第四十話 新たな航路へ
人を支える力が、やがて国を支える力となる――
【病を癒すことは、一人を救うことではない。
その人が再び立ち、働き、誰かを支えられる未来を取り戻すことである。
国は人によって動き、人は信頼によって結ばれる。
新たな航路は、いつもその先に開かれる。
――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
重厚な木扉が静かに閉まる。
外の喧騒は遠ざかり、代わりに薬草の香りが鼻先をくすぐった。
石造りの広い廊下には、淡い朝の光が高窓から差し込んでいる。
壁際には木製の長椅子が並び、診察を待つ人々が静かに腰を掛けていた。
咳を押し殺す老人。
母親の腕に抱かれた幼い子ども。
厚い外套をまとったまま、壁にもたれて目を閉じる青年。
その間を、白衣姿の医師や職員たちが足早に行き交っていた。
「こちらです」
セドリックの案内で進む廊下には、薬草の香りが微かに漂う。
階段を上ると、一階よりも人通りは少なくなった。
廊下の突き当たりに、一枚の木扉がある。
セドリックが二度、軽く扉を叩いた。
「医局長、アステリア王国の使節をお連れしました」
「入ってください」
内側から低い声が返り、セドリックは扉を開く。
室内には本棚が壁一面に並び、医学書や記録書が隙間なく収められていた。
窓際には乾燥させた薬草が束ねられ、机の上には診療記録や薬瓶が整然と置かれている。
その奥から、一人の男性が歩み寄った。
五十代ほどの男だった。
白髪の混じった黒髪を後ろへ流し、白衣の袖を肘までまくっている。
整えられた服装ではあるが、手には薬草の粉がわずかに残っていた。
セドリックが男を紹介する。
「こちらが公立医局長、アーロン・ヴァルターです」
「ようこそお越しくださいました」
アーロンの声は、落ち着いた低い響きを帯びていた。
ルシアンも礼を返す。
「ルシアン・ヴェルクです。本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
アーロンは小さく頷いた。
「さっそくですが、病棟をご案内いたします」
アーロンの後に続き、ノアたちは再び廊下へ出た。
建物の中は、奥へ進むほど人の気配が増していく。
「こちらが一般病棟です」
広い室内には、いくつもの寝台が並んでいた。
窓から差し込む光が白い布団を淡く照らし、壁際には薬草や器具が整然と置かれている。
数人の患者が横になり、医師や看護担当者が順番に診察を行っていた。
ルシアンは病棟全体を見渡した。
「患者は増えているようですね」
アーロンは歩みを止めずに答える。
「ええ。季節性の病や港での負傷……そして長期的な治療を必要とする病もあります 」
「……星喰い病も、その一つですか」
ルシアンがわずかに目を細める。
アーロンはその問いに頷いて、さらに奥へと進む。
「こちらでは、専門の診療区画を設けています」
一般病棟とは少し離れた場所に、別の区画があった。
扉の横には、『星喰い病診療室』と書かれた簡素な札が掛けられている。
寝台の数は多くない。
だが、一人ひとりに十分な空間が確保されていた。
患者のそばには家族が座り、医師がゆっくりと言葉を掛けている。
アーロンはその様子をしばらく見つめた後、ルシアンに視線を向ける。
「星喰い病については、アステリア王国の研究が最も進んでいると聞いております」
「ご存じなのですね」
「医療に国境はありませんから。学会での報告や研究資料を通じて、こちらにも情報は届いています」
アーロンはそう言いながら、診療室の奥へ目を向ける。
「ですが、我々が向き合っている問題は、治療法だけではありません」
その視線の先では、若い男性が窓際の椅子に座っていた。
傍らには杖が立て掛けられている。
「病を治した後、その人が以前と同じ生活へ戻れるのか」
「……」
「そして、その間、家族や周囲がどれだけ支え続けられるのか」
アーロンの言葉を聞きながら、ノアは窓際の患者へ目を向ける。
「一人が病に倒れる……その影響は、その人だけでは終わらないのですね」
アーロンは頷いて、廊下の先へ目を向ける。
「病は本人だけでなく、支える者にも負担を残します。それが積み重なれば、街全体の力にも影響するでしょう」
しばらく沈黙が続いた。
遠くで、薬を運ぶ職員の足音が響く。
ルシアンは診療室を見渡した。
「医師や看護を担う者の数は足りていますか」
その問いに、アーロンはすぐには答えなかった。
近くを通った若い医師へ目を向ける。
その医師は疲れを隠すように微笑みながら、患者へ声を掛けていた。
「……十分とは言えません」
アーロンは静かに答える。
「港も、造船所も同じでしょう。足りないからといって、止めることはできない……残された者が、支えています」
その言葉に、ノアは朝から見てきた光景を思い返した。
荷を支えた年配の作業員。
若い職人を見守る老人。
そして、患者の傍らに立つ医師。
場所は違っても、同じように誰かが誰かを支えていた。
