21. 甘い言葉
鉱山の風景を遠くに眺めながら、馬車は緩やかに進んでいく。
「体も冷えてきたし、疲れただろう。もう少ししたら、休憩できる場所がある。そこで昼食にしようか」
「はい、レオン様」
彼の言葉に頷いた瞬間、小さくお腹が鳴った。高揚のあまり、自分が空腹であることにさえ気付いていなかったらしい。
馬車は高原の緩やかな起伏を越え、放牧地を見下ろす小高い場所へと差しかかった。
羊の群れが点々と白い影を落とし、遠くでは軍馬がゆったりと草を食んでいる。
そのすぐ脇に、木と石で造られた、小ぶりで頑丈そうな建物が見えてきた。そばには小さな厩舎も備えられている。レオン様が言った。
「ここは、狩猟小屋だ。もっとも、最近は狩りよりも、こうして視察をする際の休憩所として使うことの方が多いけれどね。長居をすることはないが、寒さをしのぐにはちょうどいい」
馬車が止まると、すぐに建物の中から作業服を着た中年の男性が出てきた。彼は恭しく扉を開けてくれる。
中へと一歩足を踏み入れた瞬間、柔らかな温もりが頬を撫でた。
(わぁ、暖かい……)
室内の暖炉には、赤々と火が灯っている。壁際には、木製の長椅子とテーブル。窓からは高原の景色が一望できた。
扉を開けてくれた男性を、レオン様が私に紹介する。
「彼は、この小屋と一帯の管理を任せている責任者の一人だ」
「お待ちしておりました。領主様、奥様。どうぞ、こちらへ」
「はじめまして。よろしくお願いします」
そう挨拶を返しながら、レオン様が妻を迎えたことをもう知っているのかと、少し驚いた。
席に着くと、ほどなくして昼食が運ばれてくる。
厚切りの黒パンに、温かな根菜のポタージュ。羊肉のローストは驚くほど柔らかく、ほんのりと甘い香りが立っていた。白いソースとともに、根菜を蒸したものが添えられている。さらに、小さな器に入った蜂蜜と、乾燥させた果実。
(こ、これが休憩所の昼食……?)
思わず目を瞬かせてしまう。
お屋敷の食事ほど豪華ではないけれど、どれも十分に手間がかかっていて、とても美味しそうだ。
「簡単な昼食ですまないね。視察の日は、基本的にこの程度のものだ」
そう言って、レオン様はスープを口にする。
「この程度だなんて……! 十分すぎるほど美味しくて、幸せです」
口にした焼き立てのパンも温かいスープも、冷えた体に染み渡る。幸せを感じ、思わず息がこぼれた。
「はぁ……。体の芯から温まります」
「はは。それはよかった。マナーなど何も気にせず、気楽に食べるんだよ」
「……はい」
(朝と同じことを言ってくださってる……)
失態に落ち込む昨夜の私が、よほど憐れに見えたのだろうか。
私にそう声をかけてくれたレオン様は、静かに食事を続けている。
その端正な横顔を時折盗み見ながら、私はこれまで経験したことのない、もどかしさを覚えていた。
早くこの方に相応しい女性になりたい。
逸る気持ちは、膨らんでいくばかりだった。
しばらく休憩し、辺境伯領についてレオン様と語り合い、私たちは小屋を後にした。
再び乗り込んだ馬車は、ゆっくりと丘を上りながら屋敷への帰り道を辿る。
その途中、私が興味を示す場所があるたびに、レオン様が馬車を停めてくださり、その都度降りて二人で散歩をした。
綺麗な革の靴を履いているから、足場の悪い場所には行けなかったけれど、遠くから羊たちを眺めたり、子どもたちが駆け回っている村の近くを歩いたりと、新鮮で楽しい時間を過ごした。
レオン様の隣にいるだけで、妙に胸がドキドキする。それでいて、その存在が頼もしく、そばにいるととても安心するのだ。
「……ふふ。ここの子どもたちは、皆元気ですね。肌寒いのに、あんなに薄着で走り回って」
家々の周りで追いかけっこをしている子どもたちを見ながら私がそう言うと、レオン様は目を細める。
「ああ。生まれた頃から寒さに慣れているからね。この辺りは、体の丈夫な子どもが多いよ」
そう言ってから、彼はふと、私の方へと視線を向ける。
「子どもたちを見て、思い出した。気になっていたことがあってね。君に、聞いてみたいと思っていたのだが」
「気になっていたこと、ですか?」
私が問い返すと、レオン様はゆっくりと頷く。
「なぜ、ローゼン男爵家の子女の中で、君だけが平民学校に通っていたんだい?」
「……っ」
不意を突かれ、心臓が大きく音を立てた。
「男爵夫妻からの手紙には、一人は薬学を学ばせたかったからだと書いてあった。だがそれだけの理由なら、貴族学園に通いながらでも可能だったはずだ。それに、領地の特産品に関する知識なら、むしろ嫡男が学ぶべきだ」
