43. 朧げな意識の中で
次に覚醒した時に、真っ先に耳に入ってきたのは、レオン様の緊迫した声だった。
「──水をもう一度替えてきてくれ」
「承知いたしました、旦那様」
答えているのは、私の専属侍女の声。
(……あれ……? 私……)
真っ暗な視界の中で、今の状況を思い出そうとしていると、ふいに額に温かい感触がする。
「……少しは下がってきたか。次の薬の時間は?」
「二時間後でございます」
「忘れずに持ってきてくれ。私が飲ませる」
(……薬……)
そうだ。私、何だかすごく具合が悪くなったんだった。
夜、工房を閉めてから、馬車に乗り込んだことまでは覚えている。
レオン様の姿が見たくて、必死に瞼を持ち上げる。その時にようやく、自分が瞼を閉じていたことも、寝台の上に横になっていることにも気付いた。
ぼんやりとする視界に、金色の髪が映る。すると、その金髪がふわりと揺れ、彼が私に視線を向けた。
「……リエラ!」
レオン様のこんな切羽詰まった声を聞くのは、初めてのことだった。
いつも冷静で穏やかな彼の青い目が、大きく見開かれる。
張り詰めたその表情が、安心したようにわずかに崩れた。けれどすぐ、苦しげに眉間に皺を寄せる。
「リエラ、大丈夫か? 私が分かるかい?」
「……はい、も、もちろんです。レオン様……」
自分の喉から漏れた声の、あまりの覇気のなさに驚く。ガサガサにしゃがれ震えた声は、まるで他人のもののようだった。
けれどレオン様は、まるで泣きそうな顔をして大きく息を吐いた。
「ああ、よかった……!」
その時、手が温かい感触に包まれる。レオン様が自分の額に両手を押し当てた時、私の腕がそちらに引っ張られ、ああ、レオン様に握られているのだなと分かった。
(レオン様が……こんなにも取り乱すなんて……)
ゆっくりと状況を飲み込む私の胸に、じわじわと罪悪感が押し寄せてくる。
私は、倒れてしまったのだ。
あれほどレオン様から、自分の体を労るよう注意されていたのに。
謝らなくてはと口を開きかけた時、レオン様が私に顔を寄せるようにこちらへと屈み込み、片方の手でそっと頬を撫でる。
「昨夜、君が馬車の中で意識を失っていると聞いた時は、頭が真っ白になったよ。この部屋に運んで医者を呼び、薬を飲ませた。……過労や睡眠不足による発熱だろうとのことだった。今はもう昼だが、昨夜から一度も目を覚まさないから、生きた心地がしなかったよ」
(……レオン様……、そんなにまで……)
視界がはっきりとしてきて、レオン様の表情がよく見える。普段はない目の下のクマに気付き、胸がずきりと痛んだ。
「……一晩中、そばにいてくださったのですか……?」
そう問うと、彼は「もちろん」と頷いた。
「君が無事目を開けるまで、離れられるはずがないだろう。……ああ、本当によかった。声が聞けて安心したよ」
「……ごめんなさい」
こんなにも心配してくださっていただなんて。
ありがたさよりも、心労をかけてしまった申し訳なさで、私の声は一層掠れた。
レオン様は優しく首を振る。
「いいんだ。リエラが無事ならそれで。……だが、まだ熱は高い。体調が完全に戻るまで、もう仕事は禁止だ。いいね?」
「……はい」
穏やかな口調の中に、有無を言わせぬ強さがあった。
こんなにも心配をかけた後で抵抗できるはずもなく、私は大人しく返事をする。
「工房の方は、心配しなくていい。フリッツたちには君の状況を伝えに行かせているし、何かあれば報告に来るよう言ってある」
「あ……、ありがとうございます……」
私が不安に思っていることが分かったのか、こちらから尋ねる前に、レオン様がそう言ってくださった。
侍女がグラスを持ってきて、レオン様が私の背に腕を入れ、体を起こしてくれた。そして片腕で私の体を支えたまま、もう片方の手でグラスを受け取り、それを私の口元に持ってきてくれる。
