45. 最悪の事態(※sideマチルダ)
フェルナー伯爵邸の応接間には、剣呑な顔をした伯爵夫妻が座っている。
その向かいには、あたしと、そして伯爵から呼び出された父がいた。
父は青い顔で、額の汗をハンカチで乱暴に拭う。
そんな父を睨めつけながら、フェルナー伯爵は唸るような音を立て、深い息をついた。
「領内の各地から、次々と苦情が届いている。以前の薬とは効き目が違う、品質が著しく劣化しているとな。一体どうなっておる?」
「……は、それは……」
隣に座るあたしは、ハラハラしながら父の様子を見守る。明確に理由を言えず狼狽えるばかりの父が頼りない。
フェルナー伯爵は、畳みかけるように父を問い詰める。
「貴殿の薬草事業を見込み、ニルスとマチルダの縁談を認めたのだ。ところがどうだ。調べさせてみたが、事業は大きく傾きはじめているようではないか」
「……ちょっと、その、新しく導入した生産体制の中で不具合がございまして。一時的なものです。すでに改善の見通しは立っており……」
「改善とは? 何の改善かね? 品質のことか、それとも生産体制のことか」
「……ええ。もちろん、どちらもでございます」
容赦なく責め立てるフェルナー伯爵と、しどろもどろになりながら汗を拭う父を冷めきった目で見据える、伯爵夫人。
ようやく解放された父がフェルナー邸を後にすると、残ったあたしの前で夫人が大仰なため息をついた。
「困ったものだわ。これじゃ一体何のために男爵家などから嫁を娶ったのか分からないわ。唯一の取り柄がなくなったのですもの」
あたしに向かってわざとそんな言葉を聞かせる意地の悪さに腹が立つ。思わずきつい視線を向けると、夫人は扇を広げ、またため息をつく。
「ほら。嫌ねぇ。何度指摘しても、こうして礼儀や行儀作法を覚えることもしないし、ニルスの心さえ繋ぎ止めておけないのですから。以前なら、ご実家の薬草事業があるからと、多少は目を瞑ることもできたのだけれど……。それさえもこの有様ではねぇ」
(……く……っ!)
フェルナー伯爵は何も言わず、さっさと応接間を出て行った。残されたあたしは、この後も伯爵夫人からの長い嫌みを聞かされる羽目になった。
ニルス様はもはや取り繕うこともせずに、毎晩遊び歩くようになっていた。あたしのことを雑に扱いはじめた証拠だ。
あたしは遊びに行く時間なんてもらえず、勉強や家政の手伝いをさせられる日々なのに、自分ばかり楽しんで……!
それが許せなくて、深夜や明け方に帰宅する彼と毎日のように怒鳴り合いの喧嘩を繰り返した。愛情なんて、互いにもう欠片さえも残ってはいなかった。
そんなある日のことだった。
珍しく早く帰ってきたニルス様の顔が青ざめていた。まるで病人みたいだ。
「……何よ。どうしたの?」
あたしは彼に、ぞんざいに尋ねた。
「い、いや。別に何も」
ニルス様は露骨に動揺し、視線を逸らす。不信感が募り、あたしは追及した。
「何も、じゃないわよ。何でもない顔してないじゃないの。何をやらかしたわけ?」
「……う、うるせぇな! 何でもねぇって言ってるだろ!」
苛立ったようにあたしを怒鳴りつけると、ニルス様はそのまま部屋を出ていった。逃げているようにしか見えない。
(何よ、あの態度。本っ当に腹が立つわね……!)
少し前までは、あんな態度を取られたら謝るまで責め続けていた。
けれどもう、最近ではそんな気力もない。
いくら言っても、あの男はあたしの望むようには動いてくれないし、こっちは心がささくれだち、疲れ果てているのだ。日中ずっとフェルナー伯爵夫人の底意地の悪い嫌み攻撃や、面倒な勉強や仕事に耐え続けているのだから。
(……もういいわ。さっさと寝ましょう)
夫婦の寝室は、いつしかあたしだけが使う部屋になっていた。
ニルス様はどこか別室で休んでいる。明け方に帰ってくるたびに大喧嘩になるものだから、向こうがあたしを避けるようになったのだ。
でも、それももうどうでもよくなっていた。
(……あたしも愛人でも作ろうかなぁ。こっちは何の楽しみもない毎日を過ごしているのに、あいつばっかり人生を楽しんでて、腹が立つじゃない)
広い寝台に潜り込んでそんなことを考えはじめると、途端に楽しい妄想が膨らみはじめた。
(……いいわね、それ。嫁ぎ先で虐げられる悲劇の伯爵令息夫人の、禁断の恋。ふふ。ニルス様のあの下品な友人たちなんて、どうかしら? あたしに色目使ってくる奴が何人もいたわよね。それとも……、屋敷の中の誰かがいいかしら? 伯爵の従者に一人、若くて綺麗な男がいるのよねぇ。あの子が相手なら、背徳感が増して楽しいかもしれないわ……)
そんなことばかり考えながら、眠りに落ちた。
けれど、その数日後のことだった。
このフェルナー伯爵邸に、一人の若い女が現れたのだ。
「ニルス様に、お会いしたいのです」
突然やってきたその女は、あたしと同じくらいの年齢に見えた。肌が艶やかで胸がすごく大きく、派手な顔立ちをしている。そして、腹部を庇うように、両手をそこに当てていた。身なりからして、ただの平民だろう。
「……どなた? 前触れもなくやって来るなんて、随分と失礼な方ね。ニルス様は不在よ。お引き取りになって」
