54. マチルダの愚行
「……っ、リ、リングレン辺境伯閣下、でございますな。ヨハネス・ローゼン男爵でございます。娘が世話になっております」
レオン様のオーラに圧倒されているのか、父は口元を引きつらせ、ぎこちない挨拶をする。
さっきまでレオン様と会話をしていた紳士は、不穏な空気を感じ取ったのだろうか。戸惑った表情を浮かべながら、この場をそっと立ち去った。
レオン様は私の肩を抱いたまま、表情一つ変えずに言った。
「お初にお目にかかる、ローゼン男爵」
静かなその声が、やけに冷淡に響く。レオン様の表情や父を見つめる視線に、温度が感じられない。
彼は言葉を続けた。
「ご令嬢との結婚の申し出をする際、挨拶に伺いたいと書簡を出したが、『支援金さえ出してもらえるのならその必要はない』との返答が来たため、今日までお会いすることは叶わなかったな。ようやく、こうしてお顔を拝見することができた」
父の肩がぴくりと震える。
(……そうだったのね。知らなかったわ)
そんなやり取りがあっていたとは。辺境伯自ら礼を尽くそうとしてくださっていたのに、それを退けるなど、本来なら許されることではない。申し訳なさと恥ずかしさで、いたたまれない気持ちになる。父はレオン様についての様々な噂を聞き、怯えていたのだろうか。
言葉に詰まった父の額に、小さな汗の粒が浮かんでいる。
母とマチルダの方をちらりと見やると、二人は父と対峙するレオン様の顔を、一心に見つめていた。会話の内容などまるで耳に入っていないようだ。どうやら間近で見るレオン様に、見惚れているらしい。
マチルダの隣に立っているニルス様の視線を感じるけれど、怖くて直視できない。私は父の方にそっと顔を向けた。
「閣下ほどのお立場のお方に、粗末な我が屋敷まで足をお運びいただくのは、大変恐れ多いことでございましたので……。ですが今日この晴れの場で、こうして閣下にご挨拶ができましたことを、まことに光栄に思います」
そう言うと、父は目を細め愛想を振りまいている。
けれどレオン様は、ぴくりとも頬を動かさない。
「それで? 私のリエラに何かご用だろうか」
凍てつくような声で彼がそう言うと、父は目を泳がせた。
「いや、何ですか、その……。まぁ、久方ぶりの再会ですからな。はは。妻も娘も、リエラの姿を見つけ喜んでおりましたので。ただ挨拶をしようとしたのです。家族ですからな」
(……家族……?)
全く心のこもっていないその言葉に、胸の奥が冷えていく。嘘をついていると、すぐに分かった。この人たちから家族の一員として愛された記憶は、脳の片隅にさえ残っていない。
レオン様が私の様子を窺っていることに気付く。するとその時、突然マチルダが両親の前に進み出て、甲高く甘ったるい声を上げた。
「お、お初にお目にかかりますぅ、リングレン辺境伯閣下。ローゼン男爵が娘、マチルダにございますわ」
久しぶりに聞く彼女の声に、体が強張る。マチルダは私には目もくれず、潤んだ愛らしい瞳でレオン様だけを見つめながら、やけにくねくねとした動きでカーテシーをした。
「まさか閣下が、こんなにも素敵な方でいらっしゃるだなんて……あたしちっとも知りませんでしたわ。学園でも王都でも、怖い噂ばかりが流れていたんですものぉ」
目を覆いたくなった。見ていられずに、思わず顔を伏せる。
マチルダの露骨な媚びは、あまりにも場違いでみっともなかった。私の夫だと知っていて、どうしてこんな態度をとるのか。彼女の夫だって、すぐそばにいるのに。不快感が胸を覆う。
けれどニルス様はマチルダを諌めることもなく、私の方へと視線を向け続けている。視界の端でそれに気付き、さらに嫌な気持ちになった。
両親がマチルダを止めるより先に、レオン様がゆっくりと口を開いた。
「……レオンハルト・リングレンだ。私に関する噂など、興味はない。私の真の姿を知り、こうしてそばにいてくれる大切な人がいるのだから、それで十分だ」
そう言うと、レオン様はまるで目の前のローゼン一家やニルス様たちに見せつけるかのように、私の肩をさらに抱き寄せた。そしてこちらに微笑みかける。
眩しいほどのその笑顔は、見慣れているはずの私でもドキッとしてしまう。
遠巻きに私たちを見つめている人々からも、ため息が漏れ聞こえた。
(レ、レオン様……?)
公の場での振る舞いにしては近すぎるこの距離に、私は戸惑うばかりだ。
けれど、マチルダは他の誰よりも周りが目に入っていない様子だった。
さらに一歩進み出て私たちとの距離を詰めると、一層高い声で甘えるようにレオン様を見つめる。
「さ、さすがはリングレン辺境伯閣下ですわぁ! 北の英雄は格が違いますのね! 器が大きくて、とても素敵……。あたし、ますます尊敬しちゃいますぅ」
「マチルダ! もういい、下がりなさい」
見かねたのか、父もさすがに口を出す。母は目を吊り上げてマチルダのことを見ていた。
けれど当のマチルダは、両親を完全に無視している。
レオン様だけを一心に見つめながら、胸の前で小さく両手を握り、小首を傾げ、彼女はさらに信じられないことを口にした。
「お姉様がフェルナー伯爵家ではお役に立てないということで、ぜひにと望まれ、あたしが代わりにフェルナーへ嫁ぐことになりましたの。ですが本当でしたら、このあたしこそが、辺境伯閣下のもとに嫁ぐ予定だったんですのよ。だからかしら。今こうして初めてお会いしたばかりなのに、運命のようなものを感じてしまいますわ。……ね? 閣下はいかが?」