(至れり尽くせりだわ……)
お世話を焼いてくれるレオン様に対して、気恥ずかしいような申し訳ないような気持ちになる。レオン様こそ、毎日たくさんのお仕事をこなしていて、お忙しいはずなのに。
至近距離でじっと見つめられながら、私はグラスの中のお水をゆっくりと嚥下する。一口飲むたびに、レオン様が安心したように表情を綻ばせた。
グラスが空になると、レオン様は待機していた侍女にそれを渡し、また私の体をそっと寝台に横たえた。
「すみません。ありがとうございます」
「うん。……それと、結婚式は、次の冬を越してからにしよう。母には私から、事情を説明しておく」
「……え……っ」
さり気なく続けられたその言葉に、一瞬耳を疑う。私は慌てて声を上げた。
「ど、どうしてですか……? 私の体調のことでしたら、大丈夫です。結婚式までには、必ず全快して……」
予定では、式はちょうど一ヶ月後のはずだった。それ以上延ばせばまた雪が積もりはじめるし、他領の人々を招待することは難しくなる。先日、ローゼンの家族に招待状を送るかどうかの確認をされたばかりだった。断ったけれど。
レオン様はあくまでも落ち着いた表情で、私に言い聞かせるようにゆっくりと言う。
「工房を完成させ、薬の量産体制を整えたところに、新しいクリームの開発を次々と始めたばかりだ。今その手を止めたくない気持ちは分かるが、こんなことになるまで、君は自分でも気付かぬうちに無理を重ねていたんだ」
レオン様は、まるで私の気持ちを和らげるかのように、私の髪を優しく撫で続ける。
「この状況で、一月後の結婚式の準備を強引に進めたくはない。またこんなことになったら、私が耐えられないからだよ」
「……レオン様……」
どうにか考えを変えてもらわねばと、食い下がるための言葉が頭の中にいくつも浮かんでは消える。私のせいで、領主の結婚式の予定を変えさせるなんて。ユリアーネ様だって、きっととても楽しみにしてくださっているのに。
焦る私の内心に気付いているのか、レオン様は何でもないことのように優しく微笑む。
「前にも言っただろう? 結婚式は急がなくていい。リエラの記憶の中に、人生の特別な日として残ってほしい。君が笑顔で過ごせる一日にしたいんだ」
どこまでも私のことだけを思ってくださるその言葉に、堪えることのできない涙が突然溢れ、眦を伝った。
「レオン様……、本当にごめんなさい。私の自己管理不足のせいで……。こ、こんなに大きな迷惑をかけることになってしまって……」
元気だから大丈夫だと高を括り、のめり込みすぎていた。
そのせいで、大切な予定を大きく狂わせ、周りの人を巻き込むことになってしまった。
申し訳なさに胸が激しく痛み、喉が震える。私は片手でブランケットを引き上げ、みっともなく泣き崩れる顔を隠した。
「領民の皆さんの役に立ちたかったんです……。それに、このリングレンの地に、私が新しい産業を確立するんだと、気負いすぎていました……。それなのに、こんなことに……」
たくさんの成果を出さねばと、焦ってしまっていた。
こんな私をこの地に招き、こうして大切にしてくださっているレオン様の期待に応えなくてはと。
私がここに呼ばれた意味は、それしかないのだからと。
情けなさに嗚咽が漏れる。レオン様がブランケットをそっと下げ、いつの間にか取り出していたハンカチで、私の涙を拭ってくれる。
「謝らなくていい。君がこの地に嫁いできてから、どれほど懸命に頑張ってくれていたか、よく分かっている。目を輝かせ、夢中になって働く君を、私はずっと見てきたのだから。感謝しているよ、リエラ」
「……ふ……っ」
温かい言葉をかけられるほど、罪悪感が私の胸を押し潰す。初めて認めてもらえて、頼ってもらえて。そのことがあまりにも嬉しくてのめり込み、自分の限界も分からなくなってしまっていた。
