題になるぞ、絶対。
(最悪だ……あと少しで映真が脱出できそうだったのに……)
「あれ? 観己はずっとそこで何してんの?」
「あ……ト、トイレに行こうかどうか迷ってて……」
「なら絶対に行っといた方がいいぞ。授業中に尿意が来たら洒落にならないからなぁ」
「そ、そうだね……(柳井、お前は何も悪くない。でも俺はお前を恨むからな)」
柳井のお言葉に従い一旦俺が個室に入ると、柳井のやたらと鼻につく鼻歌が聞こえてくる。
(出て行け出て行け)という願いも叶わず数十秒が経ち、とうとう別の男子がトイレ内に入って来てしまった。
隣の個室に居る映真とは壁で隔たれているが、俺は顔を見合わせた実感がある。
結局その後、最終手段として、俺は先生に「宝生さんは腹痛で授業に遅れるそうです」という言い訳を伝えた。そしてようやく、映真は始業後に男子トイレを脱出して危機を乗り越えたのだった。




