0 崩壊の日
カンカンカンカン・・!!
早く高く半鐘が打ち鳴らされた。
町のあちこちに建てられている、古式ゆかしい櫓の上部に設えられた、それ。町並み保存の飾りが、まさか現役で使われることがあるのか、と聞きつけた人々は半信半疑で四方を見渡した。
「火事・・?」
鐘を鳴らす危急など他に思い当たらない。
「どこ・・?」
煙が見えるだろうかと周囲を見渡し、不安げな顔で端末を取り出して、はっきりと顔を強張らせた。
圏外、あるいは検索中。
復旧するかと望みをかけて画面をタップするが、通信を必要とするアプリはことごとく動かない。
カンカンカンカン・・!!
不安を煽るように半鐘は鳴り続ける。
何かが起きている。起きようとしている。だが知る術は断たれている。
カンカンカンカン・・!
カンカンカンカン・・!
呼応なのか別の報せなのか、四方八方から鐘の音が重なり合って、空間を震わせる。
夕方の気配が少しずつ増しているが、空はまだ十分に明るく、からっとした、気持ちの良い風が吹く、休日の午後だった。
いつも通りに暮れて、穏やかな夜が来て、忙しい週の始まりが来る。多少は休みの日の午後の憂鬱を覚えつつも、明くる日は変わらずに来ると疑いもなしにいた----最期の、とき。
通りにいた者も、家で過ごしていた者も、町のどこに在っても(音量に差があっても)緊張と焦燥を否応なくはらんだその音に、だれもが胸元の布を握りしめていた。
それは----本能で感じる恐怖を抑える仕草であった。
この安寧が仮初のものにすぎなかった、と伝える嚆矢であった。
櫓の近くにいた者たちは引き寄せられるようにその下に集まってくる。
腕も折れよとばかりに連打しているのは、《町並保存協会》の若い職員だ。揃いの黄橙色の上着を着ている職員は、頬こそ真っ赤に紅潮させていたが、ひどく蒼褪めているようにも見えた。
「おおーい!」
少しの譲り合い、牽制があって、声があがった。
「何の報せだい?」
「何かの訓練、とか・・撮影とか?」
「鳴らすのなら事前に報せてくれないと、びっくりするじゃないか。」
ここに至っても、返事が起きているとは想定しない気楽な様子であった。いや、あえて鈍感を装って堪えようとしていたのかも、しれない。
職員の返事は短かった。
「逃げろ!!」
叩く手は止めることなく、肩で息をしながら、職員は鋭く叫んだ。
「逃げろ? 逃げろって・・あんた?」
何を言われているのか理解できない群衆は、困惑を漂わせてざわめく。
なぜ。
どこへ。
説明を求める声は無秩序であるから、ただの声の渦でしかない。
その中の、集団の外縁近く、不安そうに眉を寄せた母に手を引かれた子どもが、繋がれていない方の手をあげて、指し示した。
「お母さん、榊が茶色いよ。」
決して大きな声ではなかったが、澄んだ子供特有の声は周囲に拾われ、そして外海から湾内に波が寄せるように伝わっていき、誰もが改めて櫓を見上げたのだ。
櫓の四隅には絶えることなく榊が飾られていた。おそらく、《町並保存協会》の職員がその予算で行っていたのだろう。花のように、分かりやすく目を楽しませるものではないが、いつでも瑞々しい緑を保って清涼を与えていたものだが、・・今日に限って取替を怠ったのか。
----いや。
はじめは葉の数枚が変色していると見えただけだったのに、見る間に茶色が広がり、灰色になり、干からびて・・まるでドライフラワーが握り潰されたように粉々になって、----消失した。
悪い夢。あるいはどっきりの仕掛けか。現実とは思えぬことに、群衆はし、んと静まり、引きつった顔をするばかり。
「何をしているんだ!」
ばちを振り下ろすたびに、飛び散るのは血か。
「早く逃げろ!」
「・・いや、だから、」
どうして。
ぶわり。
言い表せぬ悪寒だった。見えざる手が撫で上げたように、誰もが首筋を押さえた。
町の外の方へと、空を振り返った。
初夏の気配を帯び始めた青。雲一つなかった空の遠くに、黒いものが浮かんでいた。
まずは雲だと考えた。
「早くここから離れるんだ!」
感情を抑えようとしている声だ。
「頑丈な建物の中に入れ。窓や戸をきつく閉じて、地下があるのならそこへ。」
「竜巻でも起こるのかい?」
なおのんびりと問うたが、その黒いものはみるみる空を侵食していった。
雲霞の如く、とはまさしく。
そして。音が、----とても不快な音調で、届き始める。
群衆は目を凝らし、見開いていく。
「・・・・虫?」
ブン・・、という空気を震わせる無数の重なり。生理的な嫌悪感がくる。
あの黒い、空一面に染みのように広がっていくものが・・。
榊を指摘した子の母が、子の腕を引いて身を翻した。それを追うように群衆は麻のように乱れた。
自分が思う安全な方向へ、秩序なく、混乱のまま、押し合い、つき飛ばし、踏みつけさえして。
この日の最初の悪夢で、もっとも軽微なものではあったのだけれど。