再びルシアンが尋ねる。
「こちらでは、星泉はどのように認識されているのですか」
「……情報としては把握しております」
アーロンはわずかに視線を伏せて続ける。
「星泉研究は、近年、各国の医療関係者の間でも注目されています。特に、星喰い病への新たな治療の可能性については、多くの報告がされています」
「実際に扱ったことは?」
「ありません。星泉は、まだ実用化された薬ではないと理解しています」
その言葉に、ルシアンは穏やかに頷いた。
「安心いたしました」
アーロンが視線を上げる。
「安心、ですか」
「ええ」
ルシアンは室内を見渡した。
「医療に関わるものほど、目先の利益だけで扱われるべきではありませんから」
「……同感です」
アーロンは口元を緩めた。
やがて医局を出ると、昼の潮風が三人の間を通り抜けた。
昼を迎えた港町は、朝にも増して人の往来が多い。
市場では店主たちの呼び声が響き、荷車が石畳を軋ませながらゆっくりと進んでいた。
セドリックは先頭を歩き、ときおり道行く人へ軽く会釈を返す。
「セドリック様、先日の荷の件ですが……」
「ああ、確認しておきます」
「ありがとうございます」
短いやり取りを交わし、セドリックは再び歩き出した。
その様子を見ていたルシアンが口を開く。
「街の方々から信頼されているのですね」
セドリックは少しだけ笑った。
「そうでしょうか」
「ええ」
ルシアンは市場へ視線を向ける。
「港でも医局でも、皆が自然に声を掛けていました」
しばらく歩いた後、セドリックが口を開く。
「以前、私は港を帳簿の上だけで見ていました。入港数や荷の量ばかり追っていたのです」
市場の奥で荷役夫たちの掛け声が重なる。
「現場へ出るようになってからでしょうか。数字が増えれば済む話ではないと知りました」
潮風が通りを抜け、店先の旗が揺れた。
セドリックは港の方へ目を向ける。
「あの港を、この先も動かしていきたいのです……そのために、星泉が人を支える力になるのではないか、と考えています」
「……そのお考えは理解できます」
ルシアンは穏やかに頷く。
「ですが、薬となれば話は別です」
「承知しています」
「午後は、その辺りも含めてお話しできればと思います」
「ええ。よろしくお願いいたします」
迎賓館の門が見えてくる。
門番が扉を開き、三人は中へ入った。
港町の喧騒だけが、変わらず背後に残っていた。
迎賓館の会議室に戻ると、微かな緊張が漂っていた。
長机には資料が整然と並び、窓の外では港へ出入りする船の帆がゆるやかに揺れている。
セドリックはルシアンへ向き直った。
「改めて、本日はありがとうございます」
「こちらこそ」
彼らの傍らでノアは手帳を開き、羽根筆を滑らせていく。
セドリックが口を開く。
「昨日も申し上げましたが、公国としては、今後もアステリアとの交易を深めていきたいと考えています。その中で、星泉にも関心を寄せています」
彼は資料へ視線を落とす。
「とはいえ、現時点で独占的な権利をお願いするつもりはありません」
ルシアンは小さく頷いて、尋ねる。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「公国が星泉に期待される理由は、医療だけでしょうか」
その問いにセドリックは少し考え、窓の外へ視線を向けた。
「……医療は、大きな理由の一つです」
遠く、港で荷を積み込む掛け声が聞こえる。
「ですが、それだけではありません」
セドリックはゆっくりとルシアンへ向き直る。
「星泉に期待しているのは、人を救いたいからでもありますが……あの港を止めたくないからでもあります」
「……」
「働く人が失われれば、港は止まります。そしてそれは……この国の商いが止まることに等しい」
彼は短く息をつく。
「だから私は、星泉を医療の話だけとは考えていません」
ルシアンはゆっくり頷いた。
「よく分かりました」
そして、穏やかな口調で続ける。
「星泉に関するご提案については、王国として協議を重ねた上でお答えすることになります」
「承知しております」
ルシアンは資料へ目を落とした。
「ですが、医療や研究の面で協力できることがあるのなら、その道は探る価値があるのではないか、と私は考えています」
セドリックの表情が少し和らぐ。
「ありがとうございます」
「ただ……研究の内容も、使用目的も、管理の在り方も、互いに開示されていること。それが絶対条件になるかと思います」
「ええ、それは当然でしょう」
セドリックは迷わず頷いた。
「交易とは、品を運ぶだけではない……信頼もまた、海を渡るものですから」
窓の外では、一隻の船がゆっくりと港を離れていく。
「その航路を、両国で築いていければと思います」
そう言って、セドリックは新たな資料を机の上へ広げる。
港町の午後は、静かに次の流れへと動き始めていた。
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