35. お帰りなさい
その日も私は朝から夕方まで工房にこもり、作業員たちに教えたり、研究に没頭したりしていた。
日が沈む頃、ようやく屋敷へ戻ると、見慣れない一台の馬車が敷地内に停まっていた。
(……? 他領からのお客様かしら)
レオン様からは、今日来客があるとは聞いていない。
馬車を降り、屋敷の玄関扉へと歩きながら、私はいそいそと髪を押さえたりスカートを払ったりしてみる。
(今日も一日薬草にまみれて過ごしたからなぁ……。どうしよう。お客様だったら、ご挨拶の前に一度私室に戻って着替える必要があるかしら)
そんなことを考えながらおそるおそる玄関ホールに入ると、ヴァルターがにこやかに出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リエラ様。旦那様が応接間でお待ちでございます」
「ただいま。……え? レオン様が? お、お客様もいらっしゃるのよね」
そう問うと、ヴァルターは目を細める。
「お客様と申しますと語弊がございますが……、はい。リエラ様のお帰りをとても楽しみにお待ちになっておられます」
「……? だいぶ長いことお待ちなの?」
「さほどでは。ですが、お顔だけでもお見せいただくと、喜ばれるかと思いますよ」
どこか含みのあるヴァルターの言葉を怪訝に思いつつ、私は悩んだ挙句、ひとまずご挨拶をしようと思い応接間へと向かった。
(着替えだけでも済ませたかったけれど……、長時間お待たせしているのなら、申し訳ないわね)
他領の領主様だろうか、それとも、薬の取引を望む商人の方かしら。
直前まで髪を撫でつけながら、私は応接間の中へと入った。
そして。
(──え……っ)
くつろいだ様子で腰かけ、向かいに座るレオン様と笑顔で言葉を交わしている男性。
その姿を見た瞬間、頭が真っ白になり、息が止まった。
私が現れたことに気付いた彼は、こちらへと顔を向ける。
視線が絡むと、銀縁眼鏡の奥の青い目が、懐かしい笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、リエラさん。お久しぶりです」
「……テ……、テオ先生……っ」
そこに座っていたのは、まぎれもなく、あのテオ先生だった。
私の恩師。優しくて頼もしい、私の大好きな先生。
記憶の中にあるままの穏やかな声が、私の涙腺を刺激した。
「ははは。やっぱり驚かせてしまいましたね。今兄から、あなたのここでの生活についていろいろと聞いていたところです。元気そうで、本当によかった。安心しました。……おや」
堪える間もなく涙をこぼした私を見て、テオ先生が困ったように笑う。
「泣かせてしまいました。すみません。……さぁ、こちらへ」
テオ先生が目を細めながら手招きをする。私は両手で頬や口元を覆い涙を隠しながら、二人のもとへと歩み寄る。
「おいで、リエラ」
レオン様がご自分の座るソファーの隣を軽く叩く。私は大人しくレオン様のそばへ行き、テオ先生に向かい合う形で腰を下ろした。
「テオ先生……、ご無沙汰しています……。お、お会いしたかったです……」
たった一言挨拶をするだけで、感極まってしまい声が掠れる。
目の前に、テオ先生がいる。信じられない。もう胸がいっぱいだ。
テオ先生はにこにこしながら頷く。
「私もですよ。いつもリエラさんのことが気にかかっていました。まぁ、ですが、兄上のもとに嫁いだのだから、きっと幸せに暮らしているとは思っていましたがね」
「平民学校での話はリエラから聞いてはいたが、まさかここまで慕われているとはな。……いや、聞いてはいたが」
レオン様の声色が、何だかいつもと少し違う。心配になり見上げると、彼はいつもの優しい表情で微笑んでくれた。
「君のそんな嬉しそうな姿が見られて、私も嬉しいよ。テオドールの帰省は、二年ぶりだ」
そう言いながら、レオン様はハンカチを取り出し、私の頬をそっと拭ってくれる。
テオ先生はそんな私たちを見ながら頷いた。
「ええ。学校が夏の長期休暇に入りましたからね。母からも再三手紙が届いておりましたし、今年こそは一度帰らねばと腰を上げました。リエラさんに会いたかったのが大きな理由ですけどね」
「先生……」
テオ先生の言葉が嬉しくて、心が温かくなる。
けれど次の瞬間、はっと気付いた。
「す、すみません、私ったら……! もうテオ先生ではなく、テオドール様とお呼びしなければいけないのに……!」
自分の馴れ馴れしさと無作法ぶりに、血の気が引く。
けれどテオ先生は、カラカラと笑った。
「気にする必要ありませんよ。私だって昔のまま、リエラさんと呼んでいるのですし。兄上の奥方ではありますが、私にとってはいつまでも、あなたは可愛い教え子ですから」
(……可愛い、教え子……)
その言葉に、収まっていたはずの涙が、また込み上げそうになる。レオン様が苦笑した。
「まぁ、今さら他人行儀になるよりも、その方が互いに居心地がいいだろうしな。人前でなければ、構わないさ」
「あ、ありがとうございます、レオン様」
彼のハンカチを握りしめたままそうお礼を言うと、レオン様が私の頬をそっと撫でた。
ふと思いたち、私はテオ先生に向かって言った。
「お帰りなさい、テオ先生」




