17. 幸せの涙
美味しいデザートを堪能している時、レオン様が私に尋ねた。
「君はたしか、十八歳だと聞いているが」
「はい。そうです。兄のアントンが二十歳、妹のマチルダが十七歳です」
「そうか。じゃあ君と私はちょうど十離れているわけだ」
(十……。レオン様は、二十八歳でいらっしゃるのね。やっぱりお若い……)
レオン様は、小さく苦笑した。
「辺境伯という肩書きに加え、歳もこちらが十も上だから、身構えてしまうかもしれないが、何も気にしなくていい。自然に接してくれればそれで」
「は、はい。……ありがとうございます」
自然に接することができるまでには、まだだいぶ時間がかかりそうだ。でも、こうして会話をすればするほど、この方の温かい人柄にとても安心する。
ふと私は、一つ残った疑問を口にしてみた。
「あの、レオン様。テオ先生……、いえ、テオドール様は、おいくつでいらっしゃるのですか?」
するとレオン様が、さらりと答える。
「テオドールは私の一つ年下でね。今二十七歳だ」
「そうなのですね」
テオ先生は、私の九つ上だった。子どもの頃はもっとずっと年上だと思っていたけれど、やはりそこまで離れていたわけではなかったらしい。
「……テオドール様は、なぜローゼン男爵領で平民学校の先生をなさっているのですか?」
私の疑問に、レオン様は淀みなく答えてくださった。
「テオドールは、王都にある専門の学校で、学問を修めていた。あいつは薬学だけではなく、医療全般にも精通していてね。我が領地の特産品である鉱物についても、深く学んできている。本来なら、王都の研究機関や貴族向けの学院に進む道もあったのだが」
「では、どうしてわざわざ男爵領に……?」
「本人が望まなかったんだ」
レオン様の言葉に、私は目を瞬かせた。
「王都で限られた人のためだけに知識を使うよりも、もっと自分の知識が必要だと思える場所で役立てたい。そんな風に考えたらしい。王都にはすでに、腕のいい医師や薬師が何人もいるからね」
「必要としている場所、ですか」
「ああ。学校を卒業してからは、このベルティア王国内の様々な領地を回り、治療に当たったり、若者に知識を教えたりしているんだ」
「そうなのですね」
「その流れで、いつの間にかローゼン男爵領に腰を据えたようだな」
(……テオ先生らしいな……)
そう納得しながら、先生の優しい笑顔と、授業の時の親身な様子を懐かしく思い出す。
その後、レオン様はリングレン辺境伯家の事情に少し触れた。
レオン様とテオ先生のお父上である前辺境伯は、五年ほど前に亡くなり、その後レオンハルト様が当主となったそうだ。
お二人の母君──前辺境伯夫人は、その頃から本邸を離れ、静かな環境で暮らすために別邸へ移ったのだという。と言っても、重い病を患っているわけではないらしい。長年領主の妻として多くの責務を担い、心身ともに疲れが溜まっていたのだそうだ。人の出入りの多い本邸では落ち着かないため、当主がご子息に代替わりしたのを機に、静養を兼ねて別邸で暮らすことを選ばれたという。
その別邸は、この本邸から馬車で小一時間ほどの距離にあるそうだ。
落ち着いた頃に挨拶に行こうと、レオン様はおっしゃった。
話が途切れると、レオン様が自然に席を立ったので、私もつられるように立ち上がる。そして、二人で食堂を後にした。
この後はどうすればいいのかと戸惑っていると、レオン様が私に話しかけながら、階段の方へと歩きはじめた。少しほっとして、私も彼に続く。
「私の私室は、君の部屋のすぐそばだ」
「あ、そうなのですね」
夫婦だものね。お部屋が近いのも当然か。
そう思っていると、レオン様がさらりと言った。
「ああ。君の部屋の中に、扉が一つあっただろう。あの奥が夫婦の寝室だ。私の部屋は、その寝室を挟んださらに奥にある」
「……っ」
その言葉に、思わず息を呑む。
そうだ。寝室……。
私はこの方の妻として、ここへ嫁いできたのだ。
つまり、今夜からは、この方と一緒に……。
そのことを意識しはじめた途端、さっきまでのふわふわとした幸福感が一瞬にして消し飛び、強烈な緊張が襲ってくる。心臓が激しく脈打ちはじめた。
馬車での道中、すでに心の準備はしていたつもりだった。それなのに、いざその時が来たとなると、途端に泣きたくなるほど心が怯む。
(初めてだって、ちゃんと説明しなきゃ……。だ、大丈夫。お優しい方だもの。きっと、ひどい夜にはならないわ……)
そう自分に言い聞かせながら、レオン様の後ろを歩く。
部屋の前に辿り着いた時、彼が振り向き、私の顔を見た。思わず肩が跳ね、私は唇を引き結びレオン様の言葉を待った。きっと、何かしらの指示があるのだろう。何時頃に寝室に来るように、とか、湯浴みを済ませておくように、とか……。
けれど、レオン様はしばらく私のことを見つめた後、なぜだか困ったように眉尻を下げ、小さく笑った。
「……今夜はとにかく、ゆっくり休むといい。君の部屋の寝台は一人用だが、作りは大きく、寝心地がいいはずだ」
「……え……?」
(ど、どういう意味かしら……。まさか、一人で眠れということ……?)
