第四十二話 雪解けの盟約
人を信じ、託す力が、新たな時代への道となる――
【王は、すべてを一人で背負う者ではない。
それぞれの役割を託し、共に歩むことで国を未来へ導く者である。
一人の力では届かぬ場所も、重ねた想いが道となる。
その道の先に、新たな時代が築かれていく。
――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
朝の陽光が、王城の白い石壁をやわらかく照らしていた。
中庭では庭師が刈り込んだ枝を束ね、噴水の水音が静かな空気に溶け込んでいる。
冬の名残を残した風が回廊を抜け、掲げられた王旗をゆるやかに揺らした。
執務棟では、朝早くから文官たちが慌ただしく行き交っている。
ノアは記録帳を抱えたまま、その流れを縫うように歩いた。
執務室の扉を叩く。
「失礼いたします」
「どうぞ」
部屋へ入ると、窓際ではロザリン外務卿が数枚の書状へ目を通していた。
向かいではガイウス宰相が机へ両手をつき、文官から報告を受けている。
その奥では、ステラ陛下が小さな机へ向かい、一枚の書類へ静かに署名を記していた。
羽根筆が止まる。
砂を振り、余分な墨を払うと、署名の入った書類をそっと閉じた。
「こちらでよろしいですか」
侍従長エリオットが受け取り、内容を確かめるように一度だけ目を落とす。
「はい。共同研究に関する覚書、これで完成でございます」
書類は革製の筒へ収められ、封蝋が押された。
ガイウスが視線を上げる。
「公国側も、まもなく到着いたします」
ロザリンは机上の予定表を閉じた。
「昼には調印を終え、その後、祝宴となります」
ステラ陛下は窓の外へ目を向けた。
中庭では白いテーブルクロスが運ばれ、庭師たちが花壇へ最後の手入れを施している。
春を迎える準備は、王城のあちらこちらで静かに進んでいた。
王城中央棟、大謁見の間。
高い天井から吊るされた銀の燭台が淡く輝き、磨き上げられた白い床へ光を落としていた。
左右には両国の旗が並び、その中央に長机が据えられている。
机上には二通の盟約書が置かれている。
やがて、扉が開かれた。
「アルヴェイン公王、ご入場」
先導の声とともに、公王が姿を現す。
濃紺の礼装に身を包み、ゆったりとした足取りで歩く姿には、公国を束ねる者らしい落ち着きがあった。
その半歩後ろには交易卿セドリック。
さらに医局長アーロンをはじめとした公国側の随員が続く。
反対側の扉も開かれた。
「アステリア国王、ご入場」
ステラ陛下が姿を現す。
白銀の礼装の裾が床を静かに滑り、胸元には王家の星章が輝いていた。
隣には宰相ガイウス。
一歩後ろには外務卿ロザリン、そして白衣の上から正装用の外套を羽織った医局長ミレーユ・アスターが歩く。
ノアは壁際から、その様子を記録帳へ書き留めた。
双方が机を挟んで向き合うと、文官が協定書を開く。
「共同研究協定書。内容に相違ございません」
公王エヴァルドが一度だけ文面へ目を通し、羽根ペンを手に取る。
続いてステラ陛下も羽根ペンを受け取り、小さな手で署名を書き添えた。
それぞれの国章が運ばれる。
赤い蝋へ印章が静かに押し当てられると、小さく乾いた音が広間へ響いた。
「これをもちまして、アステリア王国とアルヴェイン公国による星泉共同研究協定は、正式に締結されました」
文官が協定書を高く掲げる。
広間に一瞬の静寂が落ち、やがて拍手が広がる。
ロザリンは小さく息をつき、ガイウスは腕を組んだまま協定書を見つめている。
セドリックは隣の公王へ静かに一礼した。
その一方で、ミレーユとアーロンは互いに視線を合わせて、頷き合う。
窓から差し込む冬の日差しが、机上の二通の盟約書を静かに照らしていた。
昼を過ぎる頃。
王城西棟の大広間では、共同研究の締結を祝う小さな祝賀会が開かれていた。
広間の入口ではリアが警備に当たり、周囲へ静かに目を配っている。
その傍らを、書類を抱えたユリアが軽い足取りで駆け抜けた。
「リアさん、追加の来賓名簿です」
「ありがとう」
短いやり取りを交わすと、ユリアは次の仕事へ向かっていく。
招かれた貴族や官僚、医局の関係者たちは、小さな輪を作って言葉を交わしている。
窓際ではミレーユとアーロンが一枚の資料を挟み、早くも症例数や観察記録について話し合っていた。
傍らでは若い医官たちが熱心に耳を傾け、時折手帳へ書き留めている。
「ずいぶん話が弾んでいますね」
ノアが小さく呟くと、ロザリンが穏やかに笑った。
「医師という方々は、研究熱心な方が多いですから」
視線の先では、先ほどまで外交の席にいた者たちが肩書きを忘れたように資料を囲んでいる。
広間の中央では、ステラ陛下が一人ひとりへ丁寧に挨拶を重ねていた。
