第五話 冬を数える人
妹は、兄が残したものを探す。
【王宮に残される記録は、必ずしも真実ではない。
だが時折、その余白へ真実が滲むことがある。
訂正線。
書き損じ。
計算違い。
誰かが消そうとした数字。
そして、誰かが残そうとした数字。
国が滅ぶ時、最初に壊れるのは城壁ではない。
記録である。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
レオニス殿下の私室には、紙を捲る音だけが響いていた。
窓の外では灰色の雲が低く流れている。
冬前特有の、重たい空の色だった。
「多い……」
ノアは机へ積まれた資料の山に、思わず呻く。
目の前には帳簿。
横には統計記録。
床には街道図。
さらに机端には、レオニス殿下による手書きの注釈束まで積まれている。
王族の私室というより、半分は資料室だった。
ステラ陛下は窓際で資料を読んでいる。
リアは暖炉脇で古い木箱を整理していた。
誰も大きな声を出さない。
この部屋では、不思議と自然にそうなった。
外では風が鳴っている。
窓硝子を薄く震わせるような、乾いた冬前の風だ。
ノアは一冊の帳簿を開く。
『北方第三備蓄倉庫 冬期支出一覧』
そこへ並ぶ細かな数字。
炭。
塩漬肉。
保存麦。
毛布。
薬草。
どれも見慣れた項目ばかりだった。
だが資料を捲るうちに、ノアは何度か首を傾げる。
「……これ、分類どうなってるんだ?」
ノアは紙束を捲りながら、眉根を寄せた。
年代順かと思えば違う。
地域別かと思えば、それも途中で崩れる。
炭鉱記録だけ別綴じになっているかと思えば、隣には輸送報告書が挟まっている。
「……なんだこれ」
思わず呟く。
ただ整理が雑なのかと思ったが、十冊ほど資料を見比べた頃、ようやく共通点が見えた。
「これ、わざとだ」
「何がだ」
リアが顔を上げる。
ノアは机へ資料を並べた。
「見てください」
街道封鎖記録。
炭価変動表。
凍死者統計。
三冊を横へ並べる。
「同じ年の資料です」
さらに別の束を取り出した。
炭鉱事故記録。
輸送遅延報告。
備蓄推移表。
「こっちも」
ノアは指先で紙を叩く。
「年代順でも地域順でもない」
「じゃあ何順だ」
「たぶん――繋がり順です」
リアが眉をひそめる。
「繋がり?」
「レオニス殿下、この部屋を資料庫じゃなくて思考の地図にしてたんですよ」
ノアは机いっぱいに広がる資料を見回した。
最初は雑然として見えた。
だが見方を変えると、そこには一人の人間が辿った思考の跡が残されている。
「原因になりそうな資料と、結果が分かる資料を近くへ置いてる」
リアが少し目を細めた。
ノアはさらに資料を捲る。
「こっちもそうです。凍死者数が増えた地域だけ、税率変更記録が挟まってる」
その瞬間。
ステラ陛下の視線が上がった。
「……冬税」
静かな声だった。
ノアは頷く。
「はい。たぶん殿下は、“冬税と凍死率の関係”を調べてたんです」
アステリアの冬税。
冬越し備蓄維持のため、各領へ課される追加徴税制度。
本来は、冬を越えるための制度だった。
だが近年、その負担は年々増えている。
炭。
保存食。
防寒布。
街道除雪費。
冬が厳しくなるほど、徴税も増える。
そして税を払えない小領地ほど、冬を越えられなくなる。
皮肉みたいな制度だった。
ステラ陛下は机上の資料へ視線を落とす。
「……この村」
小さな指が、一行を示す。
「去年、税率が上がっています」
ノアも横から覗き込む。
「その年、炭の配給量減ってますね」
「凍死者も増えてる」
リアの低い声。
部屋の空気が、少しずつ重くなっていく。
数字。
統計。
税率。
それらは本来、紙の上だけのものだ。
だが今この部屋では、数字の向こう側に“死んだ人間”が透けて見えた。
ノアは無意識に唇を引き結ぶ。
「……でも、変ですね」
「何がだ」
「冬税って、本来は備蓄維持のためですよね?」
「建前はな」
「なら。税率が上がった年ほど、地方備蓄も増えてないとおかしい」
ノアは帳簿を並べた。
北方第三倉庫。
南方備蓄庫。
東部共同倉庫。
どれも同じ時期に数字が落ち込んでいる。
「……冬税増額の年ですね」
ステラ陛下が呟く。
「はい」
「なのに状況は改善していない」
「だから変なんです」
ノアは資料を捲った。
「……徴収された備蓄が見当たらない」
「横流し?」
リアが低く言う。
「そこまでは分かりません」
ノアは首を振った。
「でも、どこかに残ってるはずなんです」
税として集めた備蓄が消えるはずはない。
腐った。
盗まれた。
戦争で使った。
何か理由があるはずだった。
ノアは次々と帳簿を開いていく。
輸送記録。
保管記録。
備蓄台帳。
その横でステラ陛下も別の資料へ目を通していた。
しばらくして。
「……ノア」
静かな声が響く。
ノアは顔を上げた。
ステラ陛下は一冊の帳簿を開いたまま、そこへ視線を落としている。
「それ」
「はい?」
「その前のページを見せてください」
ノアは言われるまま帳簿を捲る。
備蓄推移表。
その前頁。
さらに前。
「……あ」
思わず声が漏れた。
頁の端。
小さな見出しが記されている。
『中央備蓄庫総保管量』
「どうした」
リアが近付く。
ノアは返事をせず、手元の数字を見ていた。
一年。
二年。
三年。
地方備蓄が減っていく年と同じように。
そこに記された数値だけが増えている。
「……増えてる」
