第六話 冬の値段
見たものを、見なかったことにしない。
【冬は平等に訪れる。
だが、その寒さは平等ではない。
暖炉を絶やさぬ家もあれば、一片の炭すら買えぬ家もある。
王都とは、不思議な場所だ。
同じ雪の下で、人は別々の冬を生きている。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
冬越し議会を三日後へ控えた朝。
王宮の空気は、普段以上に張り詰めていた。
廊下を行き交う役人たちは皆紙束を抱え、近衛兵たちもどこか忙しない。
評議会関係者の出入りも増え、記録局では怒号が止まらない。
「ノア!北方輸送表どこだ!」
「右の山です!」
「どの右だ!」
「僕から見て右です!」
今日も記録局は崩壊寸前だった。
机の上には帳簿。
椅子の上にも帳簿。
床にも帳簿。
もはや通路と紙束の区別が曖昧である。
冬越し議会。
アステリア王国において、冬前最後に行われる最重要評議会だった。
議題の大半は“冬税”に関するものだ。
各領地への備蓄割当。
炭搬入量。
北方街道維持費。
凍結地帯支援。
そして、冬季特別徴収。
冬を越えるためには金がいる。
だが当然、税を増やせば民は苦しくなる。
だから毎年この時期の議会は、必ず揉める。
北方領は「冬を越せねば人が死ぬ」と訴え、
南方商業領は「これ以上の徴税は流通を止める」と反発する。
中央貴族たちは数字を並べ、評議会は責任を押し付け合う。
そして最終的に、どこかの誰かが寒さを飲み込む。
それがアステリアの冬だった。
ノアは死んだ魚みたいな目で羽根筆を走らせている。
するとその時だった。
「……ノア・フェルディン」
不意に、静かな声が落ちた。
記録局の喧騒が、ぴたりと止まる。
ノアは顔を上げた。
入口に立っていたのは、灰色マント姿の少女だった。
焦茶色の短髪。
肩掛け鞄。
そして妙に落ち着いた猫みたいな目。
王室直属配達人――ユリア・レイン。
「あ」
ノアの顔が僅かに引きつる。
嫌な予感がした。
というより最近、この配達人が来る時は大体ろくなことがない。
数十分後、ノアは王宮北棟の王族私設書庫にいた。
ここに連れてきたユリアは「私は配達人なので」といつもの調子で言いながら、早々に部屋を立ち去ってしまった。
「……市場、ですか?」
窓際へ座るステラ陛下は、小さく頷く。
「炭庫も見ます」
「いや、え?」
ノアは混乱した。
「議会前ですよ!?」
「だからです」
静かな返答だった。
テーブル脇では、リア・ヴァルケインが腕を組んでいる。
「陛下。最低限の護衛は必要です」
「増やすと目立ちます」
「目立たなくても危険はあります」
「リアは心配しすぎです」
「職務ですので」
淡々としたやり取りだった。
だがノアは別方向で頭を抱えていた。
「いやいやいや、僕いる必要あります!?」
「あります」
ステラ陛下は淡々と言った。
「書記官なので」
「便利屋じゃないんですが!?」
「数字を見る目が必要です」
数刻後。
三人は王都下層区へ来ていた。
王宮から少し離れた市場通り。
石畳には薄く雪混じりの泥が残り、吐く息は白い。
空は灰色だった。
冬前の市場は、人が多い。
保存食。
塩。
干し肉。
炭。
毛布。
灯油。
皆、来る冬へ備えている。
だが同時に。
市場全体へ、どこか焦燥感みたいなものが漂っていた。
「高ぇな……」
「去年よりまた上がってる」
「この値段じゃ冬越せねぇよ」
あちこちから、そんな声が聞こえる。
パン屋の前では、女性が値札を見ながら険しい顔をしていた。
「これだけ?」
「今朝また小麦が上がったんだよ」
「昨日はもう少し――」
「嫌なら他行ってくれ」
店主の声にも余裕がない。
別の露店では、痩せた老人が毛布を何度も触っていた。
だが値札を見るたび、静かに手を離す。
路地脇では、小さな子供たちが木箱の破片を拾い集めていた。
焚き付け用だろう。
「……こんなに高いんですか?」
「最近さらに上がった」
答えたのはリアだった。
「議会前だからな。商人連中も様子を見てる」
市場中央には、大きな炭商の露店が並んでいた。
黒炭。
薪炭。
圧縮炭。
積み上げられた炭袋の横では、店主たちが忙しなく声を張っている。
「北方炭だ!今ならまだ在庫あるぞ!」
「来週にはもっと上がるぞ!」
ノアは値札を見て目を剥いた。
「えっ、高……」
去年記録局で見た価格より、明らかに高い。
しかも王宮提出資料では、ここまでの値上がりは報告されていなかった。
“軽度上昇”。
評議会提出資料には、そう記載されていたはずだ。
だがこれを軽度と呼ぶなら、王宮の連中は市場で買い物をしたことがないのだろうか。
ステラ陛下は炭袋を見つめている。
「……これ、普通の家だとどれくらい必要ですか」