群れに先んじたものが、群衆の中に飛び込んできた。それに取り付かれた人が、けたたましい悲鳴を上げて手足を振り回した。
地面にたたき落されたのは、真っ黒な体色の虫だった。長く、屈曲した触角がうぞうぞと動き、がっしりとした脚には大きな鉤爪。頭は台形で、大きな顎と半円状の複眼、体は逆二等辺三角形、大人の男の拳ほどのサイズである。
「・・なんだ、これは。」
威嚇するように、警戒するように、ジジジジジジ、と羽音を立てて、うぞうぞと蠢いている。
見たことのない、虫だった。
だが、誰もが息をつめて、後ずさっていた。
それは根源的な、----記録からは消えても、血肉が、魂が記憶していた・・のだろう。
凝視していた時間は短い。そこかしこで耐えられないとばかりに悲鳴が上がりだす。黒いものは次々に飛来し、人々にたかろうとする。
「逃げろ!」
櫓の上の職員は半鐘を鳴らすのを止めていた。
「すぐ本隊がくる! ヤツらにかじられないところへ! 厚い壁のあるところへ!」
せめて、と必死の形相だった。
空を覆いつくそうと迫ってくる、嵐の前のような黒雲が----あれがすべて、虫だとするのなら、いったい何が起きるのか。
今でさえ、鋭い顎で噛みつかれて悲鳴を上げる者が続出している。
職員が握っていた、血まみれのばちを振りかぶって投げた。血の滴をまき散らしつつ、ばちは弧を描いて飛んでいく。その動きに吸い寄せられるように、その場の虫たちが飛び上がったものだ。
「頭から上着を被れ。肌を出すな。ヤツらにかみ切られぬように努めろ!」
学校を出たばかりの若い職員だった。人当たりの良い笑みを浮かべて、櫓をまわって、広場を清掃し、掲示物を整えて、いた。
しかしいま、職員が発した声は、まるで戦場の指揮官を思わせた。
群衆は声に押されるように、彼が示す手の方向、町の----櫓に囲まれた内側に----中へと、もつれる足取りで駆けて行った。
櫓前の広場に残ったのは、職員が投げたばち。
おぞおぞと、死骸に群がる地虫のようにたかっていた黒い虫たちが、前触れもなく宙に弾かれたと思うと、真白な炎に包まれて燃え尽きた。同時に、群衆のあとを追っていた一団が同じように消失した。
人々はもう振り返る余裕もないから、誰も知ることはなかった。
櫓の上で、黒く染まっていく空を見上げている職員は、いつの間にかその身長ほどの、槍のようなものを携えていた。
数本の側枝を有つその枝を、職員はゆっくりと大きく、横に薙いだ。
光の線が伸びていき、最初はただ宙に霧散するだけだったが、やがて他の方向----別の櫓から同様に放たれた光と絡み、線は伸びていく。
「・・南が動かない。」
本来ならば、四つの櫓が結ばれて四角の結界が成る。この真北から真東に、真東から真南、真南から真西、真西から真北へと循環する。ところが、南は東を受けず、西へ伸ばさない。
櫓を空席にすることは許されていない。表向きには九時五時の営業だが、宿直もいる。
鐘は南から鳴った。居ないはずがない。なのに、いま反応がない。
ひときわ黒い南側の空を睨んで、枝を握る手に力を込めた。
侵入は、まだ五月雨だが、じきに豪雨となる。傘を適切に差さねば、ずぶ濡れになる者を増やすだけだ。
南を待たず、東から西に結ぶことも可能だが、護れる範囲は1/2弱に落ち込む----切り捨てる決断を、いま迫られている。
南が主座、北は次点だ。南が応えないのなら、北が負わねばならない。
職員は《町並保存協会》内では若輩だが、それでも権限はここにある。
接近する黒虫の群れを枝を振って消滅させ、そのままもう一度、祈りを込めて封じの光の線を送った。
南は東を受けず、南から西に送られることは、此度もなかった。
黒い雲の到着はもはや目前だった。
----線を引かないわけにはいかないのだ。
枝を縦にして、軽く地を突いた。光の輪が打ちあがる。東と西が応えて。
そうして。
三度、職員は枝をもって横薙ぎする。
北から東に、東から西に、西から北へ。三角の封じが成立した。その見えない壁のようなものに、黒い虫たちは衝突し、消えていく。
この内側に護られた人々は、先行した虫さえ駆除できれば日常に帰ることもできるが、結界の外には恩恵はない。
----さらには。
やがて三方が閉ざされたことに気づいた虫たちは、次第に南側へと移っていく。
若い職員は枝を支えて、両手両足を突っ張りながら、真正面に当たる南の空間が黒から闇へ変じていくのから、決して目を反らさなかった。
噛み破った唇から流れた血が、襟を赤く染めていくのにも気づかぬままに。
花に 誘われとおりゃんせ
にほへる香の下 とおりゃんせ
良き実を探して とおりゃんせ
常盤なす葉の下 とおりゃんせ
すす降る闇夜に 立往生
灯りなくとも
香を追って
時じく香久の木の実が玉と為る
髪に飾りて手首に巻いて
とおりゃんせ
とおりゃんせ