泣きじゃくる私を見つめながら、レオン様は小さく声を上げて笑う。
「はは。そんなに大袈裟な話じゃないさ。結婚式は逃げない。いつでもできるよ。それに、式を挙げるのが多少遅れたからといって、私たちの関係は何も変わらない」
そう言うと、彼はさらりと続けた。
「こんなにも君を大切に想っているのだから」
(……レオン様……)
自責の念に駆られ涙を流しつつ、私はその言葉の意味について、ぼんやりと考える。
けれど、頭がクラクラして、思考がまとまらない。
レオン様が、また私の髪を優しく撫でた。
「さぁ、次の薬の時間まで、目を閉じてゆっくりしているんだ。今はもう何も考えず、自分の心身を休めることだけに集中しておくれ」
その低く柔らかな声色は、まるで催眠術のように、私の頭の奥をじんわりと痺れさせる。
熱に加え、泣きじゃくったことで余計に神経が疲れたのだろうか。私の意識はまたすぐに朧げになっていく。抗う間もなく、眠気が押し寄せてきた。
何だか、今の会話の全てが夢の中の出来事のような、そんな不思議な感覚がする。
朦朧としつつも、私はレオン様に問いかけた。
「レオン様……。私は、レオン様にとって、どんな存在なのでしょうか……」
「……ん?」
夢の中のレオン様が、珍しく戸惑った声を上げる。私はそんな彼に縋るように、重ねて問う。……ああ、口を開くのにも、ひどく力がいる。
「私にとって……、レオン様は、たった一人の特別なお方です……。こんな私を、温かく迎えてくださって……。初めて対等に接してくださった、特別な方……」
「……」
「初めて好きになった人……だけど……、レオン様にとっては……、私は、子どものように、見えていますか……?」
「……リエラ……」
「そういった意味の、“大切”……?」
自分でも何を言っているんだか分からない。果たして私の言葉は、本当に口からこぼれているのだろうか。それとも、ただの脳内の独り言……?
そんなことを考えているうちに、意識が闇の中へ、すうっと沈んだ。
手を握ってくれているレオン様の頼もしい熱を感じながら、最後に優しい声を聞いた気がした。
「そんな風に思わせてしまっていたのか。……もちろん違うよ、リエラ。君はたった一人の、かけがえのない私の妻だ。……愛しているよ、心から」
次に目を覚ました時、部屋の中はほんのりと明るかった。
分厚いカーテンの隙間から差し込む朝の光が、室内を淡く照らしている。
熱はまだ残っているのだろう。体の怠さは感じるけれど、昨日ほどの重苦しさはない。
ぼんやりとした頭でゆっくり視線を動かし、私は息を呑んだ。
レオン様が、寝台のすぐそばに置かれた椅子に腰掛けたまま、眠っていたのだ。
腕を組み、俯いた体勢で、かすかに耳に届くくらいの静かな寝息を立てている。
(レオン様……。また一晩中、私のそばにいてくださったの……?)
普段の隙のない姿からは想像もできないほど、無防備な寝顔。
窓から差し込む朝日が彼の金色の髪を淡く照らし、長い睫毛の影を頬に落としている。
込み上げてくるものに、また瞼の裏が熱くなり、視界が揺れた。
(……ありがとうございます、レオン様……)
昨日のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
けれど、彼が切羽詰まった表情で私の顔を覗き込んでいたことや、結婚式の延期について話をしたこと、優しく髪を撫でてくれたことなどは、記憶に残っている。
(……今度こそ、もう絶対にこんなご迷惑はおかけしません。ちゃんとしっかり休んで、完全復活して、それからまた頑張りますから)
初めて見る寝顔にドキドキしながら、私は心の中でレオン様にそう語りかける。
至らないところばかりの私を、いつも優しく見守り支えてくださる、大切な人。
(大好きです、レオン様……)