リアが答える。
「家族四人なら、冬だけで最低でも六袋はいります」
ステラ陛下は値札を見る。
小さな眉が、僅かに寄った。
「……払えませんね」
その声は、本当に困ったみたいな響きだった。
ノアは苦笑する。
「王都の平民でも厳しいと思います」
「地方はもっと無理です」
リアの声は低い。
その時だった。
「お嬢ちゃん、炭見るかい?」
炭商の店主が、ステラ陛下へ声を掛けた。
今の彼女は簡素な外套姿で、王族用装飾も隠している。
リアも普段の騎士外套ではなく、無地の灰色外套を羽織っていた。
剣こそ帯びているが、所属を示す紋章は見えない。
一見すれば、貴族の子女とその護衛程度にしか見えないだろう。
ステラ陛下は少しだけ視線を上げた。
「高いですね」
店主は苦笑した。
「仕方ねぇよ。今年は搬入減ってるんだ」
「北方炭鉱ですか?」
「お、詳しいな。雪が早くてよ。街道も止まり始めてる」
店主は炭袋を軽く叩いた。
「それに最近は、役所向けの荷が増えてな」
「役所向け?」
「中央備蓄だか何だか知らねぇけど、市場へ回る前に持っていかれちまうんだ」
店主は肩を竦めた。
「おかげで、こっちまで回ってくる量が減ってる」
三人の視線が重なった。
中央倉庫。
レオニス殿下の資料にあった言葉だった。
「正直、王都民より先に倉庫が冬越しする勢いだぜ」
店主は声を潜めて、笑い話みたいに言った。
その隣では、若い母親が炭袋の値段を見て立ち尽くしていた。
幼い子供が、その裾を引く。
「おかあさん、さむい?」
「……大丈夫よ」
母親は笑おうとしていた。
だが、その笑顔は少し硬かった。
ステラ陛下は、その親子を静かに見ていた。
市場を抜けた先。
王都北側には、大規模炭庫群が並んでいる。
巨大な石造倉庫。
高い煙突。
荷車の列。
ここは王都中央備蓄庫。
冬季配給の要となる場所だった。
リアが小声で言う。
「本来、王族視察は事前通達が必要です」
「通達すると片付けられます」
ステラ陛下は平然と返した。
倉庫前では、労働者たちが炭袋を運び込んでいた。
だが、積載量が異常だった。
「……多くないですか?」
ノアは思わず呟く。
倉庫外にも炭袋が山積みになっている。
市場不足の景色とは、あまりにも噛み合わない。
リアも目を細める。
「市場不足の量じゃないな」
ステラ陛下は静かに周囲を見る。
荷車。
帳簿。
搬入札。
倉庫番号。
小さな視線が、一つ一つを確認していく。
「おい、そっち丁寧に運べ!」
不意に、怒鳴り声が響く。
若い労働者が炭袋を落としかけ、年配作業員に怒鳴られていた。
「す、すみません!」
「破れたら全部弁償だぞ!」
その声に、ステラ陛下がそちらを見る。
若い労働者は、酷く痩せていた。
頬もこけ、手袋も擦り切れている。
ステラ陛下は小さく呟く。
「……寒そうです」
ノアは返答に困った。
確かにそうだった。
炭を扱う仕事なのに、彼自身はろくな防寒具すら持っていない。
リアが低く言う。
「冬前は増える、日雇い労働者だ」
「炭を運んでるのに、自分では買えないんですね」
ステラ陛下の声は静かだった。
だがその静けさが、逆に重かった。
その時。
リアの視線が鋭く動いた。
市場側通路。
こちらを見ていた男が、一瞬で目を逸らした。
リアはさりげなくステラ陛下の前へ立つ。
「……リア?」
「問題ありません」
短い返答。
だがノアは気付く。
リアの手が、既に細剣へ触れていた。
冬前は治安が悪化する。
炭。
食料。
毛布。
命に直結するものほど、人は奪い合う。
リアはそれを知っている目だった。
倉庫管理棟。
そこでは役人たちが搬入帳簿を整理していた。
ノアは記録局所属証を見せながら中へ入る。
「王室記録局です。備蓄記録を確認したいんですが」
ノアが所属証を見せると、役人は露骨に嫌そうな顔をした。
「……今忙しいんですが」
「議会前確認です」
半分嘘だった。
だがこういう現場で、記録局の名前は強い。
「……そちらは?」
役人はノアの横で控えている貴族子女のような装いの少女を見て、訝し気に眉を寄せた。
「今日は彼女の実地研修も兼ねております」
ノアは淡々と答え、ステラ陛下は何事もない顔で軽く会釈する。
貴族の子弟が行政実務を学ぶため、記録局や倉庫、税務局などの現場を見学することは珍しくない。
特に冬越し議会前は、将来の領地運営に備えた実地研修として各所を回る者もいる。
「護衛付きですか」
「議会前ですので」
リアはそれだけ答えた。
役人はそれ以上何も聞かず、渋々帳簿を持ってくる。
ノアは机上へ広げられた数字を見て、すぐ違和感に気付いた。
「……これ」
搬入量が多すぎる。
市場価格高騰。
地方不足。
街道封鎖。