言葉の真意を理解できず、縋るように彼を見上げていると、レオン様が低く穏やかな声で言う。
「いろいろと、急ぐことはない。私たちは今日出会ったばかりだ。君もまだ、環境が変わったばかりで落ち着かないだろう」
「……レオン様……」
彼は静かに、言葉を重ねる。
「まずは、ここでの暮らしに慣れていくことだけを考えたらいい。それから、ゆっくりと互いのことを知っていこう。今はそれで十分だ。私もしばらくは、自分の部屋で休むよ。……おやすみ、リエラ。また明日」
そう言うとレオン様は私に背を向け、当然のように歩き出した。そして奥にある部屋の扉を開けると、その中へと入っていったのだった。
「……えっと……」
「リエラ様、どうぞ」
背後から声をかけられ振り返ると、食堂からここまでついてきていた侍女の一人が、私の部屋の扉を開けてくれている。
「え、ええ」
後ろ髪を引かれる思いでレオン様の部屋の方を何度か振り返りながら、私はおずおずと自分の部屋に戻った。
侍女が私に言い聞かせるように、優しく教えてくれる。
「しばらくは、閨のことはお考えにならなくていいという、旦那様のお気遣いでございますわ」
「……やっぱり、そういう意味よね……?」
「はい。ご結婚が決まり、リエラ様がここにおいでになるまでの間、旦那様は細やかに心を砕いておいででしたから。リエラ様を温かくお迎えし、ここでの生活に馴染んでいただくこと。それを一番に考えお仕えするよう、私たちにもおっしゃっていました。どうぞ、旦那様のお気持ちですので、何もお気になさらずゆっくりなさってくださいませ」
「……ええ。ありがとう」
胸がいっぱいで、それ以上言葉にならなかった。
彼女たちに湯浴みのお世話をされ、まるでとても大切なもののように、体中を丁寧に洗われる。
湯浴みを終えると、侍女たちは手際よく私の身体を拭き、温めた香油を少量ずつ肌へとなじませていった。優しい香りが、ふわりと立ちのぼる。
足のつま先から手や肩まで、疲れをとるように揉みほぐされ、くすぐったさと心地よさに体中の力が抜けた。
寝台に入ると、柔らかく心地いい温もりが、全身を包み込む。寝具の布地が上質だからだろうか。体や頬を撫でられているような滑らかさだ。足元には湯たんぽまで入れられていて、つま先もぽかぽかと温かい。
そんな寝台に横になり、大きな窓にかかるカーテンの隙間から差し込む月明かりをぼんやりと見ているうちに、いつの間にか私の頬には涙が伝っていた。
それに気付いた途端、ますます涙が溢れてくる。
(……幸せすぎて泣けてくることってあるのね……)
こんな夜を迎えられる日が来るなんて、想像したことさえなかった。
こんな温かな涙があることも。
昨日までの冷遇され続けた日々が、まるでもう遠い昔のことのように感じられる。
レオン様の、穏やかな眼差し。胸に沁みる言葉の数々。
急かすことも押し付けることも、責めることもしない。ただ今の私を受け入れ、歓迎してくださる彼の優しさに、私の胸は小さな火を灯した。
(絶対に、あの方の隣に立つに相応しい妻になる……! 知識も、経験も、これまで積み重ねてきた全てを、このリングレン辺境伯領で活かしていこう。レオン様やテオ先生、それにこのお屋敷の人たちのご厚意に、きっと応えてみせるわ……!)
新たな決意に燃える私は、やがてゆっくりと、深い眠りの中へと落ちていったのだった。




