15. 失態
「あ……ありがとうございます、辺境伯閣下」
覚悟していたものとは真逆の、優しいお言葉。
今日は一体、何なの……? もう心臓がもたない。
こんな素敵な殿方が、私を受け入れるように、穏やかに微笑んでいる。
私の人生に、こんな夢のような日が来るなんて……。
「さぁ、ここにお座り。離れていると話がしづらいからね」
そう言うとレオンハルト様は、ご自分が座っている長テーブルの端から最も近い場所を指し示した。そこにはすでに、食器やカトラリーが準備してある。
私は言われた通りに、その席に腰かけた。緊張で喉が渇き、ヒリヒリする。
奥行きのある広い空間には、美しい装飾の施された椅子が整然と並んでいる。こんな豪奢な食堂で食事をするのも、もちろん初めてのことだ。
何人もの使用人が、姿勢を正し壁際に控えている。
「長旅の疲れはまだ残っているだろうけれど、少しはゆっくりできたかな。遠慮なく、たくさん食べるといい」
「は、はい。ありがとうございます、辺境伯閣下」
(う……。声が上擦っちゃったわ……)
恥ずかしくなり、全身にじんわりと汗が浮かぶ。レオンハルト様が小さく笑った。
「なんだか固いな。まぁ、初対面なのだから、当然か。出迎えの時にはこちらも、夫婦になるのだからと言ったり、リエラ嬢と呼んでしまったりしたけれど、私たちはすでに婚姻の手続きを済ませた正式な夫婦だ。……よければ、君をリエラと呼んでも?」
「っ! もっ、もちろんでございます」
私がそう答えると、彼は息を忘れてしまうほどの笑顔を見せる。
「ありがとう、リエラ。私のことは、レオンとでも呼んでくれ」
「……レ……、レオン様……」
「うん」
耳まで火照らせながら小さくそう言うと、レオン様は満足げに頷いた。
「部屋の居心地はどうだ? 何か足りないものがあれば、その都度言ってくれて構わないからね」
「い、いえ! 足りないものなんて何も……。あの、テーブルの上のお花が、とても素敵でした」
そう伝えると、レオン様は嬉しそうに言う。
「そうか。気に入ってくれたのならよかった。庭園の奥の温室で育てているんだよ。近いうちに案内しよう」
(温室……。素敵……)
さりげないその一言に感動しながら、言い逃してしまわないうちにと、私はお礼の言葉を重ねる。
「ぜひ拝見したいです。……それに、たくさんの美しいドレスや小物も、アクセサリーも、本当にありがとうございます。どれもとても素敵で、しばらく見惚れてしまいました」
「よかった。安心したよ。若い女性の好むものなどあまり分からないから、侍女たちに意見を聞きながら、あれこれと頭を悩ませた。はは、新鮮な経験だったよ」
そう言って楽しそうに笑うレオン様のお顔を見て、かすかな甘い疼きを覚える。本当に、素敵なお方だ。
そうしているうちに、使用人たちが音も立てずに次々と料理を運んでくる。
「さぁ、まずは食事にしよう」
「は、はいっ」
彼の言葉にそう答え、私はお水を一口いただいて喉を潤すと、目の前に置かれたお皿に視線を落とす。
(わぁ……っ! なんて綺麗で美味しそうなお料理なの……!)
湯気の立つ澄んだスープの表面には、細かく刻まれた香草が散らしてある。がっついてしまわないようにと、一匙ずつゆっくりと口に運ぶ。
(お、美味しい……! こんなに美味しいスープ、初めて食べたわ。この世にこんなに美味しいものがあったの!?)
私はひそかに感激しながら、薄くスライスされた魚に色鮮やかな野菜をあしらった前菜や、焼きたてのパンにも、そっと手をつける。黄金色に輝くバターの風味に、舌がとろけそうだ。
(し……、幸せ……っ!!)