その状況で、中央備蓄だけ異常に増えている。
そしてノアは、ある欄で目を留めた。
「配給停止?」
北方小領への配給予定が、一部“保留”になっていた。
リアの表情が険しくなる。
「理由は」
役人は視線を逸らした。
「……評議会判断です」
「どの評議会議員だ」
「それは」
「答えろ」
圧を感じるリアの声に、空気が少し張る。
ノアは別の帳簿を捲った。
そこでさらに、気付く。
「……書き換えられてる」
「何?」
「この欄。前の数字削ってます」
インク跡。
削り痕。
乾き方。
毎日帳簿を触っているノアだから分かる。
最近、修正された数字だった。
しかも修正後の方が搬入量が多い。
ステラ陛下は静かに帳簿を見つめていた。
小さな指先が、削られた数字をなぞる。
役人は額に汗が滲む。
「……もういいです」
少女の静かな声に、役人が小さく喉を動かす。
「確認できました」
その声音は穏やかだった。
だがノアは気付く。
ステラ陛下は、何かを考えていた。
市場で見た値札。
炭を買えず立ち尽くしていた人々。
そして今、目の前にある帳簿。
それらを頭の中で繋げている。
そんな顔だった。
ノアはもう一度、帳簿へ目を落とした。
修正された頁。
配給保留の記録。
削られた数字。
視界の端では、役人が落ち着かなさそうに指先を組み直している。
ノアは手帳を取り出した。
その瞬間、役人の肩が僅かに強張る。
帳簿番号。
頁番号。
修正箇所。
必要な箇所だけを書き留める。
役人は何も言わなかった。
だが、早く帰ってほしいと顔に書いてあった。
ノアは手帳を閉じると、静かに帳簿を返した。
その後、三人は管理棟を後にした。
夕暮れの市場には、冷たい風が吹いていた。
炭商たちは店じまいを始めている。
空はもう暗い。
市場の片隅では、小さな焚き火へ人々が集まっていた。
ノアは歩きながら手帳を開く。
倉庫で書き留めた走り書きを見返し、そっと紙を破り取った。
「これ」
ステラ陛下へ差し出す。
「ありがとうございます」
ステラ陛下は受け取ると、その小さな紙切れに目を通した。
市場の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
「お疲れ様です」
「うわっ!?」
すぐ横から声がして、ノアが飛び上がる。
灰色のマント姿の少女ーーーユリアが、当然のような顔で並んで歩いていた。
「いたんですか!?」
「いました」
「いや、今来ましたよね!?」
「ずっといました」
「絶対、今来ましたよね!?」
「あなたが気付かなかっただけです」
ユリアは何事もなかったような顔をしている。
リアもステラ陛下も、突然現れたことについて特に疑問を抱いていないようだった。
「……心臓に悪いんですが」
「すいません、職業病です」
「配達人の職業病って何ですか」
「気付かれないことです」
「絶対違うと思うんですが」
「かもしれません」
ユリアはくすくす笑って、特に反論しなかった。
そして肩掛け鞄の紐を軽く持ち直してから、ステラ陛下へ目を向けた。
「どうでした、下町は?」
その問いに、ステラ陛下は少し考える。
「……少し寒かったです」
ユリアは一瞬だけ目を細めた。
「そうですか」
短い返答だった。
だが、その一言だけでユリアは何かを察したようにも見えた。
「ユリア」
「はい」
「書状を書きます」
静かな声だった。
「城についたら、すぐに紙と蝋の準備を」
「承知しました。宛先はどちらに?」
ステラ陛下は少しだけ手元の紙片へ視線を落とす。
そこにはノアが書き留めた帳簿番号と修正箇所。
市場で見た炭の値段。
倉庫で見た山積みの備蓄。
削られた数字。
その全部を確かめるように、紙を見つめてから答えた。
「監察局です」
監察局---王国官吏の不正調査を担う部署だ。
帳簿改ざんや横領の調査権も持っている。
「中央備蓄庫の帳簿について、正式な監査を要請します」
ノアは何も言わなかった。
ただ、ステラ陛下の横顔を見る。
迷っている様子はなかった。
「よろしいのですか」
前を歩いていたリアが、低い声で尋ねる。
「議会前です」
「だからです」
ステラ陛下は即座に答えた。
「もし本当に不正があるなら、議会を待つ理由はありません」
冷たい風が、通りを吹き抜ける。
遠くで市場の焚き火が小さく揺れていた。
ノアはそっと市場を振り返る。
炭を抱えて帰る人。
値札の前で足を止める人。
寒そうに肩を縮める子供。
王宮で見ていた冬と今日見た冬は、少し違っていた。
そしてステラ陛下は、その違いから目を逸らそうとしていなかった。
下町視察回です。
最初投稿する話を間違えていたので、差し替えました。
とても焦った。
次回、冬越しの議会、開幕します!
お楽しみに!