「何がですか」
ステラ陛下が尋ねる。
ノアはゆっくり顔を上げた。
「地方じゃなくて、」
「?」
「王都です」
ノアは帳簿へ指を置いた。
「地方倉庫は減ってるのに、中央備蓄庫だけ増えてる」
リアの表情が険しくなる。
「つまり、地方から集めた分が、王都へ流れている?」
「……少なくとも数字の上では」
ノアの背筋を冷たいものが走った。
冬税は、本来。
冬を越えるための制度だったはずだ。
なのに記録の上では。
地方が痩せ、王都だけが肥えている。
リアが低く呟いた。
「殿下は、それを止めようとしていた」
その声は苦かった。
「北方視察から戻ってから、ずっとだ。毎晩、資料を読んでいた」
リアの視線は、暖炉脇の椅子へ向いている。
「『数字がおかしい』って、何度も言っていた」
ステラ陛下は静かに、レオニス殿下の書き込みを指でなぞる。
古いインク。
何度も書き直された数字。
余白へ残された短い文字。
『配給不足』
『実数不明』
『再調査必要』
そして、一番下。
『冬は平等に来る』
ノアは息を止めた。
それは政治文書というより、ほとんど独り言みたいな文字だった。
だが妙に頭へ残る。
冬は平等に来る。
貴族にも。
平民にも。
王族にも。
当たり前のことだ。
だからこそ、本来は誰かだけ暖かいままではいけないのだ。
しばらく、誰も喋らなかった。
窓の外で風が鳴る。
冬が近付いていた。
「……これ」
ステラ陛下が、一枚の紙を持ち上げる。
小さな紙片だった。
他の資料へ半ば埋もれるように挟まっていたらしい。
ノアは受け取る。
「これは……議会提出前資料?」
そこへ書かれていたのは、正式提出版とは違う数値だった。
困窮率。
凍死予測。
不足備蓄量。
どれも正式記録より遥かに悪い。
ノアの顔色が変わる。
「……隠された?」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
リアの表情が険しくなる。
「提出前の草案かもしれん」
「でも。こっちの方が、数字の整合性合ってます」
帳簿。
輸送。
人口。
消費量。
全部を繋げると、“こちら”の数字の方が自然だった。
つまり、正式記録の方が、不自然なのだ。
ノアは無意識に喉を鳴らした。
これがもし、意図的な修正なら。
誰かが。
王国規模で。
冬の実態を隠していることになる。
王室書記局に入って一年も経たないノアですら気付ける、歪み。
それを評議会が見抜けないはずがない。
なら、なぜ放置されているのか。
答えを考えかけて、ノアはやめた。
嫌な想像しか浮かばなかった。
その時、不意にリアが口を開いた。
「……北方視察から戻られた夜だった。殿下が初めて、この部屋へ資料を持ち込んだのは」
ノアとステラ陛下が顔を上げる。
リアは暖炉脇へ立ったまま続けた。
「吹雪だった。馬車も遅れて、殿下は夜明け前に戻られた」
リアの視線が少し遠くなる。
「本来なら休むべきだった。熱もあったからな」
「熱?」
「北方で倒れかけたんだ」
ノアは思わず目を見開く。
リアは静かに語る。
「だが部屋へ戻るなり、殿下は言った。『数字が違う』と」
暖炉の消えた灰を見つめながら、リアは続ける。
「視察先の村には、炭が無かった。子供が凍傷になっていた。老人も何人か死んでいた」
淡々とした口調だった。
だからこそ重かった。
「だが王都へ届いていた報告では、“問題なし”だった」
ノアは言葉を失う。
「殿下は、その夜から資料を集め始めた。毎晩だ。寝る時間も削ってな」
リアは小さく笑った。
「護衛としては最悪だった。止めても聞かなかったからな」
だがその笑みは、どこか寂しかった。
「『寒いのに、数字だけ暖かすぎる』って、よく言っていた」
部屋が静まり返る。
ノアは机上の資料を見る。
紙。
数字。
記録。
それだけのはずなのに。
今はまるで、冬の冷たさそのものが染み込んでいるみたいだった。
ぱさり。
一冊の本から、小さな紙片が落ちる。
ノアは拾い上げた。
そこには短い走り書きがあった。
『冬税軽減案』
『北方小領優先』
『中央備蓄一部開放』
さらに下には、乱れた文字でこう書かれていた。
『反対多数予測』
そして最後に。
『それでもやるべきだ』
その筆跡だけ、少し強かった。
迷いながら、それでも書いたみたいな字だった。
ステラ陛下は、その紙を静かに見つめる。
「……レオニス兄様らしいです」
リアは何も言わず、ただ少しだけ目を伏せる。
やがてステラ陛下は、そっと紙片を閉じた。
「……議会で確認します」
静かな声だった。
けれどその言葉には、戴冠式の日とは違う硬さがあった。
「確認って……正面からですか?」
「はい」
「いや絶対揉めますよ!?」
「揉めるでしょうね」
あまりにも落ち着いた返答だった。
ノアは頭を抱えたくなる。
相手は評議会だ。
王国の重臣たち。
下手をすれば、戴冠したばかりの幼王など簡単に潰されるだろう。
ステラ陛下はそっと資料を閉じる。
「レオニス兄様が『やるべきだ』と残したなら、見ないふりはできません」
その瞳は静かだった。
けれど、戴冠式の日より少しだけ強い光があった。
窓の外で、冷たい風が窓硝子を鳴らす。
まるで冬そのものが、王宮の扉を叩いているみたいだった。
きな臭くなってきましたね。
毎回、書類に囲まれているノア。
がんばれ、ノア。
次回、陛下、下町へ行く。
お楽しみに!