共同研究という一つの成果を経て、彼女の言葉に耳を傾ける者が少しずつ増えている。
その様子を、ガイウスは柱の陰から静かに眺めていた。
杯には手を付けず、表情も変えない。
ただ、会場全体を見渡す灰色の瞳だけが、人の流れを追っていた。
人垣の向こうから、紺色の礼装姿のルシアンが現れた。
彼は人波を縫うように歩み寄ると、ステラ陛下の前で静かに一礼した。
「陛下」
「ルシアン伯爵」
ステラ陛下も穏やかに頷く。
近くにいた貴族たちは二人の様子を見ると、自然と半歩ほど距離を空けた。
ステラ陛下は真っ直ぐルシアンを見上げる。
「このたびは、ご尽力いただきありがとうございました」
ルシアンはゆるやかに首を横へ振った。
「私は商人として道を示したに過ぎません。道を選ばれたのは、陛下です」
そう答える声は、いつものように穏やかだった。
「それでも、私は感謝しています」
ステラ陛下は小さく笑う。
「交渉だけではありません」
彼女は広間へ視線を巡らせる。
公国の医官と王国の医官が資料を囲み、港湾関係者たちも互いに言葉を交わしている。
「今日、このような場を迎えられたのも、あなたが橋を架けてくださったからです」
ルシアンもその視線を追う。
広間には笑い声が交わり、銀器の触れ合う音が静かに響いていた。
「確かに、橋は架かりました……ですが、橋は架けて終わりではありません。手入れをして、渡り続けなければ、いずれ朽ちます」
その言葉にステラ陛下は静かに頷いた。
「はい。だから、これからですね」
「ええ」
その時、近くを給仕が通り過ぎ、葡萄酒の入った杯と果実水の杯を銀盆に載せて運んでいく。
弦楽器の旋律が一段穏やかな調べへ移り、広間の空気も少しだけ和らいだ。
ルシアンは改めてステラ陛下へ向き直る。
「陛下」
彼はわずかに声を落とす。
「ご無理は、されておりませんか」
ルシアンの問いに、ステラ陛下は少しだけ視線を落とした。
手にしていた果実水の杯へ目を向け、小さく息をつく。
「少しだけ、慌ただしい日が続いておりますね」
その返答にルシアンは目を細め、問いを重ねる。
「……宰相閣下も、厳しい方だと伺っています」
その言葉に、ステラ陛下は広間の反対側へ視線を向けた。
柱の近くでは、ガイウスが数人の貴族と言葉を交わしている。
表情は変わらず、頷きも最小限だった。
「確かに、彼はとても厳しい方です」
ステラ陛下は小さく微笑む。
「ですが、彼が私に厳しいからこそ、納得される方もいます」
ルシアンは青灰色の瞳をしばらく見つめて、やがてゆっくりと頷いた。
「陛下は、宰相をずいぶん信頼しておられるのですね」
ステラ陛下は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、杯を持つ手にわずかに力を込めた。
「……彼の役目を、信じているのです」
ルシアンはその言葉を反芻するように頷き、しばらく黙っていた。
やがて、彼は会場の隅へ視線を向ける。
「もしお疲れになることがございましたら、良い場所がございます」
ルシアンは窓辺へ歩み寄り、その向こうに広がる庭園へ目を向ける。
「こちらをご覧ください」
ステラ陛下も隣へ並ぶ。
淡い日差しを受けた庭園の奥には、硝子張りの温室が静かに佇んでいた。
陽光を映す硝子の向こうには、季節を忘れたような緑が広がっている。
ルシアンは温室へ視線を向けたまま、小さく笑う。
「セレナ殿下も、こういった行事の際は、時折あちらでお休みになっておられました」
ステラ陛下は温室を見つめる。
「お姉様が……?」
「ええ、何度かお見かけしました」
風が庭木を揺らし、硝子へ枝葉の影を映した。
ルシアンは穏やかな口調で続ける。
「静かで、人もあまり来ません。あのような場所で、少し肩の力を抜かれるのもよろしいかと」
ステラ陛下は温室を眺めたまま、小さく頷く。
「……覚えておきます」
窓の向こうでは、冬の日差しを受けた温室が静かに輝いていた。
広間から流れてくる弦楽器の音色だけが、穏やかに二人の間を満たしていた。
やがてルシアンが視線を温室から戻し、ステラ陛下へ向き直る。
「そういえば、今回の共同研究にあたり、私へ褒賞をご用意くださると伺いました」
ステラ陛下は頷く。
「はい。まだ正式には決めていませんが、お渡ししたいと考えています」
ルシアンはわずかに笑みを浮かべる。
「商人にとって、褒賞ほど扱いに困るものはありません」
ステラ陛下が首を傾げた。
「そうなのですか」
「ええ」
ルシアンは苦笑しながら肩をすくめる。
「受け取れば、恩義になります。断れば、ご厚意を無にすることになります……どちらも、商いではあまり好ましくありません」
ステラ陛下はその言葉を静かに聞いていた。
広間では誰かの笑い声が上がり、乾杯の杯が軽く触れ合う音が響く。
