第四十五話 冬明けの約束
冬明けの日、王と書記官が交わす約束――
共同研究締結の祝宴から、数日が過ぎていた。
王城では春の茶会へ向けた準備が始まり、冬のあいだ閉ざされていた窓も、日中だけは開け放たれるようになっていた。
執務室へ差し込む陽射しも、どこか柔らかい。
書類へ目を通していたノアは、机の向かいに座るステラ陛下から声を掛けられ、顔を上げた。
「お茶会の練習をしたいのですが、お付き合いいただけますか」
思いがけない申し出に、ノアは手を止める。
「お茶会の練習、ですか?」
「はい」
ステラ陛下は小さく頷いた。
「ルシアン伯爵から、ドレスが届いたんです」
「ああ」
ノアは思い出したように頷く。
「そういえば、そんな話もありましたね」
「試しに着て、お茶会をしてみようと思いまして」
「それは良いと思いますけど……」
ノアはそこで言葉を区切り、首を傾げる。
「え、私とですか」
ステラ陛下は瞬きを一つすると、不思議そうな顔でこちらを見た。
「ダメですか?」
「ダメではありませんが……」
ノアは苦笑しながら肩を竦める。
「細かい作法なんかは分かりませんよ」
「構いません、練習ですから」
その穏やかな口調に、ノアも小さく笑う。
「承知しました」
「では、明日の午後に」
そう言って、ステラ陛下は再び机の上の書類へ視線を戻した。
ノアも返事をすると、手元の記録へ向き直る。
窓の外では、庭師たちが花壇の手入れを始めていた。
王城にも、少しずつ春が近づいている。
翌日の午後。
約束の時間になると、扉が軽く叩かれた。
「ノアさーん、お迎えに来ました」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこには灰色マントに肩掛けカバンの少女――ユリアが立っていた。
「案内役は、ユリアさんなんですか?」
「はい。陛下から、テラスへご案内するよう仰せつかっています」
ノアは頷き、彼女の後に続く。
窓から差し込む陽射しは明るく、磨き上げられた石床へ細長い影を落としている。
開け放たれた窓からは、柔らかな風が吹き込み、かすかに土と草木の匂いを運んできた。
二人の足音だけが、静かな回廊へ響く。
しばらく歩いたところで、ユリアが前を向いたまま口を開いた。
「陛下のお傍にも、すっかり慣れましたね」
ノアは少し笑みを浮かべる。
「そう見えますか」
「ええ」
ユリアは小さく頷いた。
「最初はもっと、肩へ力が入っていましたから」
ノアは照れたように苦笑した。
「今でも余裕があるわけではないですよ」
ユリアはくすりと笑う。
「でも、記録するだけでは見えないものも、少しずつ見えてきたんじゃありませんか」
「……そうかもしれません」
ノアは静かに答えた。
「陛下は、記録よりも先に、人をご覧になっているのだと感じることがあります」
ユリアは何も答えず、小さく微笑んだ。
やがて二人は、庭園へ続く大きな扉の前へ辿り着く。
そこには、鎧姿のリアが静かに控えていた。
二人の姿を認めると、彼女の口元がわずかに緩む。
「来たな」
「お待たせしました」
リアは小さく頷き、テラスの方へ目を向けた。
「陛下がお待ちだ」
ユリアはノアへ軽く会釈する。
「では、私はここまでです」
「はい、ありがとうございました」
ユリアはふっと表情を和らげる。
「どうぞ、良い午後を」
その短い言葉だけを残し、片手を振りながらユリアは踵を返した。
入れ替わるように、リアが扉の取っ手へ手を掛ける。
「楽しんで来るといい」
ゆっくりと扉が開く。
春の風とともに、花の香りがふわりと流れ込んできた。
外へ出ると、頬を撫でる空気はまだ冷たい。
それでも冬の張り詰めた寒さは薄れ、風にはわずかな温もりが混じっていた。
庭師たちは花壇の縁へ並び、伸び始めた若枝を一本ずつ整えている。
低木の先には小さな蕾が膨らみ、芝生のあちこちには淡い緑が顔を覗かせていた。
噴水の水音が静かに響く。
