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星風の国物語 〜少女王と見習い書記官の政務録〜  作者: 月森みのり
第八章 冬明けの王

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第四十五話 冬明けの約束

冬明けの日、王と書記官が交わす約束――


 共同研究締結の祝宴から、数日が過ぎていた。

 王城では春の茶会へ向けた準備が始まり、冬のあいだ閉ざされていた窓も、日中だけは開け放たれるようになっていた。

 執務室へ差し込む陽射しも、どこか柔らかい。


 書類へ目を通していたノアは、机の向かいに座るステラ陛下から声を掛けられ、顔を上げた。


「お茶会の練習をしたいのですが、お付き合いいただけますか」


 思いがけない申し出に、ノアは手を止める。


「お茶会の練習、ですか?」


「はい」


 ステラ陛下は小さく頷いた。


「ルシアン伯爵から、ドレスが届いたんです」


「ああ」


 ノアは思い出したように頷く。


「そういえば、そんな話もありましたね」


「試しに着て、お茶会をしてみようと思いまして」


「それは良いと思いますけど……」


 ノアはそこで言葉を区切り、首を傾げる。


「え、私とですか」


 ステラ陛下は瞬きを一つすると、不思議そうな顔でこちらを見た。


「ダメですか?」


「ダメではありませんが……」


 ノアは苦笑しながら肩を竦める。


「細かい作法なんかは分かりませんよ」


「構いません、練習ですから」


 その穏やかな口調に、ノアも小さく笑う。


「承知しました」


「では、明日の午後に」


 そう言って、ステラ陛下は再び机の上の書類へ視線を戻した。

 ノアも返事をすると、手元の記録へ向き直る。


 窓の外では、庭師たちが花壇の手入れを始めていた。

 王城にも、少しずつ春が近づいている。

 



 翌日の午後。

 約束の時間になると、扉が軽く叩かれた。


「ノアさーん、お迎えに来ました」


 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには灰色マントに肩掛けカバンの少女――ユリアが立っていた。


「案内役は、ユリアさんなんですか?」


「はい。陛下から、テラスへご案内するよう仰せつかっています」


 ノアは頷き、彼女の後に続く。


 窓から差し込む陽射しは明るく、磨き上げられた石床へ細長い影を落としている。

 開け放たれた窓からは、柔らかな風が吹き込み、かすかに土と草木の匂いを運んできた。


 二人の足音だけが、静かな回廊へ響く。

 しばらく歩いたところで、ユリアが前を向いたまま口を開いた。


「陛下のお傍にも、すっかり慣れましたね」


 ノアは少し笑みを浮かべる。


「そう見えますか」


「ええ」


 ユリアは小さく頷いた。


「最初はもっと、肩へ力が入っていましたから」


 ノアは照れたように苦笑した。


「今でも余裕があるわけではないですよ」


 ユリアはくすりと笑う。


「でも、記録するだけでは見えないものも、少しずつ見えてきたんじゃありませんか」

 

