33. 新しい日々
フリッツ一家は、リングレン辺境伯邸の丘から少し下ったところにある村で暮らしはじめた。
彼らに用意されたのは、石造りの小さな家で、立派な暖炉があるそうだ。
ローゼン男爵領で暮らしていた頃より、ずっと快適な環境のようで、ベラおばさんは何度も「ありがたいねぇ」と呟いていた。
そして翌週から、フリッツ一家は早速、リングレン辺境伯邸の作業部屋へ通ってきてくれるようになった。
作業を手伝ってくれている屋敷の使用人たちに一家を紹介し、その後彼らに、今扱っている薬草の種類や作業工程の説明をする。
久しぶりに彼らと並んで作業を始めた私は、思わず感動してしまった。
「皆、以前よりさらに技術が上達してるわ……!」
そう声を上げると、フリッツおじさんが照れくさそうに頭を掻く。
「リエラ様が残してくださった手順書を何度も読み返しながら、毎日作業をしておりましたからなぁ」
「ええ。ヨハンもエマも成長したんですよ」
ベラおばさんもそう言って頷く。
するとヨハンが小さく笑った。
「はい、薬草の香りで、細かな状態の違いがきちんと分かるようになってきました。これはもう少し乾かした方がいいな、とか」
「まぁ、本当に? すごいじゃない!」
嬉しくなってそう言うと、ヨハンは得意げに胸を張る。
「リエラ様に散々叩き込まれましたからね」
「も、もう……。叩き込むだなんて、人聞きが悪いわ」
くすくすと笑いが広がる。
このくつろいだ空気があまりにも懐かしくて、胸の奥がじんと痺れた。
「……こうしてまたリエラ様と一緒に薬草を触れるなんて、思ってもみなかったです」
葉の選別をしていたエマが、嬉しそうにそう言った。
「……私もよ」
しみじみと頷き、喜びを噛みしめる。
二人で顔を寄せ合いながら薬草を触っていると、なんだか平民学校時代に戻ったような気持ちになる。
エマも同じことを思ったのか、嬉しそうに笑った。
「ふふ、なんだか懐かしいですね」
「ええ。本当ね」
そうして毎日夢中になって作業をしているうちに、時間はあっという間に過ぎていく。雪がすっかり解けた頃には、リングレンでの薬草加工の手順も、かなり整理されていた。作業部屋の棚には、乾燥させた薬草や試作品がずらりと並び、私の記録帳も数十冊に上っていた。
雪解けにより再び領内を回れるようになったので、私はフリッツ一家を連れ、湿地帯や森、高原へと、薬草の採取や試験栽培のために足を運ぶようになった。
そしてその頃になると、屋敷の外では、工房の建設も本格化していた。
大工たちが足繁く出入りし、木材や石材が次々と運び込まれていく。屋敷の窓からその様子を眺めるたびに、胸が高鳴った。
ある日、私はレオン様とともに、建設中の工房を見に行った。
邪魔にならないよう現場からは少し離れたところで馬車を降り、そこから並んで眺めていると、レオン様が満足気に言う。
「だいぶ形になってきたな」
「はい……! 見ているだけでわくわくします」
そう答えると、彼はいつもの優しい眼差しで私を見つめる。
「ここはリエラの工房だよ。君が中心になって、皆を動かしていく場所だ」
「は、はいっ。頑張ります」
若干緊張しつつそう答えると、彼はそっと私の肩を抱く。
「そんなに気負うことはない。リエラがこれまで積み重ねてきたものを、思う存分形にすればいいんだ。たとえ何か失敗したところで、誰も責めたりはしないよ。困ることがあれば、何でも相談してくれ」
「……はい、レオン様。ありがとうございます」
見上げると、レオン様は小さく頷き、また私の頭をそっと撫でた。
「ここへ来たばかりの頃、君はよく顔を強張らせていて、気を張っているのだと伝わってきた。けれど最近の君は、とても和らいだ表情をしている。馴染んできてくれたのだなと思うと、嬉しいよ」
そう言って私を見つめるレオン様の瞳がとても優しくて、心臓が大きく高鳴る。
気恥ずかしくなった私は、つい目を逸らしてしまう。
「フ、フリッツさん一家が来てくれたおかげで、作業がとてもはかどるようになってきましたので……。経験豊富な彼らは飲み込みが早くて、もう私と一緒に、他の人々たちに教える側に回ってくれているんです。おかげで、とてもやりやすくなりました」