冬の間止められていた水路も、数日前から再び流れ始めたらしい。
その音に耳を傾けながら歩いていくと、庭園の一角に設けられた白いテラスが見えてきた。
丸い茶卓には白いクロスが掛けられ、銀の茶器が陽射しを受けて微かに輝いている。
その周囲には侍従長エリオットと数人の侍女たちが静かに控え、その中心に、一人の少女が佇んでいた。
淡い藍色を基調としたその装いは、王城で普段目にするドレスとは印象が大きく異なっていた。
腰を強く締め付けるコルセットは見当たらず、布地は肩から裾へ流れるように落ちている。
袖口はゆるやかに広がり、胸元や裾には銀糸で小さな花々が刺繍されていた。
歩くたびに布が静かに揺れ、春風を受けて細い帯飾りがかすかに踊る。
長い銀髪はいつもより高い位置で纏められ、藍色の組紐が髪へ添えられていた。
こちらへ気付いたステラ陛下は、穏やかに微笑む。
「お待ちしていました、ノア」
「お待たせいたしました」
ノアは一礼し、改めて彼女の姿へ視線を向けた。
「……いつもと雰囲気が違いますね」
その言葉に、ステラ陛下は自らの袖へ目を落とす。
「ルシアン伯爵から送られてきたものです」
袖口を指先で軽く摘み、布地を確かめるように撫でた。
「東方の国のドレスを、こちらに合うようにアレンジしたそうです。コルセットを使わない分、いくらか楽になるのではないかと」
ノアは頷きながら、その仕立てを改めて眺める。
「実際は、どうなのですか」
「着心地は楽ですが……着付けには慣れが必要そうです。侍女たちが苦労していました」
少し困ったように笑うと、近くで控えていた侍女たちも顔を見合わせ、小さく笑みをこぼす。
「春の茶会では、そのドレスを?」
「そのつもりです」
ステラ陛下は頷いた。
「ヴィオラ卿も、随分気に入ってくださいましたから」
ノアは思い出したように口を開く。
「たしか、これまでの陛下のドレスは、ヴィオラ卿が用意しておられたのでしたね」
ステラ陛下は椅子へ静かに腰を下ろした。
裾が乱れぬよう、侍女が後ろから布地を整える。
袖口へ差し込んだ春風に、帯飾りが小さく揺れた。
向かいの席を勧められ、ノアも一礼して腰を下ろす。
控えていた侍女が銀のポットを手に取り、二つの茶器へゆっくりと紅茶を注いだ。
湯気とともに、花を思わせる穏やかな香りが広がる。
ステラ陛下は立ちのぼる湯気へ目を向けたまま、小さく口を開いた。
「ヴィオラ卿は、この春の茶会用のドレスを、随分悩んでおられました。この冬は、冬税の負担を王家の備蓄から賄いましたから……」
ステラ陛下は紅茶へ口をつける前に、そっとカップへ手を添える。
「今の王家には、あまり余裕がありません」
穏やかな口調だった。
事実を一つずつ並べるような話し方に、飾り気はない。
「ですが、私の装いは王家の威信にも関わります。あまり質を落とすわけにもいきません」
ノアは静かに頷いた。
王が人前へ立つ姿そのものが、この国では王家の象徴でもある。
質素すぎれば、不安を与える。
華美すぎれば、民の反感を招く。
その均衡を保つこともまた、政務の一つだった。
「しかも」
ステラ陛下は自分の袖へ目を落とし、小さく笑う。
「私は、まだ成長しますから」
その一言に、ノアも思わず口元を緩めた。
「サイズが変われば、その都度仕立て直さなければなりませんね。手間も、お金も掛かる」
ステラ陛下は袖口を軽く摘みながら続ける。
ノアはその袖から裾へ視線を移した。
「そこへ、このドレスです」
ステラ陛下は袖口へそっと手を添えた。
「この衣は、一枚の布を仕立てたものです。丈は折り返し方を変えることで調整できます」
ノアは目を瞬かせる。
「つまり……成長しても?」
「はい。身丈を大きく仕立て直さなくても、しばらくは着続けられます」
裾へ視線を落としたステラ陛下は、穏やかに微笑んだ。
「長く着られて、質も申し分ありません」
ノアは思わず感心したように息を漏らした。
「ここ数日、ヴィオラ卿の機嫌が良かったのは……」