「……そうかもしれません」


 ノアは静かに答えた。


「陛下は、記録よりも先に、人をご覧になっているのだと感じることがあります」


 ユリアは何も答えず、小さく微笑んだ。


 やがて二人は、庭園へ続く大きな扉の前へ辿り着く。

 そこには、鎧姿のリアが静かに控えていた。

 二人の姿を認めると、彼女の口元がわずかに緩む。


「来たな」


「お待たせしました」


 リアは小さく頷き、テラスの方へ目を向けた。


「陛下がお待ちだ」


 ユリアはノアへ軽く会釈する。


「では、私はここまでです」


「はい、ありがとうございました」


 ユリアはふっと表情を和らげる。


「どうぞ、良い午後を」


 その短い言葉だけを残し、片手を振りながらユリアは踵を返した。

 入れ替わるように、リアが扉の取っ手へ手を掛ける。


「楽しんで来るといい」


 ゆっくりと扉が開く。

 春の風とともに、花の香りがふわりと流れ込んできた。




 外へ出ると、頬を撫でる空気はまだ冷たい。

 それでも冬の張り詰めた寒さは薄れ、風にはわずかな温もりが混じっていた。

 庭師たちは花壇の縁へ並び、伸び始めた若枝を一本ずつ整えている。

 低木の先には小さな蕾が膨らみ、芝生のあちこちには淡い緑が顔を覗かせていた。

 噴水の水音が静かに響く。

 冬の間止められていた水路も、数日前から再び流れ始めたらしい。


 その音に耳を傾けながら歩いていくと、庭園の一角に設けられた白いテラスが見えてきた。

 丸い茶卓には白いクロスが掛けられ、銀の茶器が陽射しを受けて微かに輝いている。

 その周囲には侍従長エリオットと数人の侍女たちが静かに控え、その中心に、一人の少女が佇んでいた。


 淡い藍色を基調としたその装いは、王城で普段目にするドレスとは印象が大きく異なっていた。

 腰を強く締め付けるコルセットは見当たらず、布地は肩から裾へ流れるように落ちている。

 袖口はゆるやかに広がり、胸元や裾には銀糸で小さな花々が刺繍されていた。

 歩くたびに布が静かに揺れ、春風を受けて細い帯飾りがかすかに踊る。

 長い銀髪はいつもより高い位置で纏められ、藍色の組紐が髪へ添えられていた。


 こちらへ気付いたステラ陛下は、穏やかに微笑む。


「お待ちしていました、ノア」


「お待たせいたしました」


 ノアは一礼し、改めて彼女の姿へ視線を向けた。


「……いつもと雰囲気が違いますね」


 その言葉に、ステラ陛下は自らの袖へ目を落とす。


「ルシアン伯爵から送られてきたものです」


 袖口を指先で軽く摘み、布地を確かめるように撫でた。


「東方の国のドレスを、こちらに合うようにアレンジしたそうです。コルセットを使わない分、いくらか楽になるのではないかと」


 ノアは頷きながら、その仕立てを改めて眺める。


「実際は、どうなのですか」


「着心地は楽ですが……着付けには慣れが必要そうです。侍女たちが苦労していました」


 少し困ったように笑うと、近くで控えていた侍女たちも顔を見合わせ、小さく笑みをこぼす。


「春の茶会では、そのドレスを?」


「そのつもりです」


 ステラ陛下は頷いた。


「ヴィオラ卿も、随分気に入ってくださいましたから」


 ノアは思い出したように口を開く。


「たしか、これまでの陛下のドレスは、ヴィオラ卿が用意しておられたのでしたね」


 ステラ陛下は椅子へ静かに腰を下ろした。

 裾が乱れぬよう、侍女が後ろから布地を整える。

 袖口へ差し込んだ春風に、帯飾りが小さく揺れた。


 向かいの席を勧められ、ノアも一礼して腰を下ろす。

 控えていた侍女が銀のポットを手に取り、二つの茶器へゆっくりと紅茶を注いだ。

 湯気とともに、花を思わせる穏やかな香りが広がる。


 ステラ陛下は立ちのぼる湯気へ目を向けたまま、小さく口を開いた。


「ヴィオラ卿は、この春の茶会用のドレスを、随分悩んでおられました。この冬は、冬税の負担を王家の備蓄から賄いましたから……」


 ステラ陛下は紅茶へ口をつける前に、そっとカップへ手を添える。


「今の王家には、あまり余裕がありません」


 穏やかな口調だった。

 事実を一つずつ並べるような話し方に、飾り気はない。


「ですが、私の装いは王家の威信にも関わります。あまり質を落とすわけにもいきません」


 ノアは静かに頷いた。


 王が人前へ立つ姿そのものが、この国では王家の象徴でもある。

 質素すぎれば、不安を与える。

 華美すぎれば、民の反感を招く。

 その均衡を保つこともまた、政務の一つだった。


「しかも」


 ステラ陛下は自分の袖へ目を落とし、小さく笑う。


「私は、まだ成長しますから」