「……そう、ですよね」
私は一度小さく息をつくと、観念して話しはじめた。夫となったこの方に、取り繕うための無駄な嘘はつきたくない。
「正直な理由を申し上げますと、貴族学園の費用を三人分捻出するのは、我がローゼン男爵家にとってかなり難しいことだったんです。けれど父は、嫡男の兄と美しい妹を、王都の王立学園に通わせたかったようで。だから私だけは、費用の節約のために平民学校へ通うことが決まりました。私は実務に必要な知識さえ学べればいいから、と」
「……どういう意味だ? なぜ、君ではなく妹君の方が、王立学園へ?」
レオン様には、よく意味が分からなかったらしい。自嘲めいた笑みが、勝手に浮かんでしまう。
「妹のマチルダは、見目麗しく華やかなんです。地味で暗い私とは、比べものにもならないほど……。マチルダなら王立学園でいい人脈を築き、あわよくば高位貴族家のご令息との良縁を得ることも期待できると、父はそう考えたんです。だけど、その可能性のない私には、貴族学園はもったいない、と」
口にすれば自分がますます惨めになるかと思ったけれど、意外にもそんな気持ちは湧いてこない。きっと今の自分が、とても幸せだからだろう。
むしろこうして言葉にしてしまうことで、これまで胸の奥に沈んでいた悲しさや苦しみが、少しずつ薄れていく気さえした。
「結果的に、薬学を深く学べたことを、今では感謝しています。テオ先生……、テオドール様にも出会えましたし。あの方は本当に素晴らしい先生でした。今の私に繋がる道を作ってくださったのも先生ですし、もう私にとっては、一生の恩人です」
そう言ってレオン様を見上げると、彼は真面目な顔でこちらをじっと見つめている。
「……地味? 君が?」
そう言うとレオン様は、心底不思議そうに眉を寄せる。
「一体、どこが地味なんだろうか。私には、全くそうは見えないのだが」
「……え……、へっ?」
彼のその言葉に、思わず素っ頓狂な声が漏れる。
戸惑い見つめていると、レオン様は淀みのない口調で言った。
「出会った瞬間から、私は君を地味だとか暗い雰囲気だとか、微塵も感じなかった。昨日、玄関ポーチで出迎え、初めて君を見た瞬間、なんと可憐で美しい女性だろうと、むしろ見惚れてしまったくらいだ」
「…………え?」
(レ、レオン様……?)
とても冗談を言っているようには見えない。けれど、その唇から紡がれる賛辞は、私にはあまりにも似つかわしくないもので……。
私は彼を見上げたまま、石像のように固まった。
レオン様は、まるで当然のことのように言う。
「君の周囲にいた人たちが、何をもって華やかだとか地味だとかを判断しているのかは分からないが、君はとても端整な顔立ちをしているんだよ、リエラ。しかもとても上品だ。落ち着いた深い瞳の色も、とても美しい。自分を卑下する必要はないよ」
「……レ……、レオン様……」
雄弁に語られる、私への聞き慣れない賛辞。それらを聞いているうちに、私の頬がじわじわと熱を帯びはじめ、やがてその熱は全身に広がった。
耳まで火照らせながら無意味に口をパクパクさせている私に向かい、レオン様はさらに言葉を重ねる。
「ただでさえ魅力的なのに、今日こうして領地を回りながら目を輝かせている君は、とても溌剌としていて、一層美しかった。君を妻に迎えることができた自分を、果報者だと思ったよ」
そう言うと、レオン様は私の頬をそっと撫で、くすりと笑った。
きっと今、私の顔は真っ赤に染まっているのだろう。だって、こんな甘い言葉を浴びせられたのは、生まれて初めてなのだ。平常心でいることなど、とてもできない。
頬を撫でるレオン様の指先が冷たく感じられるほど、体中が火照っていた。
どう答えればいいのか分からず、私はただただレオン様を見つめ続ける。
逃げ出したいほど照れくさいのに、本当に石になってしまったかのように、視線一つ動かせない。
彼はとても甘い声で、私の心にとどめを刺した。
「領地のことを考えて持ちかけた、いわば政のための婚姻のつもりだった。だが、相手が君で本当によかった。リングレンに来てくれてありがとう、リエラ」
そう言うと、彼はそっと私の手を取った。
(~~~~っ!?)
レオン様は、そのままゆっくりと歩きはじめる。
そこから屋敷に戻るまでの記憶は、ほとんどない。寒さはもう、微塵も感じなかった。
この日から私の世界の中心が、レオン様になったのだった。