その言葉に、ステラ陛下はくすりと笑う。
「これのおかげです」
庭を吹き抜ける風が、蕾をつけた木々を静かに揺らしていた。
しばらくの間、二人は他愛のない話を交わした。
庭師が植え替えを進めている花壇のこと。
春の茶会へ招かれる貴族たちのこと。
最近になって王城へ戻ってきた渡り鳥のこと。
穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。
やがてステラ陛下は紅茶を飲み終えると、受け皿へ静かにカップを戻した。
小さく鳴った陶器の音が、春の風の中へ溶けていく。
ステラ陛下は、控えていたエリオットへ静かに視線を向けた。
その小さな目配せに、エリオットは小さく頷く。
ほどなくして侍女たちが席を外し、テラスには春風と鳥のさえずりだけが残った。
ステラ陛下は、静かにノアへ向き直る。
「……ノア」
「はい」
「あなたを茶会の練習相手に選んだのには、理由があります」
エリオットが一歩前へ進み出る。
手にしていた革張りの書類挟みを開き、一冊の報告書を取り出した。
厚手の表紙は綴じ紐でまとめられ、表には監察局の紋章が押されている。
「あなたがアルヴェイン公国へ行っている間に届いた報告書です」
庭を渡る風が、茶卓の白いクロスをかすかに揺らした。
遠くでは、小鳥が枝から枝へ飛び移っている。
ステラ陛下だけが真っ直ぐノアを見つめていた。
「私の命があるまで、この件を明るみにしないよう指示しています。あなたも、そのつもりで読んでください」
穏やかな声色は変わらない。
しかし、その言葉だけが、庭園の空気を静かに張り詰めさせた。
ノアは黙って頷き、報告書の表紙を開く。
監査の経緯。
関係者への聴取記録。
帳簿の照合結果。
証拠目録。
簡潔な文章を追っていくうち、やがて一つの記述が目に留まる。
「……流用された資金の行き先が、星泉研究の費用とありますね」
「ええ」
ステラ陛下は穏やかに頷いた。
「他にも、結果的には国の利益へ繋がる用途が多く含まれていました」
ノアは再び静かに頁をめくる。
研究施設への資材調達。
冬季備蓄の補填。
地方街道の整備。
いずれも私腹を肥やすためではなく、国を支えるために使われた形跡ばかりだった。
そして、最後の頁へ視線を落とす。
そこに記されていた首謀者の名を見た瞬間、ノアの指先が止まった。
『宰相ガイウス・ベルン』
ノアの脳裏に、彼の姿が浮かぶ。
議場の片隅で静かに議論を見守り、必要な時だけ口を開く。
その姿を、ノアは幾度となく見てきた。
報告書を持つ手へ、わずかに力が入る。
最後まで目を通し終えると、ノアは静かに頁を閉じた。
「……どうするおつもりですか」
ステラ陛下は青灰色の瞳で真っ直ぐノアを見つめ、小さく息をつく。
「……まず、すぐに彼の罪を咎めることはできません」
「証拠が揃っていても、ですか」
「はい」
静かに頷くと、ステラ陛下は庭へ目を向ける。
花壇では庭師が新しい苗を植えていた。
掘り返された土は黒く湿り、その脇には小さな蕾をつけた苗木が並べられている。
「今の国政で彼を失えば、国は大きく揺らぎます」
紅茶の湯気はもう消えていた。
春の風だけが、茶卓の白いクロスをゆっくりと揺らしている。
「それを支えられるだけの力は、まだ私にはありません」
しばらく沈黙が続く。
やがてステラ陛下は、ゆっくりと立ち上がった。
テラスの手すりへ歩み寄り、庭を見渡す。
枝先には、まだ小さな蕾しかない。
それでも、冬枯れだった庭には確かに色が戻り始めていた。
「もうじき、冬が明けます」
風が銀色の髪をさらりと揺らす。
「けれど……」
小さく間を置いて、ステラ陛下は続ける。
「再び冬は巡ってきます」
ノアも席を立ち、その隣へ歩み寄った。
二人の前には、春を待つ庭園が広がっている。
「私はこれから、国を支えられる人材を集めなければなりません」
庭師が植え終えた苗へ、静かに水を与えていた。
細い水の筋が土へ染み込み、陽射しを受けて小さく光る。