その賑わいとは対照的に、窓辺だけは穏やかな空気が流れていた。
「それなら……」
ステラ陛下はゆっくりと口を開く。
「褒賞ではなく、取引にしましょう」
ルシアンの目がわずかに細められる。
「取引、ですか」
「私はこれからも、あなたの力を頼ります。ですから、あなたにも私へ望むことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
窓から差し込む光が、ステラ陛下の銀髪を柔らかく照らしていた。
「互いに必要なものを差し出す。それが、商人のやり方なのでしょう?」
ルシアンはしばらく言葉を返さなかった。
やがて静かに口元を緩める。
「ええ、その通りでございます」
ルシアンは静かに笑みを浮かべたまま、しばらく窓の外を眺めていた。
庭園では庭師が低木を刈り込み、温室の硝子には午後の陽光が柔らかく映っている。
やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「一つ、お尋ねしても?」
「どうぞ」
ステラ陛下は頷く。
ルシアンは一度だけ言葉を選ぶように視線を落とした。
「……なぜ、そこまで私を買ってくださるのですか」
広間から拍手が聞こえる。
どうやら別の卓で、新たな乾杯が交わされたらしい。
その音を背に、ステラ陛下は静かにルシアンを見上げた。
「私は、記録や数字を見る目を側に置いています」
そう言って、広間の方へ目を向ける。
文官たちの輪の中では、ノアがミレーユへ何かを説明していた。
手元の資料を示しながら話す姿は、書記官らしく落ち着いている。
「王城の中だけを見るなら、それで十分です」
ステラ陛下は静かに言って、視線を再びルシアンへ戻す。
窓の外では、一台の荷馬車が城門をくぐっていく。
商人らしき男が御者へ何か声を掛け、荷の縄を締め直していた。
「ですが私は、王城の外のことも見なければなりません。現場を見る目が必要です」
穏やかな声に、ルシアンは静かに息を吐いた。
「……だから、私のような商人を味方につけようとしておられるのですね」
その言葉に、ステラ陛下は小さく首を振った。
「商人だけではありません」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
庭園の向こうでは、温室の硝子が午後の光を静かに映していた。
「医師も、職人も……この国を支えてくださる方を、私はもっと増やしたいのです」
ルシアンは黙って耳を傾けている。
広間では弦楽器の音色が流れ、談笑の輪がゆっくりと広がっていた。
祝賀の席に集う人々を見渡しながら、ステラ陛下は静かに続ける。
「国は、一人では動きません」
細い指先が窓辺の縁へそっと触れる。
その視線は、庭園の先ではなく、広間に集う人々へ向けられていた。
「それぞれの立場で、この国を支えてくださる方がいるからこそ、国は前へ進めます」
ルシアンはその横顔を静かに見つめた。
やがて、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「……だから私にも、その一人であれと」
「はい、頼りにしています」
ステラ陛下は迷いなく頷いた。
ルシアンはゆっくりと息を吐く。
窓の向こうでは、一羽の白い鳥が温室の屋根をかすめ、青空へ舞い上がっていった。
「承知いたしました」
その声は静かだったが、先ほどまでよりも確かな響きを帯びていた。
広間では、再び杯の触れ合う澄んだ音が響き、祝宴はなお穏やかに続いていた。
窓辺を離れた二人は、再び祝宴の輪へ戻っていった。
広間では楽団の演奏が続き、人々の笑い声が高い天井へ穏やかに響いている。
長卓には各地の料理が並び、給仕たちは銀盆を手に静かに行き交っていた。
ロザリンはアルヴェイン公国の文官たちと地図を囲み、今後の往来について言葉を交わしている。
少し離れた席では、ミレーユとアーロンが書類を広げ、薬草の産地や研究施設について話し合っていた。紙へ走る羽根筆の音が、ときおり演奏の合間へ溶け込む。
広間の入口ではリアが静かに周囲へ目を配り、祝宴の賑わいの中でも警備の手を緩めることはなかった。
その脇を、追加の書類を抱えたユリアが軽い足取りで通り過ぎ、文官へ手渡すと、次の用件へ向かって小走りに駆けていく。
広間の中央では、ステラ陛下が公王と言葉を交わしている。
その傍らにはロザリンが立ち、少し離れた場所ではルシアンが穏やかな笑みを浮かべながら杯を傾けていた。
窓の外では、冷たさを和らげ始めた風が、王城の旗を大きくはためかせた。
その音に重なるように、広間では新たな乾杯の声が響いた。
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