玄関ホールで、あたしは女の姿を上から下までジロジロと検分しながらそう言い放った。けれど彼女は、とんでもないことを言い出したのだ。
「帰りません。私、ニルス様のお子を身籠っておりますの」
「……は?」
あたしとともに、そばにいた家令も凍りつく。
固まるあたしたちに構わず、女はあれこれと訴えはじめた。
自分は酒場で踊り子をしている。ニルス様に口説き落とされ愛人になった。彼は決して自分を捨てないと約束した。万が一妊娠したら子どもごと面倒を見てやると言い、自分を宿に連れ込んだ。そんなことをつらつらと話しながら、ニルス様の筆跡の手紙や、贈られた宝飾品などを証拠品だと言い見せびらかしはじめたのだ。
その夜、フェルナー伯爵邸はあたしが嫁いできて以来の大騒動となった。
「ニルス!! 貴様という男は……!! 仕事はろくにせず、妻との間に子もなさぬばかりか、場末の女を妊娠させただと……!? ふざけるのも大概にしろ!!」
伯爵の怒声が、居間に響き渡る。
ニルス様は先日の夜よりも、さらに顔面蒼白だった。
伯爵夫人も彼と同じような顔色で、ソファーにもたれかかるようにして座ったまま、こめかみを押さえている。
激昂した伯爵が、ニルス様の胸ぐらを摑み上げた。
「ひ……っ! ちち、違うんだ父さん……! お、俺だって、まさかこんなことに……」
「黙れ!! 貴様、うちの金を使い込んでいるだろう!!」
「……っ!」
伯爵がそう怒鳴った瞬間、ニルス様の頬が大きく引きつった。
伯爵はこめかみに青筋を浮かせ、ニルス様を放り出す。
長身の彼が驚くほどの勢いで吹っ飛び、床に這いつくばった。温厚とは言えないけれど、普段こんな荒々しい姿を見せたことのない伯爵の怒り狂った姿に、あたしは息を詰め慄く。
伯爵はゆっくりとニルス様に近付きながら、地の底を這うような低い声を発する。
「領内の視察だの情報収集に行くだのとぬかしながら、貴様は相変わらず遊び歩いていたな。王都の店から、長く未払いがあると請求書が届き、不審に思い調べさせた。するとどうだ。高級宿、酒場、仕立て屋……、そのうえ賭博場にまで、莫大な負債を作っているじゃないか!!」
夫人の息を呑む音が耳に届く。あたしは驚いて目を見開いた。
(と……っ、賭博場で、莫大な負債、ですって……!?)
女二人が呆然としている間にも、伯爵はニルス様の前に立ち彼を責め立て続ける。
「働きもせず、家の金を食い潰し、そのうえ場末の女まで妊娠させるとは! 貴様はこのフェルナー伯爵家を潰す気か!!」
「ち……っ、違うんだ、父さん……。しょうがなかったんだ。俺だって付き合いがあるしさ……。こんなことになるはずじゃなかったんだよ。一度デカく稼いで、全部返そうと思って……。お、女のことだって、金でどうにかしようと……」
伯爵を見上げながら、上擦った震える声で言い訳をするニルス様。腰を抜かし涙ぐむその姿は、ものすごく惨めで情けなかった。
(なんでこんな男のところに嫁いできちゃったのかしら。リングレンよりはマシだと思ったけど、どっちにしろ大失敗だわ……)
どこか冷めた頭でそんなことを考えている間にも、怒髪天を衝いた伯爵は、なおも喚き散らす。
「ローゼン男爵領の薬草事業は勢いを失い、馬鹿息子は金を使い込んだ挙句、場末の平民を妊娠させるとは……。お前たちは我が家に災厄しか運んでこんのか!!」
いつの間にか、あたしまで苛立ちをぶつけられている。
フェルナー伯爵は肩で息をしながら、険しい表情のままついに黙り込んだ。伯爵夫人は痛みを堪えるように眉間に皺を寄せ、額を押さえている。ニルス様は床に座り込んだまま顔を伏せ、あたしはそんな彼らをぼんやりと眺めていた。
最悪な雰囲気のフェルナー伯爵家に、その数日後、王宮から建国百五十年を祝う式典の招待状が届いた。
そのことを伝えながら、伯爵は鋭い目であたしとニルス様を睨みつけた。
「いいか。王宮では何事もなかったように振る舞え。醜聞が広まれば、フェルナー伯爵家の面目は丸潰れだ」
「……分かってるよ」
小さな声でそう返事をしたニルス様の顔色は、相変わらず悪かった。
伯爵夫人はそんなニルス様をキッと睨みつけ、念を押す。
「本当に分かっているのね? お金の相談なんか、誰にもするんじゃありませんよ。あの場末の女のこともよ!?」
必死の形相でニルス様に言い続ける伯爵夫妻を見ながら、あたしは考えた。
(実家もそうだけど、このフェルナー伯爵家ももうヤバいわよね……。ニルス様の借金がどのくらいの額かは知らないけど、女と赤ん坊の面倒だって、これから見なきゃいけないわけでしょ?)
あたしの頭の中に、一度も見たことのないきらびやかな王宮の広間が広がる。
(……王国中から貴族たちが集まるんですもの。独身の令息たちも、大勢来るはずよね)
あたしの美貌は、国中の令嬢たちを集めたって抜きん出ているはず。きっと王族でさえ、霞んで見えるわ。
沈んでいく泥舟なんかさっさと捨てて、次の立派な船に乗り換える、またとない機会よ。
ニルス様に説教を続ける伯爵夫妻の前で、あたしはしれっとした顔のまま、そう考えていた。
まさか王宮で、あんな信じがたい光景を目撃することになるなんて、夢にも思わずに。