「一人ではなく、多くの者で支えるのです。一人が欠けただけで揺らぐようでは……」
春風が木々を揺らし、蕾がかすかに震えた。
「この国の冬は、越えられませんから」
二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。
庭師たちの鋏が枝を払う音だけが、庭園のあちこちから聞こえてくる。
やがてステラ陛下は手すりから視線を外し、ゆっくりとノアの方へ向き直った。
「ノア」
「はい」
「星冠記録官という役職を、ご存じですか」
不意の問いに、ノアは少し考える。
「たしか……記録局ができる前に置かれていた役職ですね」
「はい」
ステラ陛下は小さく頷く。
「建国の星冠伝説にちなみ、王の傍らで政務を記し続ける役目です。当時は星祈教の神父が、その任を担っていました」
ノアは記録局へ入局した際に、研修で読んだ古い史料を思い返す。
建国初期の王の傍らには、常に一人の記録者がいた。
王命だけではなく、議会で交わされた言葉も、戦で下した決断も、すべてを書き残す者。
それが星冠記録官だった。
「ですが、行政機構が整うにつれて、その役目は記録局へ移されました」
ステラ陛下は穏やかな声で続ける。
「そのおかげで、記録は増えました。けれど……王のすぐ傍で、その歩みを見届ける者はいなくなりました」
風が吹き抜ける。
枝先の蕾が、小さく揺れた。
「彼の罪が明るみになった時……私はその役職を復活させようと思っています」
しばらく沈黙が続く。
庭園のどこかで、小鳥が短くさえずった。
ノアはゆっくりと口を開く。
「一応、確認しますが……どなたを、その役職に?」
ステラ陛下は一つ目を瞬かせて、小さく笑った。
「ノア・フェルディンという名の書記官を」
春風がテラスを通り抜ける。
白いクロスがふわりと揺れ、銀の茶器が陽を受けて淡く光を返した。
ステラ陛下は静かに微笑む。
「同じような罪を犯す者が、二度と現れないように。私の傍らには、すべてを記録する者がいる……そのことを、この国へ示したいのです」
ノアはしばらく言葉を失っていた。
手元の報告書へ視線を落とし、再びステラ陛下を見る。
春風が銀色の髪を揺らし、その細い前髪が頬へかかった。
「何年後になるかは分かりません」
ステラ陛下は穏やかな声で続ける。
「その日が、本当に来るのかも」
庭の向こうでは、庭師が新しく植えた苗へ土を寄せていた。
まだ細い枝だった。
花を咲かせるには、もう少し時間がいるようだ。
「ですが」
テラスに風が吹き抜ける。
白いクロスがかすかに揺れ、銀の茶器が陽射しを受けて淡く光を返した。
ステラ陛下はノアをまっすぐ見つめる。
「それまで、私を見ていてください」
ノアはその言葉を胸の内で静かに受け止める。
「……承知いたしました」
ゆっくりと顔を上げ、言葉を続ける。
「陛下が何をご覧になり、何を考え、何を選ばれたのか。成功も、失敗も。一つ残らず、私が記録します」
その答えを聞き、ステラ陛下は柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
庭を渡る風が、枝先の蕾を揺らす。
冬を越えた木々は、まだ花を咲かせてはいない。
その蕾が花開く日を、誰も急ぐことはなかった。
【後に、この年は「冬明けの年」と呼ばれることになる。
星歴三二八年。
幼き女王ステラ・ゼフィールは、一つの冬を越えた。
春の庭園で交わされた約束は、後に星冠記録官復活の始まりとして語られる。
そして私は、あの日の約束どおり、今日も筆を執る。
王が何をご覧になり、何を考え、何を選ばれたのか。
そのすべてを、記し続けるために。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
たくさんのご愛読、ありがとうございました。
またいつか、彼らの物語を書き記せる日を願っています。
―――月森みのり




