60. 決別
(……! レオン様……!)
振り返った両親の間から見えたのは、こちらへ向かって颯爽と歩いてくるレオン様の姿だった。その背後には、彼に小走りについてくる侍女の姿もある。
彼を認めた途端、思わず大きな息が漏れた。絶対的な安心感が、私の心を包む。
レオン様の厳しい表情を見た父と母は、びくりと硬直した。父が引きつった笑みを浮かべ、慇懃に挨拶をする。
「こ、これはこれは、リングレン辺境伯閣下。先ほどは娘のマチルダが大変失礼をいたしました。いえ、その、帰り際にリエラ夫人の姿を見かけましたもので、少々ご挨拶を……」
「リエラ、彼らから何をされた? 何か言われたのか」
レオン様は父のしどろもどろな言い訳を無視し、私のそばへとやって来て肩を抱くと、顔を覗き込んでくる。
その奥で、父の血走った目がこちらを見ていることに気付いた。何だか必死で目配せしてくる。
余計なことは言うな、とでも言いたいのだろうか。
逡巡することなく、私は夫への誠意を見せ、素直に答えた。
「父から、ローゼン男爵領の事業が思わしくないので、レオン様には事情を伏せて一度ローゼンへ戻ってこいと言われました。ローゼンの事業を立て直してから、またリングレンへ戻れと。もちろんお断りしましたが」
「リエラ!!」
絶叫とも言える父の声が、王宮の回廊に響き渡った。
「……ほぉ」
レオン様が、その美しい瞳に凍てつくような冷たさを纏い、ゆっくりと振り返る。
見定められた父と、そのそばにいる母は、同時に顔を強張らせた。
レオン様は、いつも私に話しかける時とは全く違う、尖った声を発した。
「ローゼン男爵。ご承知の通り、リエラはすでにローゼン男爵家の人間ではない。この私の妻、リングレン辺境伯夫人だ。にもかかわらず、私の許可もなく領地へ呼び戻し、自領の事業に従事させようとしたのか」
「か、閣下……! 誤解がございます! 決して、その……」
額に汗を浮かべる父の口を、レオン様の言葉が塞ぐ。
「貴殿の行いは、我がリングレン辺境伯家を軽んじた行為に他ならない。重大な侮辱だ」
「か、閣下……!! わ、我々にはそのようなつもりは微塵も……!!」
「滅相もございませんわ、辺境伯閣下……!! 私たちには決してそのような意図はございません! ただ、薬草の扱いに長けたリエラ夫人に、ご相談をしようとしたに過ぎませんわ!」
レオン様を怒らせたことが恐ろしいのだろう。父と母は自分たちの身を守るべく、必死になってレオン様に訴えている。
ついさっきまでは、威圧的な態度で私を従わせようとしていたのに。今はもう、私のことなど見えてもいない。
(……私はこの人たちにとって、本当にどうでもいい存在なんだな……)
分かってはいても、両親の情けない姿を見ていると、惨めな気持ちが押し寄せてくる。
唇を噛みしめていると、レオン様がちらりと私を見、肩を抱く腕に力を込めた。
そして両親に向かい、地を這うような低い声で告げる。
「……実の親だからといって、何をしても許されると思うな。以後、貴殿らが私の妻へ直接接触することを禁ずる。再び妻にこのような無礼を働くのであれば、リングレンはローゼン男爵家との一切の接触を断ち、その行いについて、陛下にもご報告申し上げることとする」
「……っ!!」
きっぱりと言い切ったレオン様の言葉に、二人の顔から血の気が引いていく。
「さぁ、帰ろう、リエラ。待たせてすまなかった」
レオン様は打って変わった優しい眼差しで私を見つめそう言うと、私の肩を抱いたまま歩きはじめた。
なかば呆然としながらも、私は彼に身を委ねるように足を進める。
すると、背後から諦めの悪い父の、逼迫した声が耳に届いた。
「待っ……、リ、リエラ……!」
縋りつくようなその声に、ほんの一瞬、心を揺さぶられる。
思わずレオン様の顔を見上げた。
私を見つめる彼の美しい青い目は、包み込むような愛情に満ちていた。
(……そうだ。迷う必要なんてない。私を信じ、私を大切にしてくれる人のために働くのだと、心に誓ったじゃない)
私は一度大きく息を吸い込むと、勢いよく振り返った。
そして両親に向かって、はっきりと宣言した。
「もう戻ることはありません! 私はレオン様とともに、リングレンで暮らす人々のために生きていきます」
私の言葉に、父と母は目を見開く。父は絶望したようにくしゃりと顔を歪めた。
「……リエラ……」
母は恨みがましい声で私の名を小さく呟く。怨念のこもったその目から顔を背け前を向くと、私はレオン様とともに王宮を後にしたのだった。
帰りの馬車の中でも、レオン様は気遣うように、私のそばに寄り添ってくれていた。
「リエラ、彼らから言われたこと、されたことを、余さず私に教えておくれ」
「……はい。あの、レオン様。侍女が私のそばを離れたのは、私が帰り支度を頼んだからです。クロークに行ってきてくれと。ですから、彼女のことはどうか……」
なかば放心状態ではあったものの、侍女が叱られてはいけないという思いが真っ先に頭に浮かび、私はレオン様にそう伝えた。
彼は愛おしげに目を細めると、私の頭をそっと撫でる。
「分かっているよ、リエラ。……君は本当に優しい人だな」
囁くようにそう言うと、レオン様は私に何度も質問し、離れていた間に起こった出来事の全てを聞き出したのだった。
タウンハウスに戻り、湯浴みを済ませた頃には、すでに深夜だった。
灯りを消し、与えられている部屋で一人寝台に潜り込むと、今日のことがまざまざと思い出される。
(……楽しいことも、たくさんあったはずなのにな……)
素敵な時間だった。きらびやかな王宮に圧倒されつつも、レオン様にエスコートされ、王家の方々にまでご挨拶をして、お言葉をかけられ。たくさんの貴族たちと言葉を交わし、同年代のご令嬢たちともお喋りをした。華やかな晩餐の席も、レオン様のリードで踊ったダンスも、緊張したけれどとても楽しかった。
それなのに。
今日という一日の最後に起こった出来事は、あの数々の素敵な記憶を霞ませてしまうほど、強烈なものだった。
ニルス様から壁際に追い詰められお金をせびられたことや、レオン様に媚びるマチルダの態度。それとは真逆の、私に向けてくる彼女の敵意に満ちた目。両親の私への身勝手な命令や、レオン様に対して必死で取り繕う情けない姿。最後まで私を睨んでいた母。
「……」
胸に痛みが走り、涙が込み上げそうになった。
その時だった。
部屋の扉が、控えめにノックされた。
(……? 誰かしら……)
侍女たちももう下がり、部屋の灯りも落としている。
何事かと上体を起こし扉の方を見ると、低く穏やかな声が聞こえた。
「リエラ、私だ。……入っても構わないだろうか」




