24. 張り切るリエラ
まず向かったのは、先日レオン様と領地を回った時に見た、あの谷あいの湿地帯だった。
冷たい空気の中、低くたれ込めた霧が、地表を這うように漂っている。
馬車から降りた私が、そちらの方へ躊躇なく足を踏み出すと、そばに寄ってきた護衛の一人が声をかけてくる。
「リエラ様、どうぞお気を付けて」
「ええ、分かっているわ。大丈夫」
よほどレオン様に言い含められているのか、屈強な護衛たちは皆真剣な眼差しで私の動作を見守っている。ありがたいやら、緊張するやらだ。
足元の土は黒く、水気を含んでいて柔らかい。踏みしめるたび、鈍い音を立てて足が沈む。茶色のブーツはすぐ泥まみれになった。
私は慎重にしゃがみ込み、作業用の手袋越しに土を掬う。冷たく、細かく、指の間からゆっくりと零れ落ちていく感触。腐葉土が混じったその土は、養分をたっぷりと蓄えているようだった。
視線を巡らせると、谷の縁や水際に草が群生している。丈は低く、葉は厚みがあり、朝露をたっぷりと含んで艶やかだ。
(湿り気を好み、冷たい土に根を張る薬草には、鎮静や解熱、消炎作用を持つものが多いわ。あの辺りのものも、きっとそう)
これまで学んできた知識が、頭の中で展開されていく。
朝霧が長く留まることで、直射日光から守られ、乾燥が防がれる。水はけが悪い分、成分はゆっくりと蓄えられる。まさに、薬効を高めるための環境そのものだ。しかも、腐った匂いも強くない。
(この湿地帯が放置されていただなんて、本当にもったいない。ここはまさに、宝の山だわ……!)
霧の向こうで、水が静かに流れる音がする。地下水か、上流から染み出す清流だろうか。水が動いているから、酸欠で根が窒息するほどではないのだ。……よし。
私は腰に下げていた小さな革のポーチから、細い木の杭を一本取り出し、さらに前へとずんずん進んでいく。すると。
「お、お待ちくださいリエラ様……!」
後ろで見守っていた使用人たちが、慌てた様子でこちらに声をかけ、駆け寄ってくる。我に返った私は、気まずい思いで謝罪した。
「ご、ごめんなさいね。つい夢中になっちゃったわ」
ぬかるみの中に足を突っ込み、新品のブーツはすっかり色を変えてしまった。何せローゼン男爵領で薬草の研究をしていた頃は、もっと簡素な服を身にまとい、平気で泥にまみれて作業していたのだ。
「何か必要な作業がございましたら、我々が代わりにいたしますので……!」
「え、ええ。……じゃあ、この杭を、あの辺りに刺してきてくれる?」
私が怪我でもして帰宅すれば、彼らがレオン様から叱責を受けることになるのだろう。そのことにも、きちんと配慮しなければ。私はもう、一人でどこへでも踏み込んでいっていい立場ではないのだ。
内心ひそかに反省しながら、動きやすい作業着で来てくれている使用人たちに指示を出す。
霧が濃い範囲と、霧が切れて少し日が差し込んでいる湿地の縁。そして、わずかに隆起し固くなっている、乾いた地面。私は少し離れた場所から指示を出しながら、それぞれの場所に杭を刺してもらう。それらが地面に打ち込まれるたび、鈍い音が湿った空気に吸い込まれていった。
一番霧の濃い場所では、杭が驚くほどすんなりと沈んだ。使用人が少し力を加えただけで、ぬかるみが杭を吸い込んでいく。
(あの深さなら、根が呼吸できない。湿り気を好む薬草でも、ここは避けた方がいいわね……)
次に、湿地の縁。こちらは表面こそ湿っているものの、杭を打ち込むと、途中でわずかに抵抗があるようだった。
(あそこは水位が安定していそうね。霧も溜まるけれど、長く留まりすぎはしない)
そして最後の、隆起した地筋。杭は途中で止まり、使用人が少し体重をかけなければ入らなかった。
(あそこは排水がいいわ。霧が晴れた後の乾きも早いはず……)
三か所を見比べながら、私は頭の中で線を引いていく。
(湿地の深いところを避けて、この縁と、この地筋を繋げば……)
水が溜まりすぎる場所から、自然に流れ出る道筋。
そこを少し整えれば、無理に水を排除しなくても、ちょうどいい湿り気を保てるはずだ。
(排水路は最小限でいいわね。土をいじりすぎると、この環境が壊れてしまうもの。でも、少しだけ水の流れを整えれば、さらに薬草栽培に適した環境になるはずだわ)
私はしゃがみ込み、再度指先で土をすくった。
冷たく、細かく、わずかに鉄の匂いが混じっている。
(この土なら、根を張る力が強いはず。成分をじっくり蓄える薬草が向いているわ。よし……っ)
見て触れて確かめた全てを記録するため、私は手袋を外し、腰のポーチから持参してきた小さなノートとペンを取り出す。そして一心不乱に全てを書き留めた。
回りたい場所は他にもまだまだあったけれど、湿地帯の調査に予想以上に時間がかかってしまい、今日はここまでということになった。名残惜しいけれど、他の場所は後日だ。
帰宅後、湯浴みと着替えを済ませ少し休憩をとると、次はマナーの勉強に移った。
レオン様とテオ先生のお母様である前辺境伯夫人の別邸には、来週いよいよご挨拶に伺うことになっている。最近あまり芳しくなかったという前辺境伯夫人の体調が、だいぶよくなってきたそうなのだ。
初対面で悪い印象を持たれたくはない。薬草栽培のための実地調査ももちろん大事だけれど、こちらも抜かりがあってはいけないのだ。
屋敷にお戻りになったレオン様と夕食をともにしている時に、湿地帯が薬草栽培に大きく期待できる環境であったことを報告した。
「そうか、よかった。ただ、研究のために薬草を採取するのなら、本格的な冬が来る前にできるだけ採っておいた方がいいね。リングレンの冬は長い。雪が積もれば、湿地帯や森へ入るのは難しくなる」
「はい。薬草そのものは、地上の葉が枯れても根が生きていたり、種の状態で春を待ったりするものもありますが、冬の間に使いたい分は、雪が積もる前に確保しておくべきですね」
「ああ。十分な量を確保できるよう、君に同行する人手をもう少し増やそうか」
「ありがとうございます。これから他の場所も回るつもりなので、その都度採取する種類や必要な量を整理していきます」
(リングレン辺境伯領の冬……。きっと経験したことのない、すごい寒さなんだろうなぁ)
妙な話だけれど、なぜだか無性にわくわくしてくる。
きっと、その長く厳しい冬を、孤独や不安の中で乗り越えるわけではないと分かっているからだ。
私を対等に扱い、優しく接してくださるレオン様と、常に私を気遣ってくれる屋敷の皆。その人たちとともに、この地の一員として迎える初めての冬が、少し待ち遠しくさえ感じられる。
ローゼン男爵領やフェルナー伯爵領にいた頃は、経験したことのない気持ちだった。
(……ふふ。本格的な冬が来る前に、できることをしておかなければね)
夕食後、私室に戻った私は、夜までマナーの勉強を続けたのだった。