するとレオン様が、間髪を容れずに言う。
「もちろん、彼らのおかげでもあるだろうけれど、君自身の成長でもあるんだよ」
「……えっ?」
その言葉に、私は再び顔を上げ、彼を見上げる。
目が合うと、レオン様はにこりと微笑んだ。
「最初の頃の君は、食事中でも私と話す時でも、失敗してはいけないと常に緊張していただろう」
(き……、気付かれていたのね……)
たしかに、初めてこんな素敵な殿方に、そしてあんな立派なお屋敷に迎え入れられて、私は畏縮してカチコチになっていた。初日の夕食の時にも、固くなりすぎたあまり、ナイフを床に落とすという失態をしまったし……。
また思い出して、頬が火照る。けれどレオン様は、耳を疑うような言葉をくださった。
「それが今では、マナーも立ち居振る舞いも、見違えるほど美しくなった。余裕がでてきたし、使用人たちへの接し方も、以前よりずっと堂々としている」
(……え……)
「ほ、本当ですか? 私、少しは辺境伯夫人らしくなってきてます……?」
予想だにしなかったその言葉に、私は声を上擦らせそう問い返す。
するとレオン様は、静かに頷いた。
「ああ。薬草の研究や作業だけでも忙しいのに、君は少しでも空いた時間があれば、様々な本を読んだり、作法を覚えたり、領主夫人として必要な知識を一つずつ身につけようと努力していただろう?」
私は驚いて、思わず目を見開いた。
たしかに、食事の前後や就寝前など少しでも時間ができれば、屋敷の図書室から様々な書物を持ち出し、辺境伯夫人として身に付けておくべき知識を次々と頭に叩き込んできた。
いつもお忙しいレオン様なのに、私のそんな行動にまで、気付いてくださっていたのか。
何だか胸がいっぱいになる。
「あ、ありがとうございます……。でも、私はまだまだです。領地全体のことまで考えられるようにならなきゃと思っているのに、毎日薬草を触ってばかりですし……。エプロン姿や視察用の服で過ごすことも多くて、辺境伯夫人らしい華やかさなんて、全然ないし……」
ドギマギしながらそう言うと、レオン様は即座に否定する。
「そんなことはない。毎日生き生きと研究している君の表情は輝いているし、華やかだ。君のおかげで、屋敷の雰囲気も以前よりずっと明るくなった。ひたむきで健気な君の姿を見ているのが、私は好きだよ」
(──っ!! す……、好き……っ!?)
レオン様の口からこぼれたその単語に、私の心臓が大きく跳ね、次の瞬間、全身が熱を持つ。
火照る顔を慌てて伏せながら、私は必死で自分に言い聞かせる。
(ち、違うわ! そういう意味じゃない! 私のことを好きとおっしゃったわけじゃなくて……、レオン様は頑張っているところを認めて、褒めてくださったのよ! 分かってる。分かってるのに……!)
理解はしていても、大好きな人の口から紡がれるその優しい言葉が、私の耳をじんじんと熱くする。
動揺のため落ち着きを失った私の手を、レオン様がさりげなく取った。
(〜〜〜〜っ!?)
その手を引きながら、馬車の方へゆっくりと歩きだしたレオン様が、私を振り返り、顔を覗き込むようにして言った。
「雪も解けたことだし、近いうちにまた私とともに、母に顔を見せに行ってくれるかい。母が君のことばかり手紙に書いてくるんだ。リエラさんは元気にしているのかと」
「……は、はい。ぜひ! 私もユリアーネ様にお会いしたいです」
頬に熱を持ったままそう答えると、レオン様は目を細めた。
「ありがとう」
そう言うと、彼はまた馬車の方を向く。
ひんやりとした風に、彼の金色の髪がさらりと揺れた。
(レオン様……。大好きです)
馬車までは、あと十歩くらい。
この手を離すのが何だか寂しくて、まだここにいたいと思ってしまう。
「……」
勇気を出し、レオン様と繋いだ指先に、きゅっと力を込めた。
少し前を歩く彼の表情は見えない。
けれど、レオン様はまるで私の気持ちに応えるかのように、繋いだ手に少し力を込めてくれたのだった。




