57. 常識外れ
(ニ……、ニルス様……っ!)
驚きのあまり、声が出ない。
波打つ薄い茶髪。左目の下の泣きぼくろ。
臙脂色の目が、間近で私を見下ろしている。夫婦だった短い期間でさえ、彼と目が合ったことなどほぼなかった。粘つくような視線が恐ろしく、頭が真っ白になる。
この人は、こんなにも不気味な人だったろうか。
固まっている私を、彼は強い力で回廊の隅へと引っ張っていく。慌てて周囲に視線を巡らせたけれど、出入り口付近に集まっている貴族たちは誰もこちらに注意を向けていないし、私の侍女の姿もまだ見えない。
彼に抗議しようと震える唇を開いた瞬間、私の体は大きな柱の陰になる壁へと押し付けられた。
「……っ、て、手を、離してください……っ」
情けないほどに、歯の根が噛み合わない。怯える私が面白いのか、ニルス様はフンと鼻で笑うと、片方の腕を壁につき、上から下まで舐めるように見回してくる。
「お前……随分と見違えたじゃねぇか。驚いたぜ。艶っぽくなりやがってよ。まさかこんなに化けるとはなぁ。惜しいことしたぜ。はは」
一体何がおかしいのか、ニルス様は下卑た顔つきで嘲笑うような声を上げる。一度は夫婦であったにもかかわらず、この人とこれほど近い距離で向かい合ったことはない。
好きでもない男性に近付かれるというのは、こんなにも嫌悪感のあるものだったのか。
後ずさりしたくとも、背中は壁に張り付いていて、これ以上動く場所はない。
「すげぇいいドレス着てるじゃねぇか。その宝石も、辺境伯様に買ってもらったのか? やっぱり金かけると違うよな。地味で陰気なだけの女だったのによぉ。別人じゃねぇか。肌もこんなにしっとりさせてよ」
そんなことをぶつぶつ言いながら、あろうことか、ニルス様は私の腕に指を這わせたのだ。全身に鳥肌が立ち、私は振り払うように腕を避ける。
「や……、止めてください……! 何のつもりですか? 離れて……!」
逃れようと足を横に踏み出すと、彼は音を立て、壁に手のひらをついた。ニルス様の腕が、目の前を塞ぐ。
彼の両腕が、檻のように私を囲う形となった。
「……っ」
(誰か、気付いて……!)
大きな声を上げるべきか、束の間逡巡する。騒ぎになればレオン様にご迷惑をかけてしまうかもしれない。けれど、これ以上こんな状態でいたら、あらぬ誤解を生む可能性が高い。そっちの方がはるかにまずいことくらいは分かった。
勇気を振り絞り、震える喉に息を吸い込んだ、その時。
ニルス様の口から、信じがたい言葉が放たれた。
「なぁ、リエラ。金を用立ててくれねぇか?」
「…………は?」
叫ぶ寸前だった私は、そのままぴたりと固まる。
そして、ニルス様の言葉を脳内で反芻した後、おそるおそる彼を見上げた。
ニルス様は、媚びるような薄気味悪い笑みを浮かべる。
「実はさ俺、今切羽詰まってんだよ。場末の女を身籠らせちまって、金が必要でさぁ。親に内緒でどうにかしようと焦って手を出した賭博で、デカい負けを作っちまって。もうどうにもならねぇんだ」
──理解が追いつかない。
ニヤニヤと笑いながら喋り続ける彼を、私は信じがたい思いで見つめた。
この男はマチルダを選び、私を捨てた。今はそのマチルダの夫であり、そしてフェルナー伯爵家の嫡男だ。
さらに今の私は、リングレン辺境伯夫人。そしてここは王宮の回廊であり、今夜は王国節目の建国祭の夜。
こんなところで、こんな日に、この人は一体何を言っているのか。
呆然とする私に向かい、ニルス様は常識外れな懇願を続ける。
「なぁ、頼むよ、リエラ。俺とお前の仲だろ? 他人じゃないんだしさ。困った時はお互い様ってことで、な? ちょっと助けてくれよ。リングレンなら、金は腐るほどあるだろう? 今日ずっと見てたが、お前ご当主様に随分と可愛がられてるじゃねぇか。へへ。……自由に使わせてもらえる金もあるんだろ? な?」
「……何を、おっしゃっているのですか」
無意識のうちに、自分でも驚くほど冷たい声が出た。その瞬間、お腹の底から怒りが湧いてくる。それと同時に、先ほどまでこの人に対して感じていた恐怖心がどこかへ消え去った。
「私はもう、あなたの妻ではありません。今はリングレン辺境伯夫人です。その私を人目のない場所まで引っ張ってきて、そのようなお話をなさるなど。ご自分がどれほど非常識なことをなさっているか、お分かりなのですか?」
けれどニルス様は、へらりと笑ったまま肩を竦める。
「いやいや、そんな堅いこと言うなってー。元夫婦じゃねぇか」
「元夫婦だから、何なのですか」
私は彼を真正面から見据え、きっぱりと言い切った。
「あなたはフェルナー伯爵家のご嫡男で、私はリングレン辺境伯の妻です。その私に、借金の穴埋めを頼むなど……。このことが他の方に知られたら、ご自分やフェルナー伯爵家がどうなるか、少し冷静にお考えになったらいかがですか」
私の言葉に、ようやくニルス様の顔つきが変わってきた。けれどその顔には、気まずさや反省の色などは微塵も浮かんでいない。
だらしない笑みを引っ込めた彼は、目の奥に剥き出しの苛立ちを滲ませながら、私を鋭く睨みつけた。