実家では幼い頃からずっと質素な食事をしてきたし、フェルナー伯爵家でも、冷えた残り物を厨房の隅で食べる生活を続けていた。
口にしたことのない料理の数々に驚き、その美しい盛り付けに圧倒されながら、私は頭の片隅で自分に言い聞かせ続けた。
(お行儀よく、お行儀よく……)
田舎の貧しい男爵家育ちなうえに、平民学校にしか通っていない私。フェルナー伯爵家では必死になって貴族のしきたりやマナーを頭に叩き込んできたけれど、実際にこのような貴族らしい食卓についたのは、今が初めてだ。
高揚と緊張、そして知識しか持たない不慣れさが、やがて私に失態を犯させた。
鹿肉を赤ワインで煮込んだ主菜をいただいている時だった。
フォークで押さえながら、固くもないその肉をナイフでほぐしていた、その時。
(っ!! あ……っ)
力みすぎず優美に……と意識するあまり、私の右手から突然、ナイフがするりと滑り落ちてしまったのだ。
お皿の端にぶつかり不快な金属音を立てながら、ソースのついたナイフは床へと転がり落ちた。
「……っ! も……申し訳ございません……っ!」
ソースで汚れた絨毯を見て、頭が真っ白になる。
しまった。やってしまった。上手くやらなきゃ、行儀よく振る舞わなきゃと、あんなに気を付けていたはずなのに……!
焦って立ち上がりかけた、その時だった。
「大丈夫だよ、リエラ。座っていなさい」
さっきと全く変わらないレオン様の優しい声に、私はおそるおそる彼の方に視線を向ける。
レオン様は何も気にしていないかのように、相変わらず優しく微笑んでいる。
「で……ですが……」
背中に浮いた冷たい汗が、ドレスに貼り付く。
混乱しているうちに、床に落ちたナイフは控えていた使用人によって、すばやく回収される。同時に、新しいナイフが私の前にそっと置かれた。
別の使用人が絨毯を手早く拭き、まるで何事もなかったかのように、皆もとの配置へと戻っていく。
食堂に控えている他の使用人や私付きの侍女たちは、誰一人としてこちらに視線を向けず、気まずさを煽るような空気もない。
それが、かえって胸に刺さった。
「……本当に、申し訳ございません……。不慣れで……」
恥ずかしさと、失望されたのではないかという不安に、声が震える。
そんな私に、レオン様は表情を変えることもなく、温かい言葉をかけてくださった。
「謝る必要など何もないよ。むしろ、こちらこそ配慮が足りなかった。旅の疲れもあるだろうに」
「……え?」
「初めて訪れた屋敷での、初めての食事だ。緊張するのも当然だろう。もう少しくつろいだ空間を作ってあげるべきだったな」
(……レオン様……)
気遣いに満ちたその言葉に、胸の奥が強く締めつけられる。
「……それに」
彼はわずかに、声のトーンを落とした。
「私は別に、完璧な辺境伯夫人を求めて、君を迎えたわけじゃない。改まった席でのマナーなど、これからゆっくりと覚えていけばいいさ」
どこまでも優しく穏やかな彼の眼差しに、思わず涙が滲み、視界が揺らいだ。
「……ありがとうございます。レオン様……」
慌てて視線を逸らしながらそう伝えると、彼は空気を変えるように明るく言った。
「さぁ、食事を続けよう。料理が冷めてしまう。今日は君のためにと、シェフたちが特に張り切って準備していたからね」
「……はいっ。どのお料理も、本当に美味しいです」
レオン様の気遣いを無駄にしないよう、私も精一杯の笑みを返す。そして気を取り直し、再び目の前の美食を堪能した。
主菜が終わり、果実を甘く煮込んだものや蜂蜜のかかった焼き菓子を味わっていると、レオン様が突然、私に言った。
「私に対するあらぬ噂が広まっていて、ここに来るまで、きっと不安な思いをしていただろう」