 その一言に、ノアも思わず口元を緩めた。


「サイズが変われば、その都度仕立て直さなければなりませんね。手間も、お金も掛かる」


 ステラ陛下は袖口を軽く摘みながら続ける。

 ノアはその袖から裾へ視線を移した。


「そこへ、このドレスです」


 ステラ陛下は袖口へそっと手を添えた。


「この衣は、一枚の布を仕立てたものです。丈は折り返し方を変えることで調整できます」


 ノアは目を瞬かせる。


「つまり……成長しても?」


「はい。身丈を大きく仕立て直さなくても、しばらくは着続けられます」


 裾へ視線を落としたステラ陛下は、穏やかに微笑んだ。


「長く着られて、質も申し分ありません」


 ノアは思わず感心したように息を漏らした。


「ここ数日、ヴィオラ卿の機嫌が良かったのは……」


 その言葉に、ステラ陛下はくすりと笑う。


「これのおかげです」


 庭を吹き抜ける風が、蕾をつけた木々を静かに揺らしていた。




 しばらくの間、二人は他愛のない話を交わした。


 庭師が植え替えを進めている花壇のこと。

 春の茶会へ招かれる貴族たちのこと。

 最近になって王城へ戻ってきた渡り鳥のこと。


 穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。

 やがてステラ陛下は紅茶を飲み終えると、受け皿へ静かにカップを戻した。

 小さく鳴った陶器の音が、春の風の中へ溶けていく。


 ステラ陛下は、控えていたエリオットへ静かに視線を向けた。

 その小さな目配せに、エリオットは小さく頷く。

 ほどなくして侍女たちが席を外し、テラスには春風と鳥のさえずりだけが残った。


 ステラ陛下は、静かにノアへ向き直る。


「……ノア」


「はい」


「あなたを茶会の練習相手に選んだのには、理由があります」


 エリオットが一歩前へ進み出る。

 手にしていた革張りの書類挟みを開き、一冊の報告書を取り出した。

 厚手の表紙は綴じ紐でまとめられ、表には監察局の紋章が押されている。


「あなたがアルヴェイン公国へ行っている間に届いた報告書です」


 庭を渡る風が、茶卓の白いクロスをかすかに揺らした。

 遠くでは、小鳥が枝から枝へ飛び移っている。


 ステラ陛下だけが真っ直ぐノアを見つめていた。


「私の命があるまで、この件を明るみにしないよう指示しています。あなたも、そのつもりで読んでください」


 穏やかな声色は変わらない。

 しかし、その言葉だけが、庭園の空気を静かに張り詰めさせた。

 ノアは黙って頷き、報告書の表紙を開く。


 監査の経緯。

 関係者への聴取記録。

 帳簿の照合結果。

 証拠目録。


 簡潔な文章を追っていくうち、やがて一つの記述が目に留まる。


「……流用された資金の行き先が、星泉研究の費用とありますね」


「ええ」


 ステラ陛下は穏やかに頷いた。


「他にも、結果的には国の利益へ繋がる用途が多く含まれていました」


 ノアは再び静かに頁をめくる。


 研究施設への資材調達。

 冬季備蓄の補填。

 地方街道の整備。


 いずれも私腹を肥やすためではなく、国を支えるために使われた形跡ばかりだった。

 そして、最後の頁へ視線を落とす。

 そこに記されていた首謀者の名を見た瞬間、ノアの指先が止まった。


 『宰相ガイウス・ベルン』


 ノアの脳裏に、彼の姿が浮かぶ。

 議場の片隅で静かに議論を見守り、必要な時だけ口を開く。

 その姿を、ノアは幾度となく見てきた。


 報告書を持つ手へ、わずかに力が入る。

 最後まで目を通し終えると、ノアは静かに頁を閉じた。


「……どうするおつもりですか」


 ステラ陛下は青灰色の瞳で真っ直ぐノアを見つめ、小さく息をつく。


「……まず、すぐに彼の罪を咎めることはできません」


「証拠が揃っていても、ですか」


「はい」


 静かに頷くと、ステラ陛下は庭へ目を向ける。

 花壇では庭師が新しい苗を植えていた。

 掘り返された土は黒く湿り、その脇には小さな蕾をつけた苗木が並べられている。


「今の国政で彼を失えば、国は大きく揺らぎます」


 紅茶の湯気はもう消えていた。

 春の風だけが、茶卓の白いクロスをゆっくりと揺らしている。


「それを支えられるだけの力は、まだ私にはありません」


 しばらく沈黙が続く。

 やがてステラ陛下は、ゆっくりと立ち上がった。

 テラスの手すりへ歩み寄り、庭を見渡す。

 枝先には、まだ小さな蕾しかない。

 それでも、冬枯れだった庭には確かに色が戻り始めていた。


「もうじき、冬が明けます」


 風が銀色の髪をさらりと揺らす。


「けれど……」


 小さく間を置いて、ステラ陛下は続ける。


「再び冬は巡ってきます」


 ノアも席を立ち、その隣へ歩み寄った。

 二人の前には、春を待つ庭園が広がっている。


「私はこれから、国を支えられる人材を集めなければなりません」


 庭師が植え終えた苗へ、静かに水を与えていた。

 細い水の筋が土へ染み込み、陽射しを受けて小さく光る。


「一人ではなく、多くの者で支えるのです。一人が欠けただけで揺らぐようでは……」


 春風が木々を揺らし、蕾がかすかに震えた。


「この国の冬は、越えられませんから」




 二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。

 庭師たちの鋏が枝を払う音だけが、庭園のあちこちから聞こえてくる。

 やがてステラ陛下は手すりから視線を外し、ゆっくりとノアの方へ向き直った。


「ノア」


「はい」


「星冠記録官という役職を、ご存じですか」


 不意の問いに、ノアは少し考える。


「たしか……記録局ができる前に置かれていた役職ですね」


「はい」


 ステラ陛下は小さく頷く。


「建国の星冠伝説にちなみ、王の傍らで政務を記し続ける役目です。当時は星祈教の神父が、その任を担っていました」


 ノアは記録局へ入局した際に、研修で読んだ古い史料を思い返す。


 建国初期の王の傍らには、常に一人の記録者がいた。

 王命だけではなく、議会で交わされた言葉も、戦で下した決断も、すべてを書き残す者。

 それが星冠記録官だった。


「ですが、行政機構が整うにつれて、その役目は記録局へ移されました」


 ステラ陛下は穏やかな声で続ける。


「そのおかげで、記録は増えました。けれど……王のすぐ傍で、その歩みを見届ける者はいなくなりました」


 風が吹き抜ける。

 枝先の蕾が、小さく揺れた。


「彼の罪が明るみになった時……私はその役職を復活させようと思っています」


 しばらく沈黙が続く。

 庭園のどこかで、小鳥が短くさえずった。

 ノアはゆっくりと口を開く。


「一応、確認しますが……どなたを、その役職に?」


 ステラ陛下は一つ目を瞬かせて、小さく笑った。


「ノア・フェルディンという名の書記官を」


 春風がテラスを通り抜ける。

 白いクロスがふわりと揺れ、銀の茶器が陽を受けて淡く光を返した。

 ステラ陛下は静かに微笑む。


「同じような罪を犯す者が、二度と現れないように。私の傍らには、すべてを記録する者がいる……そのことを、この国へ示したいのです」


 ノアはしばらく言葉を失っていた。

 手元の報告書へ視線を落とし、再びステラ陛下を見る。

 春風が銀色の髪を揺らし、その細い前髪が頬へかかった。


「何年後になるかは分かりません」


 ステラ陛下は穏やかな声で続ける。


「その日が、本当に来るのかも」


 庭の向こうでは、庭師が新しく植えた苗へ土を寄せていた。

 まだ細い枝だった。

 花を咲かせるには、もう少し時間がいるようだ。


「ですが」


 テラスに風が吹き抜ける。

 白いクロスがかすかに揺れ、銀の茶器が陽射しを受けて淡く光を返した。


 ステラ陛下はノアをまっすぐ見つめる。


「それまで、私を見ていてください」


 ノアはその言葉を胸の内で静かに受け止める。


「……承知いたしました」


 ゆっくりと顔を上げ、言葉を続ける。


「陛下が何をご覧になり、何を考え、何を選ばれたのか。成功も、失敗も。一つ残らず、私が記録します」


 その答えを聞き、ステラ陛下は柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます」


 庭を渡る風が、枝先の蕾を揺らす。

 冬を越えた木々は、まだ花を咲かせてはいない。

 その蕾が花開く日を、誰も急ぐことはなかった。




【後に、この年は「冬明けの年」と呼ばれることになる。


 星歴三二八年。

 幼き女王ステラ・ゼフィールは、一つの冬を越えた。

 春の庭園で交わされた約束は、後に星冠記録官復活の始まりとして語られる。


 そして私は、あの日の約束どおり、今日も筆を執る。

 王が何をご覧になり、何を考え、何を選ばれたのか。


 そのすべてを、記し続けるために。


 ―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】


たくさんのご愛読、ありがとうございました。

またいつか、彼らの物語を書き記せる日を願っています。

―――月森みのり



